特別寄稿
(2014年 8月31日 年間第22主日)「聖書の学び」 から

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。 自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ロマ 12:1)

聖書の用語法によれば “体” とは、自分自身、いわば人格としての存在のすべてという意味で使われています。
現代人が考えるように、自分の人生や生活、仕事などの一部を献げるという意味ではありません。

教会はキリストの体であり(エフェ 1:23)、私たちは洗礼を受けてキリストに結ばれ、その部分となりました(ロマ 12:5、Iコリ 12:13)。
“いけにえを献げる” という言葉は、神殿における大祭司の務めを念頭にした表現であって、御子イエスは天の聖所に入って御自身を献げることにより、永遠の贖いを成し遂げられました(ヘブ 8:1-3,9:12)。
そして今やすべての信者は、イエス・キリストを通して自らをもいけにえとして献げる聖なる祭司とされたのです(Iペト 2:5)。
ですからそのいけにえとは、“雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰”(ヘブ 9:13)ではなくて、“共にミサをささげる共同体” としての教会のことなのです。

現代の教会に “神に喜ばれる聖なる礼拝” を再建するために、ローマ・カトリック教会から始まった典礼刷新を私たちは深く学んで行かなければなければなりません。
特に、礼拝を個人の行為としてではなく、神の民全体の共同行為として理解することが大切です。
“典礼祭儀はすべて、祭司キリストとそのからだである教会のわざであって、他にまさる聖なる行為であり、教会の他のいかなる行為も、同等の資格や程度をもってこれに匹敵する効力を持つことはない。”(典礼憲章 7)

・・・・・ 以下、本文参照。
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