悟りを考える [無断転載禁止]©2ch.net
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行いの功罪だけでなく、思いの功罪もまた功罪。自分は一生涯、これがわかる人間でいる。
功を愛して、人を愛さず。
罪を憎んで、人を憎まず。 道徳は、自己目的化して初めて道徳となる。自己目的化しない限り道徳とはいえない。 生命のいない火星のような星よりも生命のいる地球のような星を愛するなら、生を愛している。
生命のいる地球のような星よりも生命のいない火星のような星を愛するなら、死を愛している。
どちらも、悟りではない。 善を悪だと言い、悪を善だと言うなら、世界はロクなことにならない。スケープゴートが聖戦の、ディストピアになるだけだ!
善は善であり、悪は悪である。これがわからないと、大変なことになってしまう。 エゴイストがエゴイストを批判するなど、目糞鼻糞を嗤うもいいとこだ。 料理がうまくなりたければ、料理をしなければならない。料理ごっこをしても、料理ごっこがうまくなるだけだ。 現在の自分は過去の自分を継承し、未来の自分は現在の自分を継承する。過去の自分の責任を取れない人は、現在の自分の責任も未来の自分の責任も取れない。 攻めはできても守りはできない。そんな人間に、戦い上手を称する資格はない。
守りはできても攻めはできない。そんな人間に、戦い上手を称する資格はない。 必要善とは、他者犠牲をしないこと。
必要悪とは、自己犠牲をしないこと。
不要善とは、自己犠牲をすること。
不要悪とは、他者犠牲をすること。 アメリカでは、一日一日を一生のように思って生きる。
ソビエトロシアでは、一生一生を一日のように思って生きる。 前向きとは、未来を見つめていること。
後ろ向きとは、過去を見つめていること。
前向きでないとは、未来を見つめていないこと。
後ろ向きでないとは、過去を見つめていないこと。
前向きでないからといって後ろ向きとは限らない。
後ろ向きでないからといって前向きとは限らない。 現在の自分を頼みにして過去の自分をないがしろにし、未来の自分を頼みにして現在の自分をないがしろにする。こうして、一生をないがしろにするのである。気をつけなければならない。 過去を頼みにして現在をないがしろにする。
未来を頼みにして現在をないがしろにする。
こうして、一生を棒に振る。
実に愚かで、自業自得なことである。 光から闇に転ばない方法は、どんな理由があっても闇に転ばない以外にはない。ちなみに、闇に転ぶなら、光に立ち返らない限りは終生転び者として生きることになる。 あなたは人だが、人が皆あなたなのではない。
人は霊長類だが、霊長類が皆人なのではない。
霊長類は哺乳類だが、哺乳類が皆霊長類なのではない。
哺乳類は脊椎動物だが、脊椎動物が皆哺乳類なのではない。 自分以外の人を人として扱う分には構わないが、自分として扱ったら大変なことになる。
人以外の霊長類を霊長類として扱う分には構わないが、人として扱ったら大変なことになる。
霊長類以外の哺乳類を哺乳類として扱う分には構わないが、霊長類として扱ったら大変なことになる。
哺乳類以外の脊椎動物を脊椎動物として扱う分には構わないが、哺乳類として扱ったら大変なことになる。 性中立説
人間の元来の性質は、善でも悪でもなく中庸であるという説。人間は元来善人でも悪人でもなく、中途半端な中ぐらいのやつであるとする。 自分のことだけ考えて自分以外のことは考えないのは、ちょうど自国のことだけ考えて自国以外のことは考えないようなものだ。
自分以外のことだけ考えて自分のことは考えないのは、ちょうど自国以外のことだけ考えて自国のことは考えないようなものだ。 外善内悪(がいぜんないあく)
邪念に満ちた悪意の塊で、生きながらに悪霊となった即身悪霊。古来暗黒神の化身と恐れられ、人の姿をした祟り神と呼ばれた。極めて邪悪な生霊で、自身が即身成仏となった極めて成仏力の強い修験者でしか成仏させることができず、その成仏には膨大な犠牲が出たという。 有生物は有意味
無生物は無意味
これが人間ね〜。
〜人間について、人間 剣岳の地図
死ぬ思いで大変な測量をし、やっと地図を書き上げだと思いきやすでに書かれてあったことから、どんなに困難な大変な思いをしてものごとを成功させても、せいぜい人並みに過ぎないことの例え。 不当な賞罰に腹を立てない。これは、社会人として当たり前のことである。本気で腹を立てるなら、行動しなければならない。行動せずに文句だけ言うのは、ゴミ人間のやることだ。 他の人間たちがどれほど狂っていても、自分一人だけはまともな生き方をする。こういう人間を、真人間という。
他の人たちがまともな生き方をしないなら、自分もまともな生き方をしない。こういう人間を、異常人格者という。 まともな生き方がしたければ、まともな生き方をしているはずである。狂った生き方をするのは、狂った生き方がしたい証拠である。 人間の知能があれば、他人の功で自分が賞されて悪いと思わないなら、自分の功で他人が賞されても悪いと思わないはずだ。
人間の知能があれば、自分の罪で他人が罰せられて悪いと思わないなら、他人の罪で自分が罰せられても悪いと思わないはずだ。
人間の知能があれば、自分の功で他人が賞されて悪いと思うなら、他人の功で自分が賞されても悪いと思うはずだ。
人間の知能があれば、他人の罪で自分が罰せられて悪いと思うなら、自分の罪で他人が罰せられても悪いと思うはずだ。 そうでないなら、人間の知能を持っていないことは明らか。言うまでもない。 他人にも優しければ、嗤われはしない。
自分にも厳しければ、嗤われはしない。
他人にだけ厳しければ、嗤われないことは無理だろう。
自分にだけ優しければ、嗤われないことは無理だろう。 功なき賞を肯定するなら、罪なき罰をも肯定することになる。
罪なき罰を肯定するなら、功なき賞をも肯定することになる。
功なき賞を否定するなら、罪なき罰をも否定することになる。
罪なき罰を否定するなら、功なき賞をも否定することになる。 私の功罪は、私が判断する。
私への賞罰は、私が執り行う。 信仰(心)とは、こどものワガママだ。
信仰(心)の否定とは、ひねくれたバカな大人のワガママだ。 本当に善行だと思ってたら、しないはずなし。
本当に悪行だと思ってたら、するはずなし。 十一面観世音の一番後ろ面で、悪を暴いて大笑いする。 功なき賞あり。
罪なき罰あり。
功ある罰あり。
罪ある賞あり。 自他の心を無視する、そういうライフスタイルを身につけてしまっていたのだった。 精神性ゼロの身体性こそが、真の身体性。
身体性ゼロの精神性こそが、真の精神性。 悟りとは
これでイイのだ
である
アーメン
マンコによる福音書
第69章118節 するべきことをする。
しないべきことをしない。
させるべきことをさせる。
させないべきことをさせない。 お前らは、ただのマウントじじい
悟ってなんかいない 他者犠牲することは悪
自己犠牲することも悪
他者犠牲しないことは善
自己犠牲しないことも善 悪意を善意に反転させる。
善意を悪意に反転させない。 聖戦の末に天国に行った者が悪魔について地獄に行った者を罵るのならば、それは本心からの聖戦ではなかったのだ。神はさぞかし嘆き悲しむことだろう。
悪魔について地獄に行ったものが聖戦の末に天国に行ったものを妬み謗るのならば、こちらはどう考えても本心からだ。悪魔はさぞかし喜ぶことだろう。 誰にも味方しないと言いながら自分には味方する、そういう人間が嘘吐きであることは明らかだ。サイコパスであると断定する! ガガンボの罪
ガガンボのオスは、虫を捕らえてメスに渡す。もしこのガガンボが、自分が虫を捕らえた加害者であることを認めず、自分はメスに騙された被害者だなどとほざくなら、これはもはや八つ裂きにしない限り自分が何をしたのかをわからせることは不可能である。 強者の精神年齢が成熟している共同体ほど、そこの場所の治安は良くなるはずである。
強者の精神年齢が未熟、特に、極めて未熟な場合、そこの共同体の治安は最悪のものとなる。 それを以ってそれを制する。
それを以ってそれに制せらる。 生者だけでなく死者も見なければ、本当の倫理ではない。
死者だけでなく生者も見なければ、本当の倫理ではない。 生者だけでなく死者も観なければ、本当の倫理ではない。
死者だけでなく生者も観なければ、本当の倫理ではない。 地球には敵がいないのに、なぜ富国強兵をするのか?小国寡民でよかろう。 諸法空相が、生物無生物説。
諸法実相が、無生物生物説。 恩田尊師に帰依してあなたも至福の世界に入りましょう。
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
https://profile.ameba.jp/ameba/onnchou 天に従えぬ者は従わなければよい、天は従わない者を従わせる。天は、人ではない。天道は、人道ではない。 日蓮系は布施ばかりでサマナを修行させないから信用なりませんネ
くわばらくわばら… 天は、あなたがあなた自身の足を引っ張らないことと、あなたの足を引っ張る者をあなた自身があなたの権利で排除することをお望みである。 偽悪
↑
偽善
↑
善
↑
悪
これが、精神的成長。 善を以って善に応え、悪を以って悪に応えて、それで初めて善と言えるのである。悪を以って善に応えるのが悪であることは言うまでもないが、善を以って悪に応えるのも長期的に見れば悪になることは明らかだ。 毒にならないやつは薬にもならない、薬になるやつは毒にもなる。 益虫は善虫、害虫は悪虫。こういう考え方の人は、性格が善いとか悪いとかいう問題ではなく、ただ単に倫理という言葉の意味がわかっていないだけなのだろう。 思いの功罪、心の功罪、精神的功罪の重さは、思いの、心の、精神の重さ。
行いの功罪、体の功罪、身体的功罪の重さは、行いの、体の、身体の重さ。 心ある者は皆終生、羅生門の下人と同じだ。
いつまで迷っている?バカめ!と罵られながら、人生を棒に振るのだろう。本当はそれこそが人生の充実なのにな。
羅生門の下で盗人になるかどうかを延々迷っていれば、いずれ寿命が来る。こうして何もしないで生き、何もしないで死ねば、只生きて只死んだのだから只人と呼ばれ、何の役にも立たなかったと罵られるだろう。
実際役に立たないなら、役に立たないと言われても文句は言えない。事実そうなのだから。
それにしても、役に立つやつに目を向けた方が役に立てるようになると思うのだが、なぜ役に立たないやつに目を向ける人がいるのだろうか?そういう人たちの本心は極めて謎だ。
まさかとは思うが、羨んでいるのだろうか?まあ、邪推はよくないから、やめておくこととしよう。 しなければならないことをしたい。
してはならないことをしたくない。
こういう人が、普通の人。自分は一生、普通の人でいたい。 しなければならないことをし、また、それを望む。
してはならないことをせず、また、それを望む。
それが、普通の人。自分は一生涯、普通の人でいる。 恩田尊師に帰依してあなたも至福の世界に入りましょう。
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
https://profile.ameba.jp/ameba/onnchou 普通は、例え少なくても普通。
異常は、例え多くても異常。 犬に犬であることを認めず、猫に猫であることを認めず、鳥に鳥であることを認めず、魚に魚であることを認めず、人に人であることを認めない。そういう人に、自分は寛容だなどと言う資格はない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています