☆無我なのか真我なのか☆ [無断転載禁止]©2ch.net
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自我執着がなくなったらどうなるのか…
人間の本質とは何なのか…
そろそろ結論を出そう >ゴーダマ・シッダルタによると「我は無なり」
>と言うことから「色即是空」おける「空」と
>考えられている。
>ブラフマンを仏教では「色即是空」おける
>「色」と考えられている。
ブログ主は、アートマン=空、ブラフマン=色と捉えている。
捉え様がないものを言語で仮設したものが空であり、また、仏陀は無(非)我を説いた。 > 悟りを得た人のみが見ることのできる
> ニルバーナは実際には場所だと勘違い
> している人が多いが正確には「異界」
> のことでこの世に有りながら垣間見る
> 事の出来るもの、と考える事ができる。
オカルトだね。 【聖母マリア出現】ファティマ第三の予言が明らかになった!!【SPEC】
http://fate.2ch.net/test/read.cgi/spiritual/1503930220/
151 THISMAN ◆rfvLewovkA
でも、考えてみてよ。死後の世界に帰って来る人達が
いつまでも居ないことには、説教も始められないのよ。
あの世で待っている人達がいつまでも宗教を終わらせないよう、
あの世で待っている人達がいつまでも説教を終わらせないよう、
この世には記憶がない状態で人が生まれてくるんだよ。
毎年、生まれる赤ん坊がもし、日本で二人位しか居なかったら、
あの世の宗教家も、どうやって喧嘩をさせたらよいか解らない位だよ。
傍にいて、「早く喧嘩をしろ、あとで喧嘩をしない平和な気持ちを教えてやるから」と
云っても、なかなか喧嘩をしてくれないというか、二人を出逢わせる為に大変だろうね。 中国で生まれた禅宗には、先に触れた老荘思想の影響か、梵我一如化の傾向を感じます。
仏性(ぶっしょう)という考えは、「一切有情悉有仏性」という表現で示されるように「仏となるべき本性」であり、
「わたしの中にある肯定すべき本来の私」、すなわちアートマンとほとんど同意ですが、大乗仏教では広く見られ、禅宗も例外ではありません。
もっと分かりやすい事例を挙げると、唐の時代の有名な禅僧、臨済義玄は、『臨済録』に「赤肉団(心臓)の上に一無位の真人がいる」「随処に主となれば、立処皆な真なり」という言葉を残しています。
一無為の真人とは、アートマンそのものですし、「随処に主となる」というのも、第一原因たる主体であろうとすることでしょうし、自由不羈のアートマンであろうとすることだと思います。
釈尊の無常、無我、縁起の考えとは相容れません。(詳細は、『禅思想の批判的研究』松本史朗著 大蔵出版を参照)
http://mujou-muga-engi.com/honron/shitai/dou/jou/ >>500
まだこんな変な論文引き合いに出してくるとはw
松本さんは正師に参じて見性を許された方じゃ無いでしょw
体験無しに字面だけ追って憶測で梵我一如云々と決めつけるならなんでもありだわwww >>501(続き)
>>500
> 一無為の真人とは、アートマンそのものですし、
いや、違うってw、一無「位」だよwww
しいて言うなら、アートマンは否定によってしか表せない「有」位の真人、臨済のそれは「無」位なw
龍樹の言う四句否定と変わらんよ。
公案貰う時「有に非ず、無に非ず」と言われるからw >>502(続き)
>>500
> 「随処に主となる」というのも、第一原因たる
> 主体であろうとすることでしょうし、自由不羈
> のアートマンであろうとすることだと思います。
いや、これも違うわw
真空妙有(用)、無位の真人が自由な働きをなすが、肘外に曲がらずで、不自由ままに自由なんですわ。 禅に対する体験や知識が無いのに、語録の字面だけ追ってたら、例えば、「殺仏、殺祖」とかどーなるの?
「富士山をここに呼んでこい」とかなw
アホ過ぎる。 >>500
>・・・・・。釈尊の無常、無我、縁起の考えとは相容れません。(詳細は、『禅思想の批判的研究』松本史朗著 大蔵出版を参照)
何の宗教体験もなく、単に言葉の上だけで仏教を学んでいる愚か者だけがそのような
ことを考えてしまうのです。
宗教体験があれば、真実の世界は決して言葉では表わせないもので、全ての表現は
それを読む者を真実の世界に引き入れる為の方便に過ぎないことがわかるのです。
それがわかるから、原始仏教が大乗仏教に発展していった理由も理解できるのです。
体験のない者は言葉で表わされた世界が真実だと勘違いしてしまう為に、表現の違い
に惑わされて 「原始仏教と大乗仏教は違う」、「この教えとあの教えは違う」などと
考えてしまうのです。
宗教体験のない者が書いた仏教書ほど無意味で有害な書物はないと言ってよいでしょう。 最晩年の釈尊は、悪魔から「もう死ぬべき時だ」と誘われた時にこのように答えます。
「わが修行僧であるわが弟子たちが、・・・みずから知ったことおよび師からおしえられたことをたもって解説し、
説明し、知らしめ、確立し、開明し、分析し、闡明し、
異論が起こったときには、道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説くようにならないならば、その間は、わたしは亡くなりはしないであろう。」
(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳 岩波文庫)
この言葉も、無念無想の無分別知とは正反対の、言葉によって分析し合理的論理的に説明し伝えるという姿勢をはっきりと示しています。
禅宗の不立文字の伝統とは正反対です。 >>506
こりゃ又禅に対する体験や知識が無いのに不立文字を騙ってるねぇw
真理そのものは言葉で表現出来ない旨のスタンスは禅だけでなく仏教全般(一部除く)でしょうがw
求道者のあり方や著作物については、むしろ禅宗が圧倒的に多いと思うけど?
また、公案を通して理や事を明らかにしたり、漢詩や俳句、著作物にて合理的、論理的に説明しているのも、禅宗に多いと思うけど?
あんた、実参もせんで想像で禅宗を語るんだったらなんでもありだわwwww
話にならんわw タイのブッダダーサ比丘(Buddhadasa Bhikkhu、タイ語ではプッタタートとも)は、
『Handbook for Mankind』という冊子で定についてこんなことを言っています。(英文からの曽我による訳)
「言葉を替えれば、それ(正しい定のあり方)は、働くのに適したものであり、(知るべきものを)まさに知らんとするものである。
これが目指すべき定の程度であって、気づき(念)のない、石のように固まって座る深い定ではない。
このような深い定で座るなら、なにものをも詳しく観察することはできない。
これは(念のない)不注意の状態であり、慧の役には立たない。
(それどころか)深い定は、慧の修行に対する主要な障害のひとつである。内省の修行のためには、まずもっと浅い定のレベルにもどらねばならない。
そうすれば心が得た力を使うことができる。
高度に開発された定も、(完成の境地や目的ではなく)(慧の修行のための)道具に過ぎない。」
「深い定によってもたらされる幸福感や安らぎあるいは無分別を、完全な苦の滅尽であるとする間違った理解は、
釈尊の時代にも多くみられたし、現代においても依然として喧伝されている。」 >>508
はいはいw
禅宗でも同じですからw
>「深い定によってもたらされる幸福感や安らぎあるいは無分別を、完全な苦の滅尽であるとする間違った理解は、釈尊の時代にも多くみられたし、現代においても依然として喧伝されている。」
禅宗でもそれは魔境とされてますからw あー、禅宗の祖師方の言葉は劇薬みたいなもんもありますから、禅に対する体験や知識無しに解釈すると、野狐って言葉もあるように、変な方向に行くかもねw お釈迦様は
真実は言葉では表現できない
なんてこと言ったの? >>511
吹いたwww
「真実と真理は全く違う」などと、余りにも当たり前過ぎた事は、お釈迦様もいちいち言わんかったろうねw 真理そのものは言葉で表現出来ない
↓
真実は言葉では表現できない
この二つの文章は同じか、違うか?
仏教云々以前に、そこから考察してみようね^_^ >>505
>宗教体験があれば、真実の世界は決して言葉では表わせないもので、全ての表現は
>それを読む者を真実の世界に引き入れる為の方便に過ぎないことがわかるのです。 宗教体験をして分かったこと。
うんこは口からは出てこない。 偉大なジャンキー様に皆の衆、ひざまずくのじゃーーー笑。
68 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 05:51:16.64 ID:wfppEgVn
一度でも良いから自殺する位苦しんで座り抜いて来いや?
解って大歓喜を味わってみろや?
涙が止まらなかったぞ?
笑いが止まらなかったぞ?
悟りを舐めてるわ、マジで。
華厳経の世界をリアルで体験して来いや?
一念三千の世界をリアルで体感して来いや?
何の苦労もなしに何が悟っただ、ただの異常心理か嘘だろ? >>519
それはポッたんという覚者を騙る紛い物に対して書いた文章を、でおーという、これまた覚者を騙る紛い物が、悪意を持って一部抜粋して何百回もコピペしているもんです。 真理って言葉を語る人間でまともな奴を見たことがない 知る主体は孤独
きちがいなら人間で、まともなら…
笑うのは心
誰もいない
自分が笑ったと思うとかね
人の気持ちが解るとかね
きちがい病
でもぶっ国土は始めからここにある
見いだせ
好きと嫌いは同じものだ
そこにある愛?が
見えない訳がない
だってそれってわたしじゃん
見いだせ 偉大なジャンキー様に皆の衆、ひざまずくのじゃーーー笑。 自我(エゴ)の中にある(であろうと期待される)本質としての真我のことを言っているのか、
自我(エゴ)を脱ぎ捨てた状態のことを言っているのか、による。
後者であれば、言葉のうえで無我と言っても、真我と言っても、たぶん同じではないかと思っている。 ただし、涅槃については四諦八正道、つまり仏道を通して到達する他ないだろうと思っている。 その問いは、自我を起点とした発想から出てくるものだから、実は問い自体が不適切なんじゃないかな。
その発想の延長線上には答えがないから、瞑想するわけでしょう。 >>528
君が道を歩いている時に、誰かが後ろから君の名前を呼んだら君は振り返るでしょう?
お釈迦さまも同じで、振り返ります。
その振り返る主体が無我を知ったり知らなかったりするのですよ。
無我だから名前を呼ばれてもわからないということはありません。
何もわからなくなるのは単なる忘我であって、無我と忘我は全く異なるものです。 >>528
「観測者」は「観測者」でしかないでしょ?
むしろ、なぜ、
「観測者」=「我」
という等式が、
《無批判に》 《無謬の》 《前提とされる》 理由
の方が不思議な事ではありませんか? >>530さんの見解も、>>531さんの見解も
梵我一如が前提になっているかどうか?で受け取り方が違ってくる様に感じますが、如何でしょうか >>532
「梵我一如」も、梵(ブラーフマン)と我(アートマン)を如何に定義するかによって、その内容は
どのようにでも変わります。
「梵我一如」を中心思想とするヴェーダーンタ学派の覚者であったタゴール父子は、「無我」を説いた
お釈迦様を崇拝していたことで有名です。
真理は言葉を超えているので、「悟りの意識」を実体視するかしないかは本質的な問題ではありません。
それらは人々を導くための説明に過ぎないからです。
仏教の唯識学派でも有形象唯識(有相唯識)派と無形象唯識(無相唯識)派があり、前者は
「悟りの意識」を実体視しています。それは、そのように説明する方が人々が悟りを得やすいと考える
からであって、どちらか一方だけが正しいということではありません。
そもそもが、「無我」という概念は「有我」(凡夫の考え方)を否定する言葉であって、「迷い」から
「悟り」に入る境界点での認識です。悟りの世界に入ってしまえば、もう「無我」も意味はなくなります。
(「有我」という対立概念なしに「無我」を考えることは出来ないからです。)悟りに入った後は、
「無我」も迷いの中にある人を教え導くための概念でしかないことになります。
(四聖諦なども同じで、あくまで悟りに至るまでの話に過ぎません。)
「悟り」の世界そのものは言葉を超えた世界なので、もはや無我うんぬんも、縁起うんぬんもないと
言わなければならないでしょう。 西洋では存在論者が認識論者に弓矢を構え「目を瞑れ、さすれば矢も存在しまい」と言ったとか言わなかったとか 無、という名前の自分がいる。
真理、と言う名前の自分がいる。
バカという名前の自分がいる。
眠っていると、忘我、という名前の自分となる。
簡単である。 ブッダ>サーンキャ哲学
∴無我が正しい
しかし輪廻転生が在ると仮定すると、「輪廻する主体」在り、という話になるので、
真我を認めざるを得なくなる。 >>541
自我自体は生きてるあいだも、(その性質として)ずっと無我でしょ。
自我を生みだす業があるだけで、自我は、生きていようが、死んでいようが、常に(その性質は)無我。
輪廻の主体というのは、頭で考えているから(自我の内部に生じる、自我の思いつきだから)、坐禅で
思考の外側に飛び出さないと、実感としては分からないと思うよ。 思考というのは、自我の内部に生じる現象だから、
自我の外側から自我を見た時に、自我が無我だなということは分からない。
構造的に無理なのね。 例えば、ほとんどの人は、「テレビに出てみたい」という気持ちを持っていたとしても、実際に交差点あたりでテレビカメラが撮影していて、テレビ局の人が三人ぐらいウロウロしていたりすると、カメラを避けたくなるものです。実際、私自身でもそうなります。
「ここでテレビに出れば、一つのパブリシティとなって、無料で広告になるかな」と思ったりするものの、交差点で大川隆法がインタビュアーに捕まって、ろくでもない話をしたらどうですか。
「これから、どちらに行かれるのですか」という質問に対し、「ええ、ちょっとそこまで、お腹がすいたので、ラーメンを食べに行きます」などと答えているところをテレビ番組に流されたら、全国の信者はがっかりしてしまうでしょう。
もう少し高等な質問で迫ってもらえればよいのかもしれませんが、なかなかそうはいきません。
このように、テレビ局の人が「テレビに映したい」と思っていても、やはり、たいていは断られるものなのです。
go
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1414259356/643 仏教者の多くというのは「縁起」と永遠性の、
要するに、「恒久」「不死」「永遠」「永久」「永劫」「不滅」...
といったものとの関係についての理解を失敗してるのです。
だから、「仏性」を説いて如来蔵思想を展開するに至ったヒンドゥー化の大乗と
南方仏教の説く縁起とは矛盾するものとして混乱してるのです。
これは数百、いや無我の間違いと同じく二千年来、こうしてずーと混乱を続けてるのです。
ハテ、理解に悩む平均的仏教徒らは、果たして「縁起と仏性」のどちらの方を最終的に選択するでしょうかね????? 中道だから、結論に至る道は人それぞれ。
タイミングもひとそれぞれ。 >>544
あなた自我が大好きですね。
大好きな自我を前提に無我を考えているから間違う。
妄想を止めて五蘊を眺めてみれば、自我は存在しえないことに気づく。
無我以外ありえない。自我は前提になりえない。 言葉での表現が正確でないだけで、言わんとしていることは別に矛盾してないと思う。
我なんてない。
ただ、どうやって言語でそれを伝えるか(表現するか)というところには、センスが出る。 言語表現と伝達というのは、我が前提だからね。
その伝達形式の上に、どうやって無我を乗せるか、伝えるかっていうこと。 どこまで行っても無我を説明してる主体は自我ではないの? >>554
眠っている時の自我はどこに居るか、と。 裏っかわの世界に登る真夜中の太陽の下に魂とともに居るw >>554
それじゃあお釈迦様は常に自我を張って説法してたってことになるじゃない。
無我ですよと言われて、そうですねでおしまい。
無我と言うあなたの自我はどうなんだっていちいち問題にすると、無我が分からなくなる。 >>158
よくわかります。私も同じ境地を経験しました。 神、ブラフマン、アートマン、真我=戯論。
論ずるだけ時間の無駄。
まず存在を証明してから議論しようか。無理だけど。 ブッダは、五蘊、六処などの誰にでも理解できる、観察できる対象を基準に議論し、瞑想し、
最終的に無我という答えを導きだした。そしてそれは誰にでも再現可能な真理。
ブッダの勝利、無我の勝利だな。うん。 無我を完全に悟る涅槃の境地の前に、四つの禅定と四つの無色界等至がある。
涅槃が最高の境地だが、涅槃以外の境地がないというわけではないと思っている。 例えば、仏陀は次第説法において在家の信徒に対しては生天の教えを説いた。
涅槃、無我が最高の真実ではあるが、欲六界の天界がないわけではない。
仏陀のご生母は、第二天界に生まれたとされている。
パーリ経典にも仏説としてそのように記録されている。 無我だけな真実なら、天界に化生した我はないのか。
人間界に生きているあなたやわたしも、欲六界の一境界なのだが。
問題は、仏教徒を自認し、無我といいながら、死後の断滅を信じている人がいるということ。 人間界の人間の常識におさまる範囲に、三十一の境界すべてにおける
三千大千世界すべてがあると思ったら、とんでもない大間違い。
蟻んこが上から目線で人類の叡智を判定して分かったつもりになってるのと変わらん。
そんなもん蟻んこの脳内妄想でしかない。
蟻んこが自分の脳内妄想に向かって、そんなもん脳内妄想だと突っ込みを入れて得意になっている。
悟っていない人が頭で考えた、「正しい仏教」なんてものは、そういう蟻んこの脳内妄想と同じ。 >>564
天界も無常ですから、いずれ落ちてきて輪廻しますよ。
無我を完全に悟れば天界にすら行きません。そのまま涅槃です。
全部の禅定を修めなくても無我は悟れます。 >>565
そう言う方向性自体、顛倒妄想の可能性は考えないのねw
お釈迦さんが、菩提樹の下で何を見たか、
誰も知り得ていない(伝わっていない)というのに・・・・。 問題(スレタイ)は、とっくに論決している。
分かってない者だけが、あーでもないこーでもないとやってるだけのこと。
この私から言わせてもらえば、まず第一にして、
“アートマンは無い”という意味での「無我」vs「有我 (論) 」という図式、
その構図そのものからして間違ってる、ってこと。
無我の教えというのは、「アートマンは無い」といったものではない。
そのことについては、ゴータマ・ブッダ自らが、その意志をハッキリと経の中で示されている。
つまり、「アートマンは無い」などと説くことについては、明確に否定したのです。
それがアートマンの有無については示さないという無記の姿勢です。
【ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。
「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはない
のですか(natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。
その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答え
たら、常住論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えら
れ、そして阿難に反問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)と
いう智が生じるのに順じるだろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、
今はない(ahu vA me nUna pubbe attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。】
(サンユッタ・ニカーヤ.44 第10経) 無我の教えというのは、正しくはアートマンは無いといったことではなく、
それら(五蘊)はアートマンではないという意味です(これを「五蘊無我説」という)。
だから、「非我」と訳されることが本来的には正しい。
なので、
「非我」の教えはそもそも「有我(論)」との対決の位置付けにはない。
非我の教えとは、「アートマンでないものをアートマンと見なすことなかれ」であり、
アートマンでないものをアートマンと誤認(同一認)することから我々の苦悩が生じるのだといっているのです。
これを言い換えるからば、「アートマンであるものをアートマンとして正しく見よ!」ということ。
要するに、
ヒンドゥーとは方法論、その手法の違いの差でしかない。
尚、当時のアートマンを認知したつもりとなっていたバラモン行者たちというのはすべて、
アートマンでないものをアートマンとして誤認していたということ。
その指摘がパーリ『梵網経』です。 >>567
>お釈迦さんが、菩提樹の下で何を見たか、
>誰も知り得ていない(伝わっていない)というのに・・・・。
いえ、それは知られていることだと思います。
これについては相当.何年も以前にこの私が述べたように、
菩提樹下の深い瞑想においてゴータマは、宿命智と天眼通による神秘的な超常体験をしたのです。
自分のあらゆる過去世のすべてを再体験して自覚した。
そしてまた、すべての人間の業に拠る死後の行き末と生まれ変わりを見たのです。
仏教の理法のすべてはこの体験にもとづいて語られたものです。
ここから業報輪廻、縁起、四諦、八正道と菩提分法、非我...すべての仏教理論が出てくることになる。
法(教え)を説くことを憂慮したというのは何故か? というと、
人々は到底、この宿命智と天眼通による神秘的な超常体験の内容を信じることなく、
理解しないものと思われたからです。 >>569
「アートマンであるものをアートマンとして正しく見よ」とおっしゃるのなら、
まずアートマンの存在を証明してからにしてください。
>>570
あなたお釈迦様の見たもの、考えたことを知っているんですか。すごいですね。
お釈迦様が何を見たか、考えたかより、自ら真理を確かめよ、というのが仏教だと思ってましたが。 >>571
アートマンの有無については、
自らが体験によって確認すべきことだということでしょう(経験主義)。
アートマンは“非ず”としてしか語ることができないから。
尚、菩提樹下の体験については知られています。
ブッダは語ったことと説かれなかったこととがあるということ。
『菩提樹の下で瞑想をはじめてからどのくらいの期間で悟りを開いたのでしょうか。
いろいろな説がありますが、ここでは七日目としておきます。ゴータマ・シッダッタはついに悟りを開きます。
南伝仏教国ではヴァイシャーカ月(太陽暦の四月または五月)の満月の夜、
北伝仏教国では陰暦の十二月八日と解釈しています。日本は太陽暦の十二月八日です(「ブッダ伝」G参照)。
満月のその夜、まず天眼通(人の生と死の繰り返しを見ることができる能力)を得ます。
さらに夜更けには宿命智(自分や衆生の過去世の生涯を知る智慧)を、
明け方には因縁の理法(すべての事象には原因があり、結果があるという理法)を、
太陽が昇るころには四諦・八正道(生老病死はどうすればなくせるか。
それを滅する八つの実践法)を明察して、覚りを開いた――と仏伝は記しています。』
http://blog.livedoor.jp/taktag555-0216/archives/16890977.html
『[B]仏伝経典
@ NK.(vol.T
p.075, 南伝28 p.159);斯くて太陽がまだ〔西に〕傾かない間に、大士は魔軍を
打ち亡ぼし……初夜に宿住智を〔獲〕、中夜に天眼を清め、後夜に縁起を観ぜられた。……太陽が
さし昇る頃、……菩薩は一切智を得られ……。』
(【資料集3】仏伝諸経典および仏伝関係諸資料のエピソード別出典要覧/菩提樹下の成道)
http://www.sakya-muni.jp/monograph/03/3-1/2324.html
http://www.sakya-muni.jp/pdf/03_01.pdf では実際、
ゴータマは具体的には何を見たのか?
それがこれらの経だということになるのです。
この天眼通についての経文(サンガーラヴァ経)とほぼ同一の内容が、
宿命智通の体験内容を伝えたこの沙門果経/出家の功徳に続いて説かれています。
『また、心が安定し・・・堅固な不動のものとなると、比丘は過去の生存の境涯を想起する知(宿住通)に、
心を傾け、心を向けます。彼は過去の生存のさまざまな境涯を想起します。すなわち、ひとつの生涯、二つ、三つ、
四つ、五つ、十、二十、三十、四十、五十、百、千、一万の生涯 を想起します。そしてそれは幾多の生成の宇宙期(成劫)、
幾多の壊滅の宇宙期(壊劫)、幾多の生成・壊滅を含む宇宙期を(通して)想起します。
「あのときの生存において、自分の名まえはこうであった。家系はこう、階級はこうで、こんな食物を食べ、
こんな幸福や不幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。そして、その世から消え去り、別の世に生まれ変わり、
そこでも同じように、自分はこれこれの名まえ・家系・階級の者で、こんな食物を食べ、これこれの幸福や不幸を体験し、
これこれの年齢まで生きた。そしてその世から今のこの世に生まれ変わってきたのだ」というように、
具体的な映像や、具体的な説明を伴って過去の生存の境涯を想起します。
たとえば、大王よ、ある人が、自分の村から他の村へ行き、その村からまた別の村へ行き、
そしてその村から再び自分の村へと戻ってくるとします。彼はこう考えるでしょう。「わたしは自分の村からあの村に行き、
そこでこういうように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言でいた。そののち、その村からあの村へ行ったが、
そこでもこのように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言でいた。そして今はその村から再び自分の村へ帰ってきている」と。
まさにそれと同じく、大王よ、心が安定し・・・堅固な不動のものとなったとき、比丘は過去の生存の境涯を想起する知に、
心を傾け、心を向けます。---(93節の繰り返し)--。
これまた、大王よ、前に述べた果報よりもさらにすぐれてより霊妙な、目に見える沙門の果報であります。』
(『ディーガ・ニカーヤ2:93〜94』出家の功徳) 『心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、けがれなく、やわらかで、たくみで、確立し不動になったときに、
多くの人々の死と生を知ることに心を向けた。すなわち、わたしは清浄で超自然的な天眼によって、
多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑しい人と高貴な人、美しい人と醜い人、
幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。
「じつにこれらの人々は身体で悪い行為をし、ことばで悪い行為をし、心で悪い行為をし、多くの聖者を非難し、
よこしまな見解をもち、よこしまな見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、悪い所、苦しい所、地獄に生まれる。
また、他のこれらの人々は身体で善い行為をし、ことばで善い行為をし、心で善い行為をし、多くの聖者を非難せず、
正しい見解をもち、正しい見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、善い所、天界に生まれる」と。
わたしは、このように清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。
すなわち、卑しい人と高貴な人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。
バーラドゥヴァージャよ、これが夜の中間の部分において得られた第二の明知である。
ここに無明が滅び明知が生じたのである。暗闇は消滅して光明が生じたのである。
それはつとめ励み、努力している人に現れるのである。』
(『マッジマ・ニカーヤ100』サンガーラヴァ経) >>572
あなたはアートマンを体験しましたか?
わたしはしていません。共通認識できないものは議論できません。
お釈迦様が菩提樹の下で宿命智と天眼通を得たのはそうでしょうが、
私が言いたかったのは、お釈迦様の智慧は超越的で、お釈迦様の頭の中は、
我々には分かり得ないという事だったんです。
あなたに宿命智、天眼通は無いでしょう?もしかしてあります?
なので、釈尊の頭の中を想像するより、自分で真理を確かめる事の方が重要じゃないかなと思います。 個人的には、
他宗教でアートマンだと言われているものも、阿羅漢の智慧を通してみれば実は無我だった。
他宗教でアートマンと言っているものが、仏教の涅槃と同義語であるか
そのどちらかだと思う。
梵天はいるし、それを最高の境地だと考える宗教はいくらでもある。
仏教以外は、涅槃を知らんだろうし。 梵天はいないとか、梵我一如という宗教体験は幻覚の一種だとか思っているとしたら
それこそ脳内妄想に過ぎない。
それを考える人の色眼鏡のフィルターを通して、その人の頭の中に生みだされた
ただの思考概念に過ぎない。 なんか最近の仏教徒って都合よく経典を解釈してないか?
日頃から仏典を根拠にしてるくせに瞑想して梵天が見えたりしたら魔境とか矛盾することを平気で主張するし
どーなってんねん
普通、自我が停止すれば見えるだろ >>578
仏教は解脱が目標ですから、梵天が見えても放っておきなさいということだと思いますよ。
梵天は放っておいて、さっさと解脱しなさいということだと思います。
涅槃には梵天も何もいませんからね。
ちなみに仏教的には自我は停止しません。
そもそも自我なんて始めから存在しないよというのが無我です。 >>579
>涅槃には梵天も何もいませんからね。
あなたは涅槃を体験しましたか?
私はしていません。共通認識できないものは議論できません。 >>580
涅槃については議論できませんが、涅槃に至る道については議論されています。
煩悩を無くし、執着を無くし、渇愛を無くした状態が涅槃ですから、
梵天として存在している時点で、まだ執着が残っているわけです。
ですから梵天はまだ涅槃に入っていないことになります。
輪廻する衆生ということです。 論理的には、浄居天で阿羅漢に悟った梵天も存在し得る。 梵天界の阿羅漢に仏道成就への助力をお願いすると、助けてくれる。
わいは助けてもらった。 >>581
あなたはその仏典の記述に従ってどれだけの体験をしてこられたのですか? 仏菩薩たちの智慧の光、慈悲の光は、われわれを取り巻いて世界中に遍満している。
われわれを取り巻いているどころか、我々は最初からずっとその光のなかに浮かんで
溶け込んで、渾然一体ですらある。
わいはそう感じた。
でも、人間の方が自我にしがみついて、五蓋に執着して、仏菩薩の慈悲を心から
閉め出してしまってるんだよね。 >>586
12年ほど修行してきて、色々体験しましたが、
仏典に関しては正しいと確信を持ってます。
>>584
不還果の梵天は、いつ阿羅漢果に逹するんでしょうか?
五上分結があるから涅槃に入らずに梵天界に転生する訳でしょう?
生まれた直後はまだ阿羅漢ではないはず。
梵天界で瞑想するんですかね? >>588
どこでどのような修行をされどのような体験をしてこられたのですか? >>589
スマナサーラ師の本をよく読んで、戒を守り、瞑想しただけです。
いろいろと煩悩、執着が無くなり、智慧が現れる経験をしました。 >>590
そのスマナサーラさんは
>仏教は堂々と 「涅槃こそ 、本物であり 、真理である 。他は全部 、幻覚だ 」と言っています(『智慧は人生の羅針盤』)と書いています。
その幻覚ではなく唯一本物である涅槃を証明してください。
ちなみに同書には
>涅槃は認識の対象にもならない(小部 自説経71)とありますが、真我実現ならぬ涅槃実現した者でなければ涅槃は認識の対象にはならないようですが、
それでも頑張って涅槃の存在を証明してみてください。
560 名前:神も仏も名無しさん :2018/08/21(火) 10:15:44.68 ID:pGynuBOH
神、ブラフマン、アートマン、真我=戯論。
論ずるだけ時間の無駄。
まず存在を証明してから議論しようか。無理だけど。 >>591
簡単ですよ。
人間には煩悩、執着があるでしょう。
それが完全に無くなった状態が涅槃です。
例えば、裁判で検察側が証拠を出すでしょう?
その全てが嘘だ、捏造だと分かれば完全に無罪である証明でしょ?
ですから涅槃は、神やアートマンなどの、よく分からない妄想概念とは違います。
人間が実感できる、体感できる境地です。
かなり修行が必要ですが。 >>592
あなたが最後に書いている通り煩悩執着を完全滅するのは全然簡単ではないですよね。
さて、煩悩執着を完全に無くすのに成功した人間は近年どのくらいいたのですか?
涅槃は完全に煩悩執着を無くした人間が体感できる実感できる境地というのなら、その人間をまず紹介してみてください。
あと涅槃は無為とお釈迦さんは説いています。
涅槃が無為であることの証明をしてください。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています