私は彼に怒っていた。
私はそれに向き合うことが苦しかった。
しかし、なぜ怒っているのか考えてみました。
その怒りは、邪魔者に対する怒り。
なぜ邪魔者のように感じるのか。
それは、彼の「強さを持って善を行う」というやり方にあった。
私は強さを持って善を行うという者に、怒りを覚える。
なぜなら、私は弱さによって人の痛みを知ることができると思っていたからだ。
私には、その「弱さによって人の痛みを知る」という形があった。そして、その形が良いものをもたらすと信じていた。
しかし、それは偶像崇拝に過ぎなかった。その偶像は、私に怒りをもたらした。
なぜ、怒りがそれから出たのだろう。
きっと私は、その偶像が絶対でなければならないというエゴを持っていた。
だから、他の偶像を許せなかった。
私は、他の偶像(強さ)を崇拝していると思われた者に私は怒りを覚える。
それは間違っていた。

何が正しく、何が間違っているか。
何者が生きるべきで、何者が死ぬべきか。
それは神のみぞ知ることだった。
私は神ではなく、自分のやり方を崇拝していた。