【聖書と信仰】信者も未信者も 【神学と哲学
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バリバリの信者もなんとなく信者も迷っている信者も境界人も離脱者も敵対者も、 基礎的な聖書理解、信仰維持、神学認識、哲学的批評を軸に丁寧に議論を積み上げて、良スレにしましょう。 ※嵐誹謗中傷的愉快犯は綺麗なスルーで対応してください。 出エジプト記20章 あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし >父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし >父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし >父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし エレミヤ その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」と。 人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。 つまり出エジプト記を書いたのは偽りの預言者なのですね >>456 屁理屈を捏ねるのは、孤独な、だれも友達になってくれない、落伍者にふさわしい。 2010年(主日C年) 8月1日 年間第18主日 コヘ 1:2, 2:21〜23 コロ 3:1〜11 ルカ 12:13〜21 「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ v.4) 使徒たちはその宣教の過程で、救われた人々が 「真の知識に達する」(コロ v.10) ことの大切さを、切々と訴えました(コロ 1:23、エフェ 1:18、Iコリ 1:5)。 この知識を得るのに人種や身分の区別はなく、キリストがすべてであると教えました(コロ v.11)。 すでに半世紀以上にもわたって "平和ボケ" してしまっている日本人には驚きかもしれませんが、私のインターネットサイトで現在、ニューオルリンズの町での葬儀行進の動画を紹介しています。 http://www.kuwaei2000.com/temp/03/Marching.html アメリカの多数の若者たちが軍人として、世界の安全と平和のために各地に派遣され、その結果として当然、故郷でしばしば戦死者を葬るという事態を決して避けることが出来ない現実を、キリストの福音の光に照らして見せてくれるのです。 Oh, when the saints go marching in . . . . . 「おお、聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき、おお、聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき、主よ、私もその数の中に入れてください。 聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき。」 このゴスペルソングの歌詞が、ニューオルリンズの町の人々にとってどれほど切実な希望であり祈りであるかを、あなたは理解する信仰と (真の) 知識を持っていますか ? ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ○ o _____ / \ / 若 ヽ / ヽ │ ニミ, ∠ニ │ |_┌─‐‐ュ__r ‐─┐_ | f''| 丶__'_゚ 2004年(主日C年) 8月8日 年間第19主日 知 18:6〜9 ヘブ 11:1-2,8-19 ルカ 12:32〜48 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブ vv.1-2) キリスト教の信仰は、使徒たちから伝えられたものです。 そして初代教会はこれを旧約のイスラエルから受け継ぎました。 すなわち神のイスラエルへの約束 (望んでいる事柄) を確信し、その将来における実現 (見えない事実) を待望する信仰によって、教会は2千年の歴史を歩んで来たのでした。 現代の私たちの教会も、この神の遠大な救済史の中にあって、終わりの日の主の再臨を待ち望んでいます。 なぜなら福音とはこの日の希望を語り伝えるものだからです。 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(Iコリ 4:14) この希望は死者の中からの復活と固く結びついています。 キリスト教は旅人の宗教だと言われるのは、地上に最終的な希望を置かないで、来るべき天の都を待望しているからであって、新しいイスラエルである教会 (ガラ 6:16) は、この希望を旧約のイスラエルから受け継ぎました。 なぜならイスラエルの神ヤーウェこそは、私たちの主イエス・キリストの父なる神だからです。 ですからキリスト教の希望は、旧約の父祖たちの希望と同じものです。 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。 約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブ v.13) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 8月12日 年間第19主日 知 18:6〜9 ヘブ 11:1〜19 ルカ 12:32〜48 「小さな群よ、恐れるな。 あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ v.32) 使徒たちによる宣教を、現代の私たちは聖書から聞いています。 その宣教の背後には復活のキリストがおられるのであり、やがて到来する神の国への待望が、何にも勝って第一の関心事となっています。 もし人がキリストの復活を信じず、またキリストの終末の日の再臨と神の国の到来を信じないなら、 換言すればニケア・コンスタンチノープル信条の中の "死者の復活と来世の命を待ち望みます" という宣言を古代の迷信に過ぎないと思うなら、聖書からキリストの福音を聞くことは不可能です。 その昔ヤーウェがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出された夜、ヤーウェは "寝ずの番" をされました(出 12:42)。 そのように、初代教会はキリストの再臨を待つ信仰を "寝ずの番" になぞらえて理解したのでした。 福音書に収められたイエスの言葉は、一人一人の信者にも、彼らの小さな共同体にも、そしてそれを教え導く指導者たちにも、信仰をそのように理解することを求めています。 ルカ v.41 は、恐らく初代教会において使徒ペトロが果たした役割の大きさを想起させますが、その役割は他の多くの指導者たちも共有しているものでありました(ルカ v.48)。 やがて到来する神の国への待望が、何にも勝って第一の関心事となっている、そのような共同体を維持するということが "施し"(ルカ v.33) の目的であったことを、現代のキリスト者は見落としてはなりません(IIコリ 8,9章、申 15:1-11 参照)。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 8月8日 年間第19主日 知 18:6〜9 ヘブ 11:1-2, 8-19 ルカ 12:32〜48 「神に従う人々の救いと、敵どもの滅びを、あなたの民は待っていた。 ・・・・・ そのとき彼らは先祖たちの賛歌を歌っていた。」(知 vv.7,9) 出エジプト記12章に述べられている過越の夜の出来事を、「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(ヘブ 11:2) という視点で詠じたこの歌は、"(信仰の) 外の世界の人たち" には決して理解出来ないものです。 昔のイスラエルはそんなに宗教的に一枚岩だったのだろうか。 実際の彼らは 「頑なな民」(申 9:6) だったのではないのか。 私たちの知っているカトリック教会も、「自分のふところに罪人を抱いている」(教会憲章 8) と述べられている通り、実際には 「頑なな民」、不満を言う 「多くの寄り集まり人」(民 11:4/口語訳) です。 この現実を、だれも否定することは出来ません。 しかし感謝しましょう。 「あなたがた (教会) はもはや自分自身のものではないのです。 あなたがた (教会) は、代価を払って買い取られたのです。」(Iコリ 6:19-20) ですからミサの交わりの儀で、教会に連なる私たち一人一人は祈ります。 「わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、おことばの通り教会に平和と一致をお与えください。」 教会が、キリストにあって、神の国を受け継ぐ聖なる民であることを感謝出来る人は幸いです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年の 「聖書講義」 に、<2016-4> を追加しました。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 昨年の <2015-2> に続いて、今回は救済史のいわば前史に当たる 「原初史」 を取り上げました。 2001年(主日C年) 8月19日 年間第20主日 エレ 38:4〜10 ヘブ 12:1〜4 ルカ 12:49〜53 「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブ vv.1-2) 主イエス・キリストの十字架の死は、敗北の死でありました。 死とは、神から見捨てられることなのです(マコ 15:34)。 私たちはみな死を逃れることの出来ない存在です。 しかも死は自然な生命の終わりではなくて、神の怒りによって (詩 90:3-12) 命を取り上げられる (ルカ 12:20) ことなのです。 御子がその十字架の上で受けられた死は、正に罪人である私たちへの裁きとしての死でありました。 終末の裁きの日は必ず来る。 しかしそこで私たちが受けるはずの裁きと死を、御子は私たちに代わって、既に耐え忍んで受けてくださっているのです。 しかし終末の裁きを信じない人々、主イエス・キリストの十字架の福音を信じない人々、すべて罪の赦しの洗礼を受けなかった人々は、神の怒りによって滅ぼされます。 このような裁き主イエス・キリストの来られる 「かの日」(ヘブ 10:25) を待ち望みつつ、「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜く」(ヘブ 12:1) キリスト者の人生は、 分裂と対立を安易に避ける偽りの平和主義とは異質なものであることに、目覚めなければなりません。 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:20-21) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 8月19日 年間第20主日 エレ 38:4〜10 ヘブ 12:1〜4 ルカ 12:49〜53 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」(ルカ v.46) 神が顕現されるとき、その顕現に触れた人々の人生に火が投じられました。 神の山ホレブでヤーウェがモーセに顕現されて以来、彼の生涯の歩みに火が投じられました。 聖書の中には、そのような人々の物語りが満ちています。 御子イエスが受肉して私たちの間に宿られた (ヨハ 1:14) ことによって、キリスト者の生涯の歩みにも火が投じられました。 このかたが十字架につけられて死に、復活して私たちの義と聖と贖いとなられた (Iコリ 1:30) からです。 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。 そうではない。 言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ v.51) 地上に平和な世界を実現することが、キリスト教の目標であるかのように、またそのようなことが可能であるかのように、考えている人々が一方に存在します。 それに対して、新約聖書の中にも、キリスト教の歴史の中にも、火が投じられた歴史の中を歩んだ多くのキリスト者の苦悩と戦いの記録があって、真の平和は将来の神の国にこそあるという希望を証言しています。 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙 7:14) 「神が人と共に住み、 ・・・・・ 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(黙 21:3-4) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2004年(主日C年) 8月22日 年間第21主日 イザ 66:18〜21 ヘブ 12:5〜13 ルカ 13:22〜30 「狭い戸口から入るように努めなさい。」(ルカ v.24) イエスはエルサレムに近づき、イスラエルの指導者たちとそこで対決することを思って、話題を弟子たちからもっと広い視野に移されました。 マタ 7:13-14 と並行するこの有名な言葉が、ルカ福音書ではイスラエル人の悔い改めの困難さを指摘するために用いられています。 救われるのはイスラエル全体なのか、それとも残りの者 (イザ 10:20-23、エレ 23:3-4 参照) だけなのかという設問に対して、 イエスはイスラエルへの断罪と異邦人が神の国に集められることを語られた場面で、この言葉を用いられたという構成になっているのです。 ルカ v.26 はイスラエルの指導者たちの弁明であり、イスラエル人たちは 「わたしたちの広場でお教えを受けた」 はずでありました。 私たちが知っている現代の教会で、キリストの福音は語られて来たでしょうか。 キリストの福音はまず第一に神の国の福音であり、さらに十字架と復活の福音、そして生きている者と死んだ者を裁くために再び来られる終末のキリストの福音であることを、人々は聞かされて来たでしょうか。 神の国への備えをすること、これこそがイエスの福音の第一の、そして最大の要求であったと福音書は伝えています。 そして天上のイエスは、今朝共にミサをささげるために集まっている私たちに、聖書を通して再び同じ要求を語っておられるのです。 それが 「狭い戸口から入る」 という言葉で語られていることです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ○ o _____ / \ / 台風 ヽ / ヽ │ ニミ, ∠ニ │ |_┌─‐‐ュ__r ‐─┐_ | f''| 丶__'_゚ 2004年(主日C年) 8月29日 年間第22主日 シラ 3:17-18,20,28-29 ヘブ 12:18〜24 ルカ 14:1,7〜14 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ v.11) 福音書におけるこの用語の前後関係から明らかなことは、「高ぶる者」 とはファリサイ派に代表されるユダヤ人のことであり、 「へりくだる者」 とはキリストの救いに与った神の国の民を指しているということです(ルカ 18:14、マタ 23:12 参照)。 私たちが読んでいるのは単なる道徳の書物ではなくて、キリストの福音と神の国の希望を語る聖書なのだということに、十分に留意する必要があります。 旧新約聖書を通じて、「へりくだる」 とは神の前に自らを低くすることであります。 人は神を忘れると、心おごり、高ぶります(申 8:11-18 参照)。 信仰の父アブラハムもへりくだりの模範として描かれ、モーセもへりくだりの人でありました。 そして正にイエス・キリストこそは、へりくだって受肉された神の子、救い主でありました(フィリ 2:6-11 参照)。 福音書は、その朗読を聞く会衆に向かって、キリストの福音と神の御業へのへりくだりを呼びかけているのです。 高ぶって律法の義を追い求めたユダヤ人は救われず、へりくだって福音を受け入れた異邦人はキリストの救いを得ました。 教会の教導職への従順は、学ぶ者たちの福音へのへりくだりを目的として語られています(Iペト 5:5 参照)。 「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」 を招くとは、このような教会の宣教のことを指して言っている比喩であって、 教会のこの働きに共に参加するすべての信者に 「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」 と約束されているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 9月1日 年間第22主日 シラ 3:17〜29 ヘブ 12:18〜24 ルカ 14:1,7-14 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ v.11) このイエスの言葉、およびそれに関連するいくつかの言葉が、福音書の中のいろいろな場所で使われていて、 初代教会が旧約の伝統から、またイエス御自身の口から、その深い意味を聞き取って、彼らの宣教の一つのキーワードとしていたことが分かります (ルカ 1:51-53, 18:14, 22:26、マタ 23:12、ヨハ 13:14-15)。 それは何よりもも、イザヤ書に預言された苦難の僕として御自身を献げられた神の子イエスのへりくだりへの、信仰と感謝と賛美に伴う言葉でありました(フィリ 2:6-11、Iペト 2:21-25)。 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マコ 10:45) ですから、これを単なる人間の道徳や美徳のように理解してはなりませんし、まして神に対する功績になるなどと勘違いしてはなりません。 ルカ v.14 の 「 ・・・ あなたは報われる」 や、マタ 5:3-10 の 「幸いである」 を、"功績を獲得する" ことのように思い込んでいる人は、"信仰による神の義"(ロマ 1:17, 3:21-4:12) がまだ分かっていないのです。 救いは "恵みにより、信仰によって、賜物として神から与えられる"(エフ ェ2:8) のであって、人間が自らの功績によって獲得するものでは決してありません。 この福音書のテキストは、ルカ 18:13 で徴税人が祈っている 「神様、罪人のわたしを憐れんでください」 の線上で、理解するのが正しいのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 今年の 「聖書講義」 に、<2016-5> を追加しました。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html 今回は、キリスト教信仰の中心主題である 「死と復活」 を取り上げました。 2001年(主日C年) 9月9日 年間第23主日 知 9:13〜18 フィレ 9〜17 ルカ 14:25〜33 ルカ福音書独特の語り方に素直に耳を傾けると、私たちは "一切を捨てる"(ルカ v.33) という信仰の姿勢がひときわ強調されていることに気付きます。 キリスト信仰とはキリストの苦しみにも共に与かることであり、肉親との結びつきや自らの命までも犠牲にする覚悟を要求されるものであることを、今朝のテキストは念を入れて説明してくれているのです。 ルカ vv.26-27 は マタ 10:37-38 の並行記事なのですが、ルカ福音書はそこに "妻" をも加えています。 また ルカ v.27 は元来 マコ 8:34 (マタ 16:24、ルカ 9:23) が出所と考えられる句で、そこではイエスの死と復活の予告の言葉と結びついて語られています。 「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25) 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ 6:4) これらの使徒パウロの言葉と同じ内容が、ここではルカ福音書独特の語り方で展開されているのです。 現代のキリスト者である私たちも、各自の人生の途中のどこかで、「腰をすえて計算し」 「腰をすえて考えてみる」 ときに出会うかもしれません。 そのときには、「神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」 キリスト(Iコリ 1:30) が、私たちを助け導いてくださることを願いましょう。 「主よ、あわれみたまえ。 キリスト、あわれみたまえ。 主よ、あわれみたまえ。」(あわれみの賛歌) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 9月5日 年間第23主日 知 9:13〜18 フィレ 9b〜17 ルカ 14:25〜33 聖書が19世紀や20世紀に書かれた文書ではないという当たり前のことに、どうか注目してください。 フィレモンというこの時代の信者に、その奴隷 (所有物 = 財産) であった一人の男を、考えを変えて一人前の人格として、「つまり愛する兄弟として」(フィレ v.16) 迎え受け入れてくれという要求は、 たとえそれが使徒パウロからの 「頼み」(フィレ v.10) であっても、とても尋常なことではありませんでした。 フィレモンにとってそれはコペルニクス的転回を強いるものであったに違いありません。 これは人情話などではない ! 福音への従順、信仰の従順の問題として、パウロは監禁されているローマからこの手紙を書いていました。 ただ希望に応えて彼が妥協してくれることを願ったのではありませんでした。 そうではなくて、「主によって、キリストによって」 彼から 「喜ばせてもらい、心を元気づけられる」 ことを要求したのです(フィレ v.20)。 福音に聞き従うということを、私たちは大きな感激と共に理解しようではありませんか(ガラ 3:26-29 参照)。 私たちはそのようにして、聖書の学びを通して、「(教会に) 伝えられた教えの規範」(ロマ 6:17、Iコリ 11:2) を受け入れる途を見出すことが出来るのです。 「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか。」(知 v.17) 私たちは、確かに聖伝と聖書とが教会に託されているということに心を向け、感謝しましょう。 教会に託されたこの豊かな福音の宝は、信者一人一人が真剣に学ぼうと努力するなら、「あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(ロマ 10:8) と言えるようになるのですから。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 9月8日 年間第23主日 知 9:13〜18 フィレ 9b〜17 ルカ 14:25〜33 「愛する兄弟として、・・・・・ 愛する兄弟である ・・・・・ 。」(フィレ v.16) 私たちはオネシモがかつてどんな人物であり、そして今どんな人物になったのかを知ることは、全く出来ません。 「以前はあなたにとって役に立たない者でした」(フィレ v.11)とは、ダメな人間であったということではありませんし、「今は、役立つ者となっています」(フィレ v.11) とは、有能な善人に変身したということでもありません。 私たちが注目すべきただ一つのことは、彼が共に神の国を受け継ぐキリストの羊になったということなのです。 そのただ一つの事実が、他のあらゆる事情に遙かに勝って重要であるということを、使徒パウロはフィレモンが理解してくれると期待したのです。 私たちのミサで、感謝の典礼の交わりの儀で、会衆一同が行列を作って小羊の食卓に与るとき、この兄弟姉妹の交わりがこの世のあらゆることに勝って重要であると、信じることが出来る人は幸いです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ○ o _____ / \ / 秋晴 ヽ / ヽ │ ニミ, ∠ニ │ |_┌─‐‐ュ__r ‐─┐_ | f''| 丶__'_゚ 2004年(主日C年) 9月12日 年間第24主日 出 32:7〜14 Iテモ 1:12〜17 ルカ 15:1〜32 旧約聖書はイスラエルの民を通して進められて来た "神の救いの歴史" を語っています。 私たち教会はキリストの贖いによって 「神の (新しい) イスラエル」(ガラ 6:16) となり、旧きイスラエルに約束されていたものを彼らと 「一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束に与る者」(エフェ 3:6) となりました。 ですから教会は旧約聖書を、自らの救いの歴史の書物として読むのです。 イスラエルは自らの歴史を、繰り返し道からそれる民の罪への神の怒り (裁き) と、それをなだめるモーセの執り成しという形で、振り返ったことでしょう。 教会は正にそれこそがキリストがそこから私たちを見つけ出して救ってくださった罪と死の世界であったと、そう理解しました。 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(Iペト 2:25) 「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。」(ロマ 8:2-3) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 9月16日 年間第24主日 出 32:7〜14 Iテモ 1:12〜17 ルカ 15:1〜32 キリストの福音は先ずユダヤ人に向けられたものでした(マタ 10:5-7、使 13:46、ロマ 9:4-5)。 福音によって明らかにされた "秘められた計画" は、本来ユダヤ人への約束であった神の国を、"異邦人も福音によってキリスト・イエスにおいて、一緒に受け継ぐ者となる" というものなのです(エフェ 3:6)。 ユダヤ人への神の賜物と招きとは、今も決して取り消されてはいません(ロマ 11:25-29)。 「主は御自身の民に下す、と告げられた災いを思い直された。」(出 v.14) イスラエルは、それが神の民であるという理由で、モーセの執り成しによって滅びを免れました。 いわゆるユダヤ人と呼ばれている人々は、このイスラエルの子孫なのです。 数え切れないほどの苦難と迫害の歴史を経て来たユダヤ人を、その不従順によって滅ぼすことを繰り返し思い直された神が、彼らと私たちキリスト者の共通の主であることを、決して見落としてはなりません。 「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。」(ロマ 11:22) 本来は "イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた"(エフェ 2:12) 異邦人である私たちを、その血によって贖い、罪を赦して神の国の相続人としてくださったキリストの福音に感謝しましょう。 私たちキリスト者は、イスラエルに接ぎ木されて、その根を通して豊かな養分を受けているのですから。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 9月12日 年間第24主日 出 32:7〜14 Iテモ 1:12〜17 ルカ 15:1〜32 使徒パウロの生涯は、「イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた」(Iテモ v.15) という事実の、いわば典型であります。 彼は 「その罪人の中で最たる者」(同) であり、キリストが彼の救いのために 「限りない忍耐をお示しになった」(Iテモ v.16) ということを、聖書は語っています。 そのような意味で初代教会はパウロを、「キリストを信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本」(同) と理解しました。 Iテモ vv.12-17 は、使徒パウロの直接の言葉であるよりも、むしろ初代教会の理解を示していると考える方がよいかも知れません。 そうだとしても、初代教会の証言を通して、使徒パウロはキリストの福音を今も私たちに語り続けているのです。 むしろ、やがて "聖パウロ" と尊称を付して呼ばれるようになるパウロを、いささかも弁護したりしないで、「神を冒する者、迫害する者瀆」 と述べていることの重大さに、私たちは驚きを覚えずにはいられません。 心優しいモーセの説得によって、「御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」(出 v.14) 頑固親父の物語りのように、出エジプト記のテキストを読んでしまう誘惑が、近代人だけのものだなどと考える必要はありません。 モーセは偉大な預言者でありました(申 34:10)。 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られました(申 33:11, 34:29-35)。 しかし、罪を赦すことはただ神にのみ属するのです(マコ 2:7)。 「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」(出 34:6-7) 私たちは、この神の恵みにひたすら信頼し、感謝しましょう。 私たちは 「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」 ました(ロマ 5:2)。 「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、− − − あなたがたの救われたのは恵みによるのです − − − 」(エフェ 2:4-5)。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ハレルヤ、皆さま、通りすがりですが聖霊派のクリスチャンです、 突然ですが、来週中、もしかしたら歴史上大きい出来事として成就してしまうのかもしれない預言を兄弟姉妹より、聞きましたので、 ここに来られている、主を愛する、クリスチャンの皆さま、共に祈りませんか。 と、お伝えしたく、貼りに来ています。 下記に貼ります物を読んでみてください、1、や2、の辺りはさらっと見て頂いてもいいかと思います ネタニアフ首相の辺りから読まれて見て下さい。 http://riverside.main.jp/priest/files/Request_H.Gruber.pdf それでは栄光在主。 2004年(主日C年) 9月19日 年間第25主日 アモ 8:4〜7 Iテモ 2:1〜8 ルカ 16:1〜13 福音書におけるイエスの言葉は、人々が神の国の到来に備えることを最大の関心事として語られていることに注目しましょう。 主の死と復活が父なる神の御計画であったように、終末の裁きと神の国の到来は神の救済史の目標であり完成だからです。 キリスト者は 「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(ルカ v.9) ために、この世の子らの賢さに見習うほどの熱心さを持つべきだと、この譬え話は今朝私たちに語りかけています。 光の子らも、実生活においてはずる賢くなるべきだと教えているのではありません。 仕事を解雇されないためになら、上司に対して媚びへつらう方法もあるでしょう。 しかし終末の裁きを越えて神の国を受け継ぐには、人は目を神に向けなければならないのです。 「この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」(ロマ 2:5-6) 「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」(使 10:42-43) 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(Iテモ vv.5-6) 神の救済史の目標であり完成である終末の裁きと神の国の到来に備えることは、キリスト者自身のためだけではなくて全世界のすべての人のために、教会が今こそ目覚めなければならない最大の課題なのです。 21世紀の教会にとって、いよいよ 「時が迫っているから」(黙 1:3)、「救いは近づいているから」(ロマ 13:11) です。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 9月19日 年間第25主日 アモ 8:4〜7 Iテモ 2:1〜8 ルカ 16:1〜13 紀元前8世紀の預言者アモスにおいて、初めて神の民である選民イスラエルは、神の審判の対象以外の何物でもなくなりました(アモ 3:1-2)。 商人の不正は、商人だけの罪で終わらない。 祭司や職業預言者といった指導者層には責任がなく、不正を行う庶民だけが審判の対象になるなどということではない。 それは "イスラエルの家" の罪だからです。 その結果は、"主の言葉を聞くことの出来ぬ飢饉"(アモ 8:11) の到来であると預言しました。 それから200年を経て後、預言者エレミヤは語っています。 民は神のことばを聞かず、「わが民はおのが栄光を、助けにならぬものと取り替えた。」 そして 「律法を教える人たちはわたしを理解せず、指導者たちはわたしに背き、預言者たちはバアルに従って預言し、助けにならぬものの後を追った」 という主の言葉を残しています(エレ 2:8-13)。 私たち信徒は、自分の不信仰と無知の責任を聖職者だけに責任転嫁すべきではありません。 「彼らは (福音を) 聞いたことがなかったのだろうか。 もちろん聞いたのです。」(ロマ 10:18) 聖書を通し、カトリックのミサ典礼を通して、「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、 ・・・・・ あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長している」(コロ 1:6) ということが、私たちの実感となる日が来るように、共に励んで賢くふるまおうではありませんか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 9月22日 年間第25主日 アモ 8:4〜7 Iテモ 2:1〜8 ルカ 16:1〜13 預言者アモスの不正糾弾の叫びを、あたかも富める商人たちへの宣戦布告のように読むことは、果たして正しいのでしょうか。 実に、アモスの預言において初めて、神の民イスラエルこそが、神の裁きの対象以外の何ものでもあり得ないことが明らかにされました(アモ 3:1-2)。 先週の "聖書の学び" で、私たちのミサについて説明している 「神の前に出る教会の構成員は、罪にまみれた人間たちなのである」 という、ユンクマンの言葉を紹介しました。 まさにその罪人を救うために、キリストは来られた (Iテモ 1:15) ということを、聖書を通して学ぶことが重要なのです。 カトリック教会のカテキズムは、"原罪" を説明して、"犯した罪ではなくて、状態"、"原初の義と聖の欠如" という表現を使い、人間が自らの努力や心がけによってそこから脱することの出来ないものであり、 キリストによる贖罪の教えと "対をなしている" と述べています(404〜407)。 アモスの生々しい預言に真面目に耳を傾けることが、現代のキリスト者である私たちを、救い主イエス・キリストに立ち帰らせることとなりますように。 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 栄光が神に永遠にありますように。」(ロマ 11:36) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 皆さん、聖書を読んでいらっしゃいますか ? 私の、ささやかな ●聖書講義● が、聖書理解の助けとなりますように。 http://www.kuwaei2000.com/mass/Announce2.html 2001年(主日C年) 9月30日 年間第26主日 アモ 6:1〜7 Iテモ 6:11〜16 ルカ 16:19〜31 福音書の中には、イエスが来世についての当時の通俗的な概念を利用して語られたと思われる、いくつかの物語りが伝えられています。 今朝のルカ福音書のテキストもそのようなものの一つです。 ある金持ちと貧乏人の現世と来世での運命の逆転の話は、来たるべき次の世が "ある" のだということを主張するために語られました。 来世とか死人の復活などということを信じることが出来ない人々は、現代と同じように新約聖書の時代にもたくさんいたのです。 来世とは、再臨のキリストによる終末の裁き (IIテサ 2:8) と、神の国の栄光の実現 (IIテモ 4:1、テト 2:13) のことです。 福音書は、主イエスが語られた神の国の到来の危機についての教えを保存することによって、代々の教会がその警告を聞き続けることが出来るようにしました。 それが教会の宣教するキリストの福音の重要な要素だからです。 誤解してならないのは、このような物語りは地獄で燃える炎の有様や、天国の様子についての情報資料ではないということです。 だれもそこに行って見て来た人などいないのです。 そうではなくて、「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ」(IIテモ 4:1)、教会がキリストの福音に耳を傾けることを呼びかけているのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 信仰心とか礼拝とか神への賛美とか栄光を褒め称えるとか免罪符とか神への供物とか生贄っていうのは人間でいう所の賄賂だよ 神におくる賄賂 これで自分を優遇してください、ひいきしてくださいというおべっか、ご機嫌取り つまり 神が自分に対する態度や差し出す金の金額で罰するかどうかを決めると思ってる 神が好き嫌いで特定の誰かをえこひいきすると考えてる 神が公平な裁きをせず気まぐれや気分しだいで裁きの基準を変えるでたらめな暴君だとみなしている だから信仰のない無神論者や異教徒が地獄に落ちるなどというバカげた話を本気で信じてる 礼拝というのは贈賄収賄にまみれた狡猾さの現れに他ならない そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟 創世記の記述は 科学的に矛盾だらけではないのか?01 https://www.youtube.com/watch?v=YdeqJN4Q78g 神は肉食動物を造られなかった? え〜〜〜?(;一_一) 02 https://www.youtube.com/watch?v=A5AzvCxQgyk ティラノザウルスは明らかに肉食恐竜 アダムの創造以前に誕生し絶滅した 03 https://www.youtube.com/watch?v=_a0UeyalCaU 世界的な洪水が あったのなら なぜ5万年前の クレーター痕が 洪水層に 埋もれていないのか?09 https://www.youtube.com/watch?v=bPs63-KOHOw ノアの箱舟伝説では オーストラリアのみに 有袋類が棲息することが 説明できない 07 https://www.youtube.com/watch?v=eHCS5zuvoSY たった2千年足らずで 全ての人種は 分化していっただって〜〜? (;一_一) 08 https://www.youtube.com/watch?v=USIEXew6jXc 「BC2370年以降に 五大陸ができ、 山脈・海溝もできた」 というエホバ そんな地質学的証拠は 全くない!010 https://www.youtube.com/watch?v=he1xCS7jkok 科学的定説に対して牽強付会にこじつけ あくまでも「BC2370年に ノアの大洪水があった」と 頑迷に主張し続ける エホバの証人 011 https://www.youtube.com/watch?v=v2EjwFdbeqE 人間に 自由意思を与えて造っておいて 「神に従わない者は 全て滅ぼす」 結局神のエゴではないか!013 https://www.youtube.com/watch?v=s2xKppd4mBE 2004年(主日C年) 9月26日 年間第26主日 アモ 6:1〜7 Iテモ 6:11〜16 ルカ 16:19〜31 「どうして今の時を見分けることを知らないのか」(ルカ 12:56)。 預言者アモスは北王国の首都サマリアにおける上流階級の贅沢な暮らしを責めました。 「お前たちは象牙の寝台に横たわり、長椅子に寝そべり ・・・・・ 」(アモ v.4)。 近代のサマリア発掘によっても、おびただしい象牙細工の破片が出土しており、それらは家具や調度品の象眼に使われたものと考えられています。 すでに預言者アモスの活動よりも70年ほど前に、イスラエルの王アハブがサマリアに象牙の家を建てたことが記録されています(王上 22:39)。 なぜ、アモスは繁栄するサマリアの上流階級に神の審判を預言したのでしょうか。 その理由は明確でした。 「しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。」(アモ v.6) ヨセフはマナセとエフライムの父で (創 48)、ここでは北王国のことを指してそう呼んでいます。 神の民は、来るべき神の審判の対象以外の何ものでもないというのが、預言者アモスに委ねられた神のことばでありました。 神の救済史への無知と無関心を非難し、避けることの出来ない神の審判の時に備えることこそがイスラエルの最大の課題であるという警告の、彼は "しるし" でありました。 今朝のミサの朗読を通して、天上のキリストはこの預言者アモスの言葉をも用いて、現代の私たちキリスト者に語っておられます。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 9月29日 年間第26主日 アモ 6:1〜7 Iテモ 6:11〜16 ルカ 16:19〜31 「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。 彼らに耳を傾けるがよい。」(ルカ v.29) 「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」(ルカ v.31) この金持ちとラザロの譬え話を、現代の格差社会における富裕層と貧困層に当てはめたり、自国民の社会的経済的安定を守ろうとするヨーロッパの国々とそこに押し寄せる移住者と難民の問題に結びつけて、 教会の社会活動の論理付けに利用するとしたら、それは正しい聖書の読み方ではありません。 ラザロが教会で、金持ちが教会が糾弾すべき体制側の人々であるなどという理解は、聖書自身の主張ではないからです。 むしろ教会は、ラザロと金持ちの両者をその構成員としているのであって、問題は彼らがモーセと預言者、つまり "神のことば" に耳を傾けているか否かが、ここでは問われているのです。 多くの教会で、"聖書の会"、"聖書の分かち合い"、"聖書の学び" などと呼ばれる集会が行われています。 しかし私の経験では、教会がそのような集会で聖書を学ぼうとしている目的が、ほとんど明らかでないままに漫然と、ただの勉強会や読書会、あるいはほとんど聖書と関係のない雑談会になっていることが多いのです。 本当は、生ける神が、神の右の座に着いておられる天上のキリストが、聖書を通して教会に語っておられる福音を "共に聞く" という目的、 すなわち共同体の会衆一同が 「共に福音にあずかる者となる」(Iコリ 9:23) という目標が、教会では決定的な意味を持っているのですから。 "神のことばを聞く" とは、神が聖書を通して語っておられる福音に耳を傾けることであって、 そのことが抜け落ちたただの聖書の勉強をいくら積み重ねても、キリストの復活がもたらす救いに与ることが出来ないばかりか、「罪の赦し、からだの復活、永遠の命」 を信じることにも至り得ません。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びる。」(詩 1:6) 「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。 主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」(詩 27:1) 2004年(主日C年) 10月3日 年間第27主日 ハバ 1:2-3,2:2-4 IIテモ 1:6〜14 ルカ 17:5〜10 「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまであなたは聞いてくださらないのか。 わたしがあなたに "不法" と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。」(ハバ 1:2) 預言者ハバククの訴えに対して、主は神の救済史の将来に関わる幻を示して、これをだれもが読めるように板の上に記せと言われました。 これを現代風に言い換えれば、車を運転しながらでも読めるように大きな看板にディスプレイせよという意味です。 そして有名な 「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバ 2:4) という言葉が語られました。 ここで "信仰" と訳されている言葉は、アーメン (真実) の派生語で、主への忠誠と信頼を意味しています。 神の恵みや裁きの実行を人間が指図することが信仰ではない ・・・・・ 、そうではなくてただ神に信頼し、その御業の進行と展開を素直に受け入れることが "信仰" なのだと、主は答えられたのでした。 イエス・キリストにおいて、神の約束はことごとく "然り" となりました(IIコリ1:20)。 救済史の御業は神のものであり、信仰とはその御業への信頼だからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 10月3日 年間第27主日 ハバ 1:2-3, 2:2-4 IIテモ 1:6-8,13-14 ルカ 17:5〜10 「使徒たちが、"わたしたちの信仰を増してください" と言ったとき、主は言われた。 "もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、・・・・・ "」(ルカ vv.5-6) 多くのキリスト教信者が、自分は信仰が足りないと思って心を痛めていることでしょう。 しかし、本当に問題なのは信仰が足りないことではなくて、何を信じるのかその対象が分かっていない ・・・・・ 、教えられていない ・・・・・ ことなのです。 「神はイエスを復活させられた」(使 2:32)、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使 2:36) という、使徒たちが証言した神の御業こそが、 唯一の信仰の対象であることを、現代のキリスト者は再発見しなければなりません。 聖伝と聖書に耳を傾けるとは、そういうことなのです。 新約聖書で用いられている "奉仕" という言葉は、元来奴隷の務めを指しています。 私たちは洗礼の秘蹟によって、キリストと一つの体になりました(Iコリ 12:13)。 私たちはそれによって、キリスト御自身の "僕の身分"(フィリ 2:7) に与る者となったのです。 「しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(ルカ 22:27) この "主の僕" であるキリストの "僕の務め" に、キリスト者一人一人は主を通して参加するのです(Iコリ 12:5)。 それは、私たちが受けた罪の赦しの 「神の賜物」(エフェ 2:8)、「無償の恵み」(ロマ 3:24) に対する感謝に基づく "奉仕" であって、何らかの報いを期待し得る功績のようなものではありません。 「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 あなたがたも同じことだ。 自分に命じられたことをみな果たしたら、"わたしどもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです" と言いなさい。」(ルカ vv.9-10) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 聖書は間違いなく神の言葉であるという証拠を出しなさい 495. 神の言葉か。 そんなもんはない。 なんでか。 神は人間を、かまっているほどの暇がないからである。 人間が勝手に神の言葉を製造、生産しているだけのことである。 >>495 > 聖書は間違いなく神の言葉であるという証拠を出しなさい 激しく同意。 キリスト教やって人生めちゃくちゃに壊れた http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1470235171/ ↑ この中には、 > 聖書は間違いなく神の言葉である >>495 これで人生がめちゃくちゃになった人もいるとおもう。 2013年(主日C年) 10月6日 年間第27主日 ハバ 1:2-3, 2:2-4 IIテモ 1:6〜14 ルカ 17:5〜10 「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバ v.4) この預言書は、バビロンの王ネブカドネツァルの攻撃の脅威にさらされていた、恐らくエレミヤと同時代 (王下 24〜25章) のものであって、ハバククはエルサレムの窮状を神に訴え、与えられた答えがこれでありました。 「それは終わりに向かって急ぐ。 ・・・・・ それは必ず来る。」(ハバ v.3) しかし、神からの救いを忍耐して待つ民の間には、信じる者と信じない者の分離が起きるであろう。 神に従う人だけが、信仰によって生きるからです(ロマ 1:17 参照)。 だれも神に代わって救いを作り出したり、人間の努力や能力によって地上に神の国のような世界を実現することは出来ません。 福音を通して啓示された神の義は、「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17) 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝しましょう。 「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、・・・・・ 今は罪から解放されて神の奴隷となり ・・・・・」(ロマ 6:17,22) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 芥川が自殺する夜(1927年・昭和2年7月24日)、芥川は午前2時頃まで2階で書いていた。 階下に下り、寝室の隣りの部屋には子供たちが寝ていて、 そばでウトウトしていた妻の文(ふみ)と視線が合い、「いつもの薬を飲んできたよ」と言った。 そして、寝床に入ってから聖書を開いていたが、薬が効いて聖書で顔を覆うようにして眠りに入った。 「茂吉さんが与えていた睡眠薬は、急に回ってくると、それこそぱったり眠りにつく」と、 佐古純一郎は斉藤茂吉から実際に聞いている。当時としては最高級の睡眠薬だったそうだ。 芥川は「いつものように飲んできたよ」と言ったが、実は致死量飲んで寝床についたのである。 彼は2度と目覚めることなく35歳の生涯を閉じた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 芥川龍之介の枕元から聖書をとりあげたのは太宰治であった。 「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、 心の思いが御前に置かれますように。」(詩 19:15) 「わたしの命を奪おうとする者は、恥に落とされ、嘲りを受けますように。 わたしに災いを謀る者は、辱めを受けて退きますように。」(詩 35:4) >>503 顔を聖書で覆っていて、開いていた箇所はルカによる福音書24章だった そうです。 芥川龍之介の遺言 「我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせる クリストを求めずにはゐられないであらう」 「神を知らぬ者は心に言う、"神などない" と。 主は天から人の子らを見渡し、探される。 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(詩 14:1-2) 「わたしの魂は主によって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます。」(詩 35:9) >>505 自分の心を中心にして考えるか、主である神に目を向けて聖書に耳を傾けるかで、全く別の判断が生ずるものです。 2007年(主日C年) 10月14日 年間第28主日 王下 5:14〜17 IIテモ 2:8〜13 ルカ 17:11〜19 「イエスは言われた。 "清くされたのは十人ではなかったか。 ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。" それから、イエスはその人に言われた。 "立ち上がって、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った。"」(ルカ vv.17-19) この "救った" と訳されているギリシア語の "ソーゾー" という動詞は、危機や病気や苦しみからの "いやし" という意味にも、またイエス・キリストによる "救い" の意味にも使われている言葉です。 近年わが国でも "いやし" に似た "癒やし" という言葉がたいへん流行して、これを何らかの形で取り入れることが、多くの人々の生活のパターンと考えられるようになりました。 特に新約聖書において、この語がイエス・キリストによる "救い" の意味で用いられている場合にも、むしろこれを "癒やし" と読み替えると、多くの人々にとっての通俗的なキリスト教理解に近くなります。 例えば ロマ 8:24 は 「私たちは、このような希望によって癒やされているのです」 となり、エフェ 2:5,8 は 「あなたがたの癒やされたのは恵みによるのです」 「あなたがたは、恵みにより、信仰によって癒やされました」 となります。 これなら聖書がよく分かる、と思う人がきっとたくさんいらっしゃることでしょう。 重い皮膚病をいやされた "ほかの九人" にとっては、"いやされた" ということがすべてであって、彼らはそのまま去って行きました。 ところが "神を賛美するために戻って来た" 一人は "救われた"、というのが福音書の本来の意図なのです。 初代教会にとっても、使徒たちにとっても、"福音" とは "イエス・キリストの救いの知らせ"でありました。 ですから公式な教会での朗読を前提に翻訳された "新共同訳聖書" では、 マタ 9:22 でも ルカ 17:19 でも、「あなたの信仰があなたを救った」 となっています。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 信仰はモルヒネだ 時に人生の苦痛から逃れるために有効だが対症療法に過ぎない そのまま使い続ければ人生を破壊する >>509 イエス・キリストの救いに至らないような信心は、本物の信仰とは別物なのです。 2013年(主日C年) 10月13日 年間第28主日 王下 5:14〜17 IIテモ 2:8〜13 ルカ 17:11〜19 「それから、イエスはその人に言われた。 "立ち上がって、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った。"」(ルカ v.19) イエスは重い皮膚病を患っている十人の患者の訴えを聞いて、その全員を癒されました。 しかし、癒されたのは十人だったけれども、その中で救われたのは一人だけだったというのが、今朝のテキストの内容であります。 残る九人は救われなかったということを、私たちへの警告として聞くことが、ここでは求められているのです。 イエスの癒しに拍手を送るためではなくて、「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(ルカ v.18) という、十字架のキリストの嘆きを確かに聞くのでなければ、現代の教会は決して立つことは出来ません。 あなたにとって "神からの救い" は、実際どの程度の重要性を持っているでしょうか。 そのことを今朝、私たちは聖書を通して問われているのです。 「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。」(王下 v.17) このナアマンの信仰宣言がなかったら、主イエスが故郷の会堂で福音を告知する中で、この物語りを引用されることはなかったに違いありません(ルカ 4:27)。 癒されたことではなくて、ナアマンがイスラエルの神への信仰に立ち至ったことが、この物語りの主要なメッセージでありました。 悔い改めて "神からの救い" に至る一人の罪人のために、天では大きな喜びがあることを(ルカ 15:7)、私たちはもっともっと真剣に、そして大切に考えようではありませんか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>510 > >>509 > イエス・キリストの救いに至らないような信心は、本物の信仰とは別物なのです。 聖書は残酷。 聖書を読んだら、自分は生まれてこなければよかったとおもう。 「主に従う人よ、主によって喜び歌え。 主を賛美することは正しい人にふさわしい。」(詩 33:1) 「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し、 立ち向かう者からはるかに高く置いてください。」(詩 59:2) 2004年(主日C年) 10月17日 年間第29主日 出 17:8〜13 IIテモ 3:14〜4:2 ルカ 18:1〜8 「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」(ルカ v.1) もちろんこの譬え話は、執拗に祈って訴えなければ人を顧みない不親切な神を述べているのではありません。 そうではなくて、神の国の福音を信ずる者の取るべき姿勢と、"祈りは聞かれる" という信仰を励ますために語られました。 祈りはキリスト教の信仰の旅路に属するものであり、私たち信者にとってとても大切なものです。 「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ v.8) 私たちキリスト者の祈りは、神の国の福音への信仰と切り離されてはなりません。 その福音は御子に関するもので (ロマ 1:3)、御子はダビデの子孫から生まれ、死者の中から復活され、神の右に上げられました。 そして生きている者と死んだ者との審判者として再臨する日を待ち続けておられます。 使徒たちはこのことの証人であり、聖霊もこのことを証ししてくださいます(使 5:32)。 私たちの祈りの古典的手本である "主の祈り" が、神の国待望、日常生活における神からの助け (日毎の糧)、罪の赦しと防御を主題としているように、祈りは神と神の国への信仰に基づいてささげられるものなのです。 私たち現代のキリスト者の中にこの信仰は生きているでしょうか。 21世紀の教会は厳しくこの問いの下に立たされています。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 10月21日 年間第29主日 出 17:8〜13 IIテモ 3:14〜4:2 ルカ 18:1〜8 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスのみ前で、その出現と御国とを思いつつ、厳かに命じます。 御言葉を宣べ伝えなさい。」(IIテモ 4:1-2) 新約聖書の使信は、古い昔の世界観に基づいて語られていて、それは現代人の世界観と相容れないから、そのまま受け入れることが出来ないのだという議論が、20世紀の中頃から盛んに論じられて来ました。 それは真面目な神学界の論争でありましたが、実際には、一般のキリスト教信者たちが抱いている "自分の信仰への不安感" や "聖書への不信感" を、弁護する口実を提供する結果になったように見えます。 難しい神学論争は専門家たちに任せるとして、普通の信者は "使徒たちが信じたように信じる" という姿勢で聖書に向かうのが、いちばん確かな福音理解への早道なのです。 疑ったり、理屈を付けて反論していては、"使徒たちが伝えたこと" を理解出来るわけがありません。 使徒たち自身も、キリストの再臨や神の国の到来について、科学的学問的に説明したり証明したり出来はしませんでした。 しかし、彼らは聖霊の働きと、復活の主に導かれて、"受けた福音"(ガラ 1:11-12) を宣教したのです。 ですから、それは神からの福音であって、この世の知恵や学問の産物ではありませんでした。 どんなに時代が隔たっても、私たちが "使徒たちが信じたように信じる" という姿勢で聖書に向かうことは可能であり、それがいちばん確かな福音理解への早道です。 私たち教会が使徒たちから受け継いだ福音は、イエス・キリストの出現とその御国とを思いつつ、語られまた聞かれねばならないのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 10月20日 年間第29主日 出 17:8〜13 IIテモ 3:14〜4:2 ルカ 18:1〜8 「相手を裁いて、わたしを守ってください。」(ルカ v.3) "裁く" という言葉は、旧約聖書以来 "弁護する" "守る" "救う" という意味で使われ、神による終末的救いへのイスラエルの待望を表明するのに用いられて来ました(詩 7:9, 98:9 他)。 主イエスの受難と復活が、新約聖書でこのような "裁き" の線上で理解され、新約の神の民である教会を贖い取られた御業として説明されている (使 20:28) ことを、先ず指摘しておかなければなりません。 ルカ v.7 の 「選ばれた人たち」 という表現が、新約の神の民を指していることは、先週の学びで取り上げたとおりです(IIテモ 2:10)。 つまり、この譬え話は、そのような選ばれた信者たちが 「気を落とさずに絶えず祈る」 ようにと、励ましているのです。 信仰とは、人の子が来る終末の完成の日まで(ルカ v.8)、「目標を目指してひたすら」(フィリ 3:14) 祈り続けることなのです。 果たして現代の教会には、そのような信仰が本当に生きているでしょうか。 大いに考えさせられる問題ではないでしょうか。 現代のキリスト教活動家たちによる社会的発言が、終末の日には "神は正しいことを行われます。 神はこの報いを実現なさいます"(IIテサ 1:6-8) という、"神の裁き" の警告、"神に対する悔い改め"(使 20:21) の宣教ではなくて、 大衆運動による反体制的な攻撃、つまり権力者や富者の側に打撃を与えるという復讐的性格を強く持っているように見えるのは、私の偏見でしょうか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「わたしは主に求め、主は答えてくださった。 主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。」(詩 34:5-6) 「神と共に我らは力を振るいます。 神が敵を踏みにじってくださいます。」(詩 60:14) 2004年(主日C年) 10月24日 年間第30主日 シラ 35:15b-17,20-22a IIテモ 4:6-8,16-18 ルカ 18:9〜14 私たちは福音書において、神の国の到来の日に人はどうなるのかを教えられています。 イエスの福音が私たちに要求する第一のことは、近づきつつある神の国への備えをすることであり、それこそが使徒たちの伝えたイエスの姿でありました。 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」(ルカ v.9) この譬え話の中でファリサイ派の人は、自分が神の前にいかに敬虔な生活をしているかを感謝して語っています。 彼は偽ってはいませんでした。 彼は本当に敬虔な人でありました。 しかし彼は祈りの中でその自らの敬虔による特権を主張したのでした。 「神様、わたしは ・・・・・ この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(ルカ v.11) 近い将来神の国が到来する日に、聖なる神の御前に彼はどのようにして立つことが出来るのか。 その日にはだれでも高ぶる者は低くされるのだと、イエスは語りました。 徴税人は罪人であるが謙遜であり、彼は自らの将来を神のあわれみに託しました。 神の国への備えとはこのようなものなのだとイエスは教えたのです。 イエスの教えをキリスト教的道徳の目録のように考えて、この世の争いをすべて調停し、あるいは社会的不正を取り除くすべての指針を聖書に求めるという間違いが、歴史の教会において繰り返されて来ました。 しかしイエスの説教は神の国への備えをすること、その日に私たちはどうなるのかを教えるものであったと、聖書は伝えてい.るのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「エキュメニズムに関する教令」 を、皆さんご存じですか ? 2013年(主日C年) 10月27日 年間第30主日 シラ 35:15b〜22a IIテモ 4:6-8,16-18 ルカ 18:9〜14 「今や、義の冠を受けるばかりです。 正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。 しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(IIテモ v.8) 「主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。」(IIテモ v.18) 公会議公文書の五番目に置かれている 「エキュメニズムに関する教令」 は、別れた兄弟 (プロテスタント他) とカトリック教会の両者を "主における兄弟" として認め、次のように説明しています。 "この民は、その地上の旅の間に、その成員が罪にさらされたままであるとしても、キリストにおいて成長し、神の深遠な計らいに従って、優しく導かれ、天上のエルサレムにおいて永遠の栄光が完全に満たされて喜びに達するのである。"(3) そして、現状の課題を分析して以下のように解説しています。 "事実、カトリック教会は神から啓示されたあらゆる真理と恵みのすべての手段を豊かに備えているとはいえ、その成員はそれらに応じた十分な熱意をもって生きているわけではない。 その結果、別れた兄弟にとっても、また全世界にとっても教会の顔は十分に輝いておらず、・・・・・"(4) "御国の福音"(マタ 4:23) が信者一人一人の希望であり(ロマ 8:24)、"御国を受け継ぐ秘められた計画"(エフェ 1:8-14) がすべての信者の心に明らかにされる(コロ 1:26-27) ことは、キリスト教信仰の土台でありますから、 私たちは "預けられたタラントンを地の中に隠しておいた怠け者の悪い僕"(マタ 25:14-30) とならないように、 自ら聖書を熱心に学び、使徒パウロと共に 「主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(IIテモ v.18) と心から言えるように成長しようではありませんか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 10月27日 年間第30主日 シラ 35:15b〜22a IIテモ 4:6-8,16-18 ルカ 18:9〜14 "主が祈りを聞き入れられる" ことは、虐げられた者、みなしご、やもめ等の貧しく弱い者たちだけの特権ではありません。 「主はえこひいきされない」(シラ v.16) のです。 キリスト者である私たちは、自らの罪を懺悔し、主の憐れみを乞い、御国が来ますようにと祈るためには、先ず 「御旨に従って主に仕える人」(シラ v.20) にならなければならないことを理解しましょう。 ただの善意の人になるためではなくて、キリスト・イエスに結ばれた信仰の人となるために、神が聖書を通して一人一人に、 「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださいますように。」(エフェ 1:18) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。 苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。」(詩 46:2) 「イスラエルよ、主を待ち望め。 慈しみは主のもとに。 豊かな贖いも主のもとに。 主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる。」(詩 130:7-8) しかしそれは情けない文章だなw まあ、日本人向きの宗教じゃねーよな しっかりしろ、おい、て感じだwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ 2001年(主日C年) 11月4日 年間第31主日 知 11:23〜12:2 IIテサ 1:11〜2:2 ルカ 19:1〜10 「今日、救いがこの家を訪れた。 この人もアブラハムの子なのだから。」(ルカ v.9) ルカ福音書が特に強調しているのは、"主イエス・キリストの救い" は恵みとして "訪れ" て来たのであって、私たちの悔い改めも信仰もすべては "救いの訪れの結果" なのだということです。 ザアカイという人物についての興味ではなくて、この登場人物によって私たちに与えられた主イエス・キリストの救いの恵みを描くことが、ルカ福音書の目的でありました。 「アブラハムの子」 とは元来はユダヤ人のことを指していて、約束による神の国の相続人である神の民イスラエルを異邦人から区別するための呼称であります。 ところが主イエス・キリストの福音は異邦人をも訪れて彼らに救いを与え、ユダヤ人と 「同じ約束にあずかる者」(エフェ 3:6) としてくださったというのが、ルカおよび彼がその伝道のために共に歩んだ使徒パウロの主張でした。 「アブラハムは神を信じた。 それが、彼の義と認められた。」(ロマ 4:3/創 15:6) 「しかし、"それが彼の義と認められた" という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。 わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:23-25) 「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」(ガラ 3:7) 「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラ 3:29) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2010年(主日C年) 10月31日 年間第31主日 知 11:22〜12:2 IIテサ 1:11〜2:2 ルカ 19:1〜10 もしこの徴税人ザアカイの物語りを、単独の話としてそれだけ聞いて、聖書の他の部分から切り離してしまうと、それはただの美談になってしまって、私たちは福音を理解することが出来ません。 先週の学びの最後で引用した ロマ 1:17 が、私たちが今朝の朗読配分から神のことばを聞くためのいわば決定的な前提であることを、先ず最初に述べておきましょう。 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」 神の義は、その罪によって失われ空しくなっている "虫けらのようなイスラエル"(イザ 41:14) を、御自身の贖いによって救う終末的な御業として (イザ 44:6)、第二イザヤにおいて語られていました。 この終末的な神の義が、イエス・キリストの死と復活によって今や実現したと、使徒パウロは宣教したのです。 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:23-24) この "神の義が現された (示された)" ということの見事な描写を、ルカ福音書はザアカイの物語りによって描きました。 「今日、救いがこの家を訪れた。 この人もアブラハムの子なのだから。」(ルカ v.9) それは "大宴会のたとえ"(ルカ 14:15-24)、"放蕩息子のたとえ"(ルカ 15:11-32) などとも共通する主題です。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ 2013年(主日C年) 11月3日 年間第31主日 知 11:22〜12:2 IIテサ 1:11〜2:2 ルカ 19:1〜10 「どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、 ・・・・・ 」(IIテサ v.11) "招きにふさわしいもの" とは、私たちがやがて受け継ぐ "神の国にふさわしい者"(IIテサ 1:5) のことであって、それは "主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき"(IIテサ 1:7) に実現します。 "聖なる者たち"(IIテサ 1:10/= キリスト者) とは、神の国の相続人のことであって (ロマ 8:17 参照)、"聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証"(エフェ 1:14) でありますから、 歴史の教会は今日に至るまで "地上の典礼において、天上の典礼を前もって味わってこれに参加" して来ました(典礼憲章 8)。 現代の教会だけではなくて、すでに初代教会の時代にも、"神の秘められた計画" を信じることの出来ない人たちがいました。 "主の日は既に来てしまったかのように言う者"(IIテサ v.2)、"死者の復活など無いと言っている者"(Iコリ 15:12)、"主が来るという約束は、いったいどうなったのだと言う者"(IIペト 3:4) がいる原因を、 歴史におけるその実現が遅れたからであると説明するのは正しくありません。 使徒たちの宣教を通して神のことばに耳を傾けるということの出来ない人たちは、初めからいたのです(ルカ 16:31 参照)。 しかし、「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。」(IIテサ 1:10) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「全地よ、神に向かって喜びの声を上げよ。 御名の栄光をほめ歌え。 栄光に賛美を添えよ。」(詩66:1-2) 「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。 主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」(詩 147:10-11) 「神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩 1:6) 「主を愛する人は主に守られ、 主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。 わたしの口は主を賛美します。」(詩 145:20-21) まさに、幸福の科学は、金に狂ったカルト http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12215463189.html 30年、信仰して 布施し尽くして、経済破綻。 それが、活動信者たちの実像。 そして、教祖一家と愛人たちは 極度の贅沢三昧。 これをもって、幸福の科学は 邪教であり、カルトであることは 確定したも同然。 30年、真摯に信じ続け、 教えを実践し続けた結果、 貧乏のどん底。 ORは、仏陀に非ず。 信者を不幸にする仏陀など、 絶対に有り得ない。 まさに、幸福の科学は、金に狂ったカルト http://ameblo.jp/an9ue2nfb/entry-12215463189.html とうとう某信者は、繁栄型エルを個人拝受した。 前回の降魔エルに続けて。 しかし、某は、前回で夫の退職金を使い果たしている。 住宅ローンもまだしっかり残っているのに、一体?? どうやら、借金した模様だ。 完全な、経済破綻だ。 緩慢な家庭崩壊であり、人間崩壊だ。 ここまで信者を狂わせる宗教。 絶対、邪教だ。 流石に、常軌を逸しているので、 教団、支部長、支部女性部長にメールで抗議した。 周囲の者たち、本人の家族、 皆、狂っている。 これは、信仰でも、宗教でも、何でもない。 ただの「狂気」だ。 まさに、幸福の科学は、金に狂ったカルトでしかない。 2007年(主日C年) 11月11日 年間第32主日 IIマカ 7:1-2,9-14 IIテサ 2:16〜3:5 ルカ 20:27〜38 第二バチカン公会議の大きな貢献は、教会の "根元的な本質が、神のことばと主の食卓を囲み、地上を旅する神の民であることを再発見した"(アルベリーゴ) ことでありした。 教会憲章は、神の国と教会を区別して次のように述べています。 「教会は、神の国の地上における芽生えと開始となっている。」(5) 「その国は神自身によって地上に始められたが、・・・・・ ついには世の終わりに、我々の命であるキリストが現れるとき、神によって完成される。」(9) 教会は典礼暦の最後の三主日の朗読配分によって、この世には終わりがあるということを、そして教会は来るべき新しい天と新しい地とを待つ信仰によって歩んでいるということを、再確認するのです。 テサロニケの教会の人々は "福音" によって、神の国でイエス・キリストの栄光にあずかるようにと選ばれ、招かれたのであり(IIテサ 2:13-14)、 彼らには 「永遠の (来るべき世の) 慰めと確かな希望」(IIテサ 2:16) が与えられたと、使徒パウロは書いています。 しかしそれは、聖霊の力と信仰とによってのみ理解出来るものでした。 コリントでもテサロニケでも、「すべての人に、信仰があるわけではない」(IIテサ 3:2) というのが事実でした。 教会の外の世界では当然のことであっても、新しく誕生した初代教会の中では決してあってはならないことでした。 「道に外れた悪人ども」(IIテサ 3:2)、「悪い者」(IIテサ 3:3) という強い表現の意図を、私たちは理解しなければなりません。 同様にコリントの教会の人々に宛てた手紙の中でも、使徒パウロは書いています。 「外部の人々は神がお裁きになります。 あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」(IIコリ 5:13) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 11月10日 年間第32主日 IIマカ 7:1-2,9-14 IIテサ 2:16〜3:5 ルカ 20:27〜38 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。 すべての人は、神によって生きるからである。」(ルカ v.38) イエスの時代のサドカイ派は、当時の議会における多数派でありました。 福音書にしばしば登場するファリサイ派は、実際には AD.73年にユダヤの国が滅亡して後のユダヤ教において初めて有力になったのであって、イエスの時代には少数派でありました。 つまり "復活があることを否定する人々" が多数派であるという状況の中で、イエスは神の国と終わりの日の復活、永遠の命に至る福音を宣教されたのでした。 神は、やがて神の国に復活した人々にとっての神となり、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙 21:4) という希望を与えてくださったのは、十字架のキリスト、復活のキリストであります(ロマ 4:25〜5:11 参照)。 先週の学びの中で私は現代の教会を評して、"救い" という言葉が使徒たちが宣教したようには理解されず、 "義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って受け継ぐ ・・・・・ 神の秘められた計画" とは何の関係もない別のことのように思われている ・・・・・ と書きました。 キリスト教的な道徳、政治、経済、それもほとんど実現などしそうにない理想や夢を語る説教を、私たちはこれまでどれほど聞かされて来たことでしょう。 しかし、神の国の約束や終わりの日の復活、永遠の命の希望についてのメッセージを、会衆が司祭の説教から聞くことは極めて稀でありました。 それでも神は、"主日のミサの朗読配分" を通して、自らの教会に "神のことば" を語っておられることを信じることが出来、そしてそれを聞き取ることの出来る人は幸いです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ 2013年(主日C年) 11月10日 年間第32主日 IIマカ 7:1-2,9-14 IIテサ 2:16〜3:5 ルカ 20:27〜38 「永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神 ・・・・・ が」(IIテサ v.16) 新約聖書で "永遠" と翻訳されているのは アイオーン であって、"世" と訳される場合には "この世" と "後の世" の両方に使われる言葉です(マコ 10:30)。 "永遠の慰め、希望" というのは "永遠の命" の場合と同じく、後の世すなわち来るべき神の国の慰め、希望、命のことを言っているのです。 近代人の多くは、聖書の語る復活も来るべき神の国も本気で信じなくなったために、新約聖書で使われている "永遠" の意味が理解出来なくなってしまいました。 実際、主の祈りの副文を締めくくる "国と力と栄光は、限りなくあなたのもの" や、ニケア・コンスタンチノープル信条の中の "その国は終わることがありません" が何を意味しているのかを理解している信者は稀少なのです。 しかし、この神の国を待ち望む "希望と慰め" という前提を抜きにした "善い働き、善い言葉"(IIテサ v.17) がいくら語られても、 それは福音の宣教にはならならないし、そのような説教から人々が "神のことば" を聞くことは、決して起こり得ません。 このように、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタ 22:14) のです。 しかしそれにもかかわらず、カトリック教会には "委ねられた信仰の遺産"(カテキズム/使徒憲章) があることに信頼し、 "わたしたちの罪ではなく教会の信仰を"(教会に平和を願う祈り) 主が顧みてくださることを願って、私たちは 「静かにささやく声」(王上 19:12) に耳を傾けようではありませんか。 なぜなら、私たちに与えられている神の国の約束は、「主イエス・キリストの栄光にあずからせる」(IIテサ 2:14) 救いであり、希望の光だからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ、 闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。」(詩 11:2) 「主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み、 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。 主は正しくいまし、恵みの業を愛し、 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」(詩 11:5-7) >>490 >>531 「神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びる。」(詩 1:6) >>504 「わたしの命を奪おうとする者は、恥に落とされ、嘲りを受けますように。 わたしに災いを謀る者は、辱めを受けて退きますように。」(詩 35:4) >>518 「神と共に我らは力を振るいます。 神が敵を踏みにじってくださいます。」(詩 60:14) >>538 「主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み、 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。」(詩 11:5-7) 神もキリストも信じないものは、このような目にあう。 Am Anfang schuf Gott Himmel und Erde.(I.Mose 1:1) Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.(Joh 1:1) >>539 なぜ、日本人が、 ユダヤの神を信じないとこのような目にあうと、 脅迫され続けなければいけないのか。 信じなければ、生涯、脅迫され続ける。 2004年(主日C/A年) 11月14日 年間第33主日 マラ 3:19〜20a IIテサ 3:7〜12 ルカ 21:5〜19 「そこで、彼らはイエスに尋ねた。 "先生、では、そのことはいつ起こるのですか。 また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。"」(ルカ v.7) キリストの福音は "世の終わり"(ルカ v.9) に関わる "神の国の福音"(ルカ 4:43) であって、教会は代々にわたって "私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んで" 来ました(ルカ 21:27)。 使徒たちはこの福音の証人となった人々でありました。 彼らはこの福音のためにあるいは迫害を受け、あるいは殉教の死を遂げました。 そしてそれはキリストとその福音を証しする最高の機会となったのでした。 ルカ vv.8-11 はいわゆる黙示文学的表現であって、これを無理に一世紀の特定の出来事に結びつけて説明しようとするのは適当でありません。 まして後の時代の歴史を予告する "お告げ" などではありません。 「しかし、これらのことがすべて起こる前に」(ルカ v.12)、「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(マコ 13:10) ことが、今朝の福音の日課の主題であります。 使徒たちを通して語るのは復活されたキリスト御自身でありました(ルカ v.15)。 「遣わされた者」(ヨハ 9:7) の口に神は言葉を授け (エレ 1:9)、「この私があなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(出 4:12) と言われます。 聖霊が語らせるとは、そういうことです。 彼らは 「忍耐によって、命を勝ち取り」(ルカ v.19) ました。 ですから使徒パウロも自分の後継者テモテに書き送って言いました。 「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」(Iテモ 6:12) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 。。。。 † ルカによる福音書11.43-46 わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。 わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」 すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」 しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、 自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。 原発は日本を不幸にするだけです。地震大国なのです。次はないのです。 † マタイ23.13 しかし、忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。 あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。 自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。 。。。。 Und alsdann werden sie sehen des Menschen Sohn kommen in einer Wolke mit großer Kraft und Herrlichkeit.(Luk.21:27) 2013年(主日C年) 11月17日 年間第33主日 マラ 3:19〜20a IIテサ 3:7〜12 ルカ 21:5〜19 「見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。」(マラ v.19) 「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。」(マラ v.20) 終末は、人間の行為によって地球に訪れる破滅ではありません。 戦争も、天災も、地球温暖化も、原発事故も、地上に終末がやって来る原因にはなり得ません。 また教育も医療も、政治運動も平和活動も、決していささかも神の国の到来を促進したりはしません。 もしそのような説教がどこかの教会で聞かれるなら、それは間違っています。 ただ神の愛が、その偉大な摂理と権能が、"この世" を終わらせ、"後の世" を来たらせる "秘められた計画" を実現されるのです。 "その日" を来たらせる方は神であって、人間ではありません。 教会は 「義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(IIペト 3:13) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より サロメ、何必死になってんだ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww http://swedenborg-platon.seesaa.net/article/290851301.html KKのガンちゃんです。 君らは、クズですww 悔しかったら、私を論破しなさい!! 出来はしないだろうがww 君らのオツムじゃ・・・・ カマ〜ン!! 517:神も仏も名無しさん :2016/11/14(月) 18:34:17.74 ID:aip0wAlW どっかの宗教のバカな最高指導者が北朝鮮から無経験のテコンドーの名誉段位貰って歓喜してるってよww こんなバカなやつにはお似合いだけど 最低なバカ指導者だな どこの宗教だよ? 518:神も仏も名無しさん :2016/11/14(月) 20:28:41.26 ID:tg7BI/Ly >>517 フランシスコ教皇様じゃないか!w 個人的には柔道もしくは空手であって欲しかったけどね。 wwwwwwwwwwwwwwwwww Wir predigen nicht uns selbst, sondern Jesus Christus, daß er sei der Herr.(2.Kor. 4:5) >>549 > Wir predigen nicht uns selbst, sondern Jesus Christus, das er sei der Herr.(2.Kor. 4:5) >>550 > >>549 > > Wir predigen nicht uns selbst, sondern Jesus Christus, das er sei der Herr.(2.Kor. 4:5) 誤爆 誤爆www 何も意味はありません。 片手で携帯を触っていたら知らないあいだに書き込みになっていました。ププ 2004年(主日C年) 11月21日 王であるキリスト サム下 5:1〜3 コロ 1:12〜20 ルカ 23:35〜43 ダビデはそれまでユダ一部族の王でしかありませんでした(サム下 2:4)。 その前は400人ほどの徒党の頭領でした(サム上 22:2)。 その彼がヘブロンで油を注がれて神の民イスラエルの王となりました。 ですからダビデの王座 (ルカ 1:32-33) とは神の民の王座のことであって、父なる神は復活のキリストにこの王座をお与えになりました。 ですから、御子の血によって贖われて神の国の国籍を与えられた者たちは 「神のイスラエル」(ガラ 6:16) であり、キリストは復活して神の国を受け継ぐすべての人々の王なのです。 キリストがすべての人の救い主であるということは、必ずしもすべての人が復活の日に神の国を受け継ぐという意味ではありません。 ましてや神が天地万物を支配する王であるということが、ダビデの王座を無意味にすることはありません。 「いかに美しいことか、山々を行き巡り、よい知らせを伝える者の足は。 彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、“あなたの神は王となられた” と、シオンに向かって呼ばわる。 その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。 彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。」(イザ 52:7-8) 王であるキリストの祭日に、キリストの福音の “良い知らせ” を聞き取ることが出来る人は幸いです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日C年) 11月25日 王であるキリスト サム下 5:1〜3 コロ 1:12〜20 ルカ 23:35〜43 イエスが受難のためにエルサレムに入られたときの群衆の叫びを、マタイは 「ダビデの子にホサナ」 と書き(マタ 21:9)、マルコは 「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」 と述べました(マコ 11:10)。 かつてイエスの受難の出来事を、他人事のようにしか考えなかった私たち異邦人が、悔い改めて神を畏れる者となり、今やユダヤ人と共に神の国を受け継ぐという希望に生きるようになったのです(エフェ 3:6)。 歴史上のダビデ王国がそのまま神の国であったのではありませんが、それは今なお、イエス・キリストの再臨によって実現する来るべき神の国を指し示すものであり続けています。 イスラエルのどの部族にもよらずに “ダビデの町” がイスラエル統一の中心となったように、来るべき神の国も人間のどのような集団やその計画によってでもなくて、再臨のイエス・キリストと共に出現することでしょう。 教会は今はまだ目に見えないものを、信じて望んでいるのなら、私たちはその実現を忍耐して待ち望むのです(ロマ 8:25)。 「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロ v.14) 御子の贖いの血によって天の父と和解させていただいた者たちの教会は、“罪の赦しを得ている” ことをいつも感謝しましょう。 イエスの処刑の場を通りかかって侮辱した民衆の罪、一緒に十字架につけられながら同じようにイエスをののしった強盗たちの罪が、まさに私たち自身の罪であったと気づくようになり、 神を畏れる者となって悔い改め、“罪の赦しを得た” ことを、感謝しましょう。 「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロ 1:23) 教会の典礼暦の最後の主日である今日は、神の国の王であるキリストの祭日です。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2013年(主日C年) 11月24日 王であるキリスト サム下 5:1〜3 コロ 1:12〜20 ルカ 23:35〜43 「ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。 長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。」(サム下 v.3) しかし復活によって “あらゆる名にまさる名を与えられた”(フィリ 2:9) キリストは、地上の王国を建て直す (使 1:6) ダビデ王の再来 (ルカ 1:32-33) 以上の方でありました。 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」(ロマ 1:3-4) そして教会を、新しい契約の民として贖ってくださいました。 「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ 22:20) 王であるキリストの祭日は、聖なる者たちが復活の希望を新たにする、典礼暦最後の主日です。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 【典 礼 暦】 2016-2017年(主日A年) を、私の WebSite に upload しました。 http://www.kuwaei2000.com/Document/16-17cal.html ページの下の方に、プリント用の pdf file へのリンクもあります。 ご利用ください。 これは 「教会暦と聖書朗読」 の、各期節ごとの解説の部分を、一ページにまとめたものです。 そしてそれは、「典礼暦と典礼暦年に関する一般原則」 に基づく情報であることを、付言しておきます。 「神に感謝します。 神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」(IIコリ 2:14) 無教会スレ出入りのろんです。こちらでも、お世話になります。 よろしく、お願いします。 幕末維新頃のプロテスタントのキーワード、キーマンを探してみました。 札幌バンド・クラーク(内村鑑三)無教会主義 横浜バンド・バラ(ヘボン塾)オランダ改革派と明治学院 熊本バンド・ジェーンズ(解散させられた熊本洋学校の生徒が合流)京都の新島襄と同志社 横浜・熊本・札幌バンド 日本キリスト教史 天上の青 ttp://tenjounoao.waterblue.ws/jhistory/history20.html ローマ字のヘボンさん ttp://www.hebon.sonanda.net/040hebon.html YouTubeで聞ける見れる明治学院大学の讃美歌 讃美歌158番「あめには御使(みつかい)」 - YouTube 讃美歌312番「いつくしみ深き」 - YouTube 讃美歌370番「めさめよ、わが霊(たま)」 - YouTube 讃美歌461番「主われを愛す」 - YouTube 同志社大学カレッジソング、「ラインの守り」? ttps://www.youtube.com/watch?v=uCYkzBSO6xM 無教会主義(むきょうかいしゅぎ)とは - コトバンク ttps://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9-140311#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 無教会主義 明治大正期のプロテスタント系キリスト教思想家 内村鑑三が唱道 実践した信仰の立場と その運動。 福音の理解は 聖書そのものの正しい研究によってのみ得られるとし また福音の本義は 律法によるのではなく キリストの恩恵と信仰のみによる救いにあるとした。 制度化された教会と その聖礼典を批判 聖書と信仰のみを重視する。 内村鑑三によって始められ 弟子の塚本虎二 矢内原忠雄 黒崎幸吉らの 活動によって定着したとみられる日本独自のキリスト教 無教会の 最初の主張は《基督信徒の慰め》(1893)に現れるが これは〈不敬事件〉のあとのもので 国家権力からの 自由を求めるピューリタニズムの思想が 背後にあるとみられる。この主張は同時に 宣教師と牧師の少ない当時にあって 制度的教会に頼らない生き方を教え 日本人の伝統的感情に迎えられた。 無教会主義 内村鑑三(うちむらかんぞう)の主張した キリスト教のあり方。 宣教師による教派主義の弊害を知り フレンド派(クエーカー)のキリスト教の影響 1893年(明治26) 『基督(キリスト)信徒の慰(なぐさめ)』 「第3章 基督教会に捨てられし時」 に「無教会」の言葉が出る。 1901年(明治34) 『無教会』「教会の無い者の教会」(第1号) 「無教会主義」(第3号) 教会の建物、教師の資格も洗礼や聖餐(せいさん)などの儀礼 キリスト教に不可欠のものでない。 教会やその儀式・制度をすべて否定するのではなく 「無教会は進んで有教会となるべきである」 聖書講義と伝道誌の発行を中心に 無教会主義のキリスト教を存続 無教会主義をめぐる神学的解釈には 若干相違があったとしても 多くの集会が日本各地で続けられている。 初期キリスト教に関する歴史的な流れについて。 イエスが十字架にかかられた年代は 第202回のオリンピック大会の第4年目つまり 西暦31年ユダヤ暦ニサン(アビブ・1月)の月の第15日の 朝9時から午後3時の出来事。 西暦49年に皇帝クラウディウスが 「キリストの扇動で年中騒動を起こすユダヤ人」を 首都から追放した。 西暦50〜110年頃の間に 新約聖書の使徒書簡・マルコ福・Q資料が書かれた。 古代ローマ皇帝ネロによるキリスト教への大迫害の理由となった ローマ大火(ローマたいか)は 西暦64年7月19日。西暦2世紀(100年代)初めの歴史家タキトゥスの 年代記15:38〜44に記述あり。 西暦64〜150年頃の間に 新約聖書のマタイ福・ルカ福・使徒言行録・ヨハネ福・黙示録が書かれた。 西暦70〜73年にユダヤ反乱(ユダヤ戦争)があった。ユダヤ人離散となる。 西暦90年にユダヤ教のヤブネヤ会議で旧約聖書39巻が選抜される。 西暦393年のヒッポ会議と 西暦397年のカルタゴ会議で新約聖書27巻が選抜される。 ヒッポ会議(393年)、カルタゴ会議(397年)によって、 現在の27巻が新約聖書の正典として認定されます。 認定の規準は、以下のようなものです。 @著者は、使徒か、使徒と関係の深かった人か。 A教会全体から受け入れられているか。 B正統的な教理や教えと矛盾しないか。 C聖霊による霊感を感じさせる霊的、倫理的価値を含んでいるか。 正典:新約聖書をどう読む(1) ttp://www.geocities.jp/todo_1091/religion/039.htm エイレナイオスのブログ 18.聖書を読む 新約 ttp://irenaeus.blog.fc2.com/blog-entry-123.html 4福音書のシンボル ttp://nyumonkouza.net/2013/09/05/%EF%BC%94%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB/ 新約聖書正典成立過程まとめ odai/2147486034772665001 正典 ttp://www.geocities.co.jp/MotorCity-Rally/5709/canon.html 日本聖書協会 口語訳 新約聖書 ttp://bible.salterrae.net/kougo/html/ 聖書本文検索 日本聖書協会ホームページ ttp://www.bible.or.jp/read/vers_search.html 聖書の成り立ちについて ttp://www.harvesttime.tv/news-topics/q-and-a/how-the-bible-came-to-be/ 「トマス福音書」全文114句 ttp://apocrypha.jimdo.com/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8/%E6%9C%AC%E6%96%87/ 幻のQ文書(Q資料といわれるイエス語録)とは ttp://muso.to/h-qsiryoumakku.htm ルターは ヨハネ福音書 ローマの信徒への手紙 ペテロの手紙 一 が 他の3つの福音書よりまさっているとしている 新共同訳 用語解説 契約の項 モーセの契約(シナイ契約) イエスの死による契約(新しい契約) 律法の行いの大祭司(律法の実行、日々いけにえ、レビ) 信仰の行いの大祭司(約束と恵み、キリストがいけにえ、契約の仲介者、メルキゼデク) ガラテヤ3:13−14 キリストは私達の為に、 呪いとなって、私達を 律法の呪いから贖い出して下さった。聖書に 「木に架けられた者は呪われる」と書いてある。それは アブラハムの受けた祝福がイエス・キリストにあって、 異邦人に及ぶ為であり、 約束された御霊を、私達が 信仰によって受ける為である。 ヘブライ7:27 彼は、ほかの大祭司のように、まず 自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、 いけにえをささげる必要はない。なぜなら 自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。 ガラテヤ2:21 わたしは 神の恵みを無にはしません。もし 人が 律法のお陰で義とされるとすれば それこそ キリストの死は無意味になってしまいます。 ヘブライ6:20 イエスは、わたしたちのために 先駆者として そこへ入って行き、永遠に メルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。 ヘブライ9:15 こういうわけで キリストは 新しい契約の仲介者なのです。それは 最初の契約の下で犯された罪の贖いとして キリストが死んでくださったので召された者たちが 既に 約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。 ガラテヤ3:9 それで 信仰によって生きる人々は 信仰の人アブラハムと共に祝福されています。 私達があなた方に伝えた事は、私自身、主から受けたものです。 即ち主イエズスは引き渡される夜、 パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、 『これは、あなた方の為の私の体である。 私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。 また食事の後で杯も同じようにして、 『この杯は、私の血によって立てられる(エレミヤの)新しい契約である。 飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい。』 と言われました。 だから、あなた方は、このパンを食べこの杯を飲むごとに、 主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。 (コリントT11:23〜26、エレミア31:31〜34) あらし的なカキコでしたが、いま時分はコレまでに致します。 よろしく、どうぞ。 ろんさん。 ようこそ。 これまでに蓄積して来た資料を、一通り書いてくださったようですね。 ろんさん の努力、熱意、そしてエネルギーに感心します。 私としては、ろんさん がご自分の信仰理解や、いろいろ集めた資料に対する自分なりの判断基準を表明できるまでに、ぜひ成長してほしいと感じます。 誰でも、長い模索を経て、「自分の判断」 を持つようになるのですから、これからも求道の旅を続けてください。 折に触れて、書き込みをお待ちしています。 老クリスチャン先生。ありがとうございます。 今後もよろしくご指導をお願いします。助かりました。 2004年(主日A年) 11月28日 待降節第1主日 イザ 2:1〜5 ロマ 13:11〜14 マタ 24:37〜44 「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。 人の子が来る場合も、このようである。」(マタ vv.38-39) 人はみな例外なく日常生活を歩んでいます。 信仰とはこの日常生活から脱出することではなくて、まさにその中で 「人の子が来る」 という将来の事実に目覚めていることなのです。 キリスト信者もそうでない人も、外見上は区別出来ません。 また外見上区別出来るような信仰集団を作って特別な生活をしていても、その日は一人残らずを同じように襲うのです。 そしてその日には、「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」 ことになります。 私たちの希望は、この再び来られるキリストにかかっていることを思いましょう。 「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。」(IIテサ1:10) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2007年(主日A年) 12月2日 待降節第1主日 イザ 2:1〜5 ロマ 13:11〜14a マタ 24:37〜44 このイザヤが見た幻は、“終わりの日” の幻でした。 ところが近代人はその中の4節だけを前後関係から切り離して、あたかもキリスト教は地上に平和を打ち立てることを目標にする宗教であるかのような、そんな主張を作り上げたのでした。 福音の終末的使信が見失われたところには、実現不能な幻想だけが残ることになりました。 20世紀を代表する哲学者の一人といわれるレヴィナスが、その主著である “全体性と無限”(岩波文庫) の序文で、次のように書いています。 「私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか。 ・・・・・ 聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである。 そうであるなら、聡明さとは、戦争の可能性が永続することを見て取ることにあるのではないか。」 ユダヤ人である彼が、通俗的キリスト教による旧約聖書への安易で誤った理解の一つを、痛烈に批判していることに私たちは注目すべきです。 そしてこの4節を、実現不能な幻想としての平和主義を主張するために、しばしば好都合な聖句として利用して来たことを、私たちキリスト者は真剣に反省しなければなりません。 教会が聖書から聞くべきものは、神のことばすなわちキリストの福音であって、それは使徒たちの証言と聖霊の働きによってだけ私たちに届くのです。 キリストは私たちを、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザ v.4) 神の国に迎えるために、今や来たり給うのです。 来たり給う主キリストを歓呼して迎えるために、新しい典礼暦の一年が今日からまた始まります。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より おっ、よかったね。 私以外に老栗さんのサイトを読む人が出て。 「神に感謝します。 神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」(IIコリ 2:14) 「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」(IIコリ 2:16) 正典:新約聖書をどう読む(1) ttp://www.geocities.jp/todo_1091/religion/039.htm コリントの信徒への手紙2(涙の手紙、和解の手紙) パウロは敵対者との対決を決意して弁明と怒りの手紙、いわゆる 「涙の手紙(10〜13章)」を送り、権威の回復を訴えた。 コリント教会に対するパウロの熱情と、共労者テトスの仲介の努力で、 ようやく誤解が解ける。その和解を喜んでパウロが書いたのが、本文 「和解の手紙(1〜9章)」と考えられる(諸説あり)。 2013年(主日A年) 12月1日 待降節第1主日 イザ 2:1〜5 ロマ 13:11〜14a マタ 24:37〜44 「そのとき、畑に二人の人がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」(マタ vv.40-41) この 「連れて行かれ」 を ヨハ 14:3 の意味で理解すると、「もう一人は残される」 が マタ 7:21-23 や マタ 25:11-12 の “お前たちを知らない” と言われる人々のことであるのが分かります。 後者の人々も教会に連なる仲間であって、「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」(ルカ 13:26) と言うに違いありません。 しかし ・・・・・ 、そうです、彼らは “キリストの福音と、受けた救い” を本当には理解していなかった ・・・・・ “むとんちゃくでいた”(ヘブ 2:3) ことが、終わりの日には暴露されるのです。 “目を覚ましている” とは、世俗から逃れて修養と瞑想の世界に生きるということではなくて、 むしろ世俗の生活と勤めの中にありながら “天にあるわたしたちの本国を思い、そこからわたしたちの主イエス・キリストが救い主として来られるのを待っている”(フィリ 3:20) という、教会の信仰に固く立つことです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 正典:新約聖書をどう読む(1) ttp://www.geocities.jp/todo_1091/religion/039.htm マルコによる福音書(イエスとは何者なのか、何を伝えたのか) ローマの圧制とユダヤ支配層の腐敗 社会不安と終末的世相の中で 差別のない神の国が もうすぐ訪れるという 福音(良き知らせ)を伝えるイエスを表す。 民間伝承である奇跡物語 エルサレム原始教会由来のイエス伝承 典礼化された受難物語などから 人の子イエスの神性を明らかにして イエスは聖霊により神が愛する子となったとする。 被差別者が解放される「神の国」の福音を説き 当時のエルサレム原始教会の使徒達やイエスの弟ヤコブの ファリサイ派(律法主義)的傾向を批判した。 伝統的にマルコが著者とされるが ペテロの弟子というのは 福音書を読む限りその可能性はない。 著者はギリシャ語が稚拙であるから パレスチナ出身のユダヤ人キリスト者だろう。 執筆場所はパレスチナ北部かシリヤ南部。 エルサレム崩壊を知らない事から 紀元70年以前の50〜60年代と推測される (後に改編されている13章の小黙示録部分など)。 処女懐胎や復活顕現はない。 マルコの教会は傍系であったが 最初に書かれて流布したために 正典から外す事が出来なかったと思われる。 典礼暦の新しい一年が始まりました。 私にとっては、典礼暦は聖書神学と並んで、聖書から 「教会に受け継がれて来た福音と信仰の理解」 を聞き取る、貴重な道案内です。 http://www.kuwaei2000.com/2ch.html に収録している 「聖書と説教の関係について」 「カトリック教会の典礼暦」 「主日のミサの朗読配分」 参照。 ろんさん は、かなり広い範囲から情報を集めていらっしゃいますが、これまでの書き込みからは、それらの知識が聖書本文から 「キリストの福音」 を聞き取ることにどのような助けになっているのか、今ひとつ見えてきません。 聖書そのものの素読を繰り返す、という基本が欠けていると、たとえ純粋で熱心であっても、雑多な知識が空回りするだけになってしまうのではないかと、私は心配します。 2ch の論客たちの反応を見ていると、まるで私が普通の信者に、難しい専門的な神学の知識を勉強しろと言っているかのような誤解が、ときどき見られます。 ろんさん を例に取らせていただくと、こんなに広範囲の情報を熱心に追いかけ回すというのは、たいへんなご苦労の筈です。 一般に出版されているキリスト教関係の書物、特に専門的訓練を必要とする本格的な神学書などを、手当たり次第に勉強するには、超人的な努力と能力が必要になります。 私はこれまで一貫して、そのような過大な計画を、軽率にも本気で初めて、結局は途中放棄することに警告して来たつもりです。 これは普通の信者にも、ある程度専門的な教会の指導者に対しても、分かって欲しい私からの助言です。 http://www.kuwaei2000.com/2ch.html の 「聖書と説教の関係について」 の、冒頭の部分を参照。 老クリスチャンさん。こんにちは。今日は作業シフトの休みの日です。 聖書離れと思わせて、ご心配おかけして、すみませんでした。 祈りの中身は神様が前もってご存知だから、マタイやルカにある主の祈りを。 イエス様の十字架と復活が救いなのだから、万事天の父により頼むだけです。 福音書のたとえ話などは高校時代の学校礼拝で通読で聞かされていました。 新約の福音書だけでなく旧約の創世記も通読を聞かされています。 聖書の通読に関し、学校礼拝のあった 登校日の年に何百日の3年間は短いようで長いです。 教会通いの3年間は、聖句が週に一回ですから 教会の聖書の情報量は、学校礼拝の5分の1の量です。 新約聖書の通読は先月か先々月に1度していますが素読でした。 自分が思うに 日本聖書協会の新共同訳にある用語解説や いのちのことば社の聖書ガイドブックや実用聖書註解は 聖書理解に役に立っています。 プロテスタント(改革派・ルーテル教会)の各国語による 聖書普及作戦は大成功だと思っています。神に感謝です。 私は以前に、「現行の日本語聖書として主なものは “新共同訳” と “フランシスコ会訳” の二つですが、そんなに大きな訳文の違いはありません」 と書きました。 ただしそれに続いて、「ただ後者には、聖書各巻の初めに簡単な解説がついているので、これから新しく購入する人にはオススメです」 と、付け加えておきました。 2ch で、自分をいかにも学者ぶって発言しているある人が、「そんなレベルの低い解説 ・ ・ ・ 」 と、馬鹿にしたような反応をしていました。 私は、低レベルでも良い、むしろ普通の方々に簡単に読みこなせる、十分に理解出来る、そんな参考書や資料をお勧めしたいのです。 実際には、本当に内容がしっかりしていてしかも簡略な参考資料というのは、中途半端な人間に書けるものではありません。 本当に信頼できて、役立つ資料は、実は際だってレベルの高い神学の専門家でなければ書けないのです。 老クリスチャンさん。2chは玄人が結構多いです。 神学知識が旺盛な人がいっぱいいます。 私のように問題だとか失敗したカキコだと 訂正のためにネット検索して正しい情報を探す事もあり 参考としてリンクに関する引用ソースや カキコ情報を出すのが精一杯です。 便所の落書きやデマや差別内容も多いのも確かですが。 私は高校時代は 学内YMCA(洗礼を受けてない人もいる聖書クラブのような部活)に いましたので、新約聖書の使徒書簡と聖句解説は読んでいました。 学校礼拝は福音書だけでなく 時折、使徒書簡も読んでいた記憶があります。 現在はパウロ書簡でガイドラインを思い出せるのは ローマ書が義の手紙 コリント書が愛の手紙 ガラテア書が十字架の手紙 コロサイ書が天使礼拝を警告の手紙 エフェソ書が処女神アルテミス批判の手紙(エフェソは聖母マリアの教会に) ヘブル書がユダヤ教とキリスト教の違いを述べている。など、など、 こんな簡単な知識があっただけです。 ろんさん、お返事ありがとうございます。 ろんさん も、まだ分かっておられないのですが、ただの雑多な神学知識の寄せ集めと、本格的な意味での 「神学」 とは、全く別のもの、似て非なるものなのです。 私が言いたいのは、そんな雑学を吹聴して、いっぱしの議論をしているような連中に、惑わされないで欲しいということです。 そなんもので救いを得ることは出来ませんし、福音を理解して信じるということも起こりません。 私はこの 2ch に顔を出すようになって、やっと一年を超えたところですが、これまでに 「神学を理解している」、「自ら神学している」 ような論者には、ほとんどお目にかかっていません。 分かり易い言葉を使えば、「イエス・キリストを信じて救われた人」 に、ほとんど出会っていないということです。 私は、とても自分を誇ることなど出来ない浅学の徒ですが、本物の神学を、確かに学んでいる、ということを感謝しています。 聖書神学にせよ、教義学にせよ、典礼学にせよ、私はそれらから何よりも 「信仰」 を受け取り、学び取って来ました。 それらは私にとっては、「信仰に達し得ないただの学問」 ではありませんでした。 老クリスチャンさん。惑わされないよう気をつけます。 ネットの知識を鵜呑みにせず、信仰に立って考えるクセとか、 自分の判断を磨くという事もしていきたいです。 2ch以外で聖書通読やカテキズムなどを読みながら 自分の言葉を語れる習慣もつけたいと思います。 ところで、すろさん(スロージューサーさん)はどうでしょうか。 2chカキコでは小学生の頃の教会通いの話題もあり 生まれながらのクリスチャンで 注釈書も読みこなしているような気はするのですが。 すろさんは他のスレでつきみさんとレスの書き方で言い合いになり 2chでは仲が悪いコテハン同士がいるものだなぁと思っているのですが。 私はつきみさんのカキコで予定説(予定論)がわかったのです。 >>569 の救済論のリンク先の説明に予定説は書いてあります。 カトリックのミサ ミサ式次第 - カトリック宇部・小野田ブロック ttp://ubecat.jp/missa/ ミサ式次第 ttp://catholic-katsura.life.coocan.jp/mass.htm 各国語版ミサ式次第 ttp://maytetherese.easter.ne.jp/chapel/massorder/massindex.html キリスト教の敵の資料からもキリストが歴史的に存在した事が証明できる。敵を愛すも然り。 ユダヤの敵ギリシアのオリンピックの年代から十字架の日を割り出せる。 キリスト教の敵ユダヤの太陰暦や口承伝承や旧約聖書から十字架の日を割り出せる。 キリスト教の敵のユダヤ人(ガリラヤ人)ヨセフスの記録からも迫害時期を割り出せる。 キリスト教の迫害者ローマの歴史書の年代記や碑文から迫害時期を割り出せる。 主イエスが十字架にかかられた年代と日時 ttp://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20140414/p1 ローマ皇帝ネロとキリスト教徒 ttp://manga.world.coocan.jp/kiri-8-nero-kirisuto.html パウロの伝記的年代の基準 /paulsup/galliondate.htm クラウディウス帝は AD41年には騒乱を起こしたユダヤ人だけを追放した上でユダヤ人の集会を禁じ AD49年にはユダヤ人(キリスト教徒を含む)を全面的にローマから追放したことになります。 使徒言行録17:32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、 ある者は、「それについては、いずれ また聞かせてもらうことにしよう」と言った。 イエスの生まれがドウであれ 十字架で死んだ人間イエスはいるとパウロは信じている。 つまりパウロは当時のギリシア人に相手にされてなかった。 相手にされてない人物パウロが 歴史的に存在した事は証明されている。 信仰者とはイエスが神であることを信じる者達のことです。 聖書とは、処女から人間が産まれた事を信じろなどという書物ではないのです。 >>591-596 以前に私もその話題に、少しだけ言及しました。 「すでに一時代も二時代も昔、20世紀前半の日本の教会では、聖書の記述と自然科学とは両立しないというような議論が盛んであったようです。 ・ ・ ・ 」 興味がありましたら、覗いてみてください。 http://www.kuwaei2000.com/2ch.html 「聖書と信仰、こぼれ話」 → 6. 老クリスチャン先生。たびたび、くだけた話をいただきまして ありがとうございます。キリスト教の信仰についての理解が進みます。 ですが残念ながら信仰を求めて洗礼を受ける覚悟は、いまだ出来ていません。 テサロニケの再臨の話に納得が出来ないからでもあります。 それで密教系の新宗教に約16年間走った理由でもありました。 ノストラダムスの大予言と言うワケワカメな話に人生つきあった結果です。 いまだ求道者の立場でしかものが言えない状態です。 信仰問答もこれからの人生を考えると 難しいことを言っているなと思っている状態です。 >>585 訂正です。 > エフェソ書が処女神アルテミス批判の手紙(エフェソは聖母マリアの教会に) 使徒言行録の話とエフェソ書の話を間違えていました。 カッコ内は学校の時の話ではなく約20年後のインターネットで得た話です。 信仰者とはイエスが神であることを信じる者達のことです。 聖書とは、処女から人間が産まれた事を信じろなどという書物ではないのです。 それは普遍的なことがらであり日本では古来よりムスヒと呼ばれており 万国共通の事象なのです。イエスキリストだけが特別なのではありません。 イエスが半人半神であったと言う説を唱える者もいますが 処女から産まれる事は当然出来ないため完全に却下されます。 老クリとろんのやりとりは、ちょうど 腕が悪いカメラマン同士が、お互いに集めたカメラを見せ合いっこして その性能を語り合っているようなもの。 素人が観ると、あたかも腕がいいカメラマン二人なんだろうなと勘違いする。 こんなキリスト者になってはいけないというサンプルの二人だね。 ろんは老クリのマウンティングのターゲットであり 「薄汚い者」は自分をラビと呼ぶ馬鹿弟子を探しあてた。 >>598 ろんさん と ご縁が出来たのも、きっと主の導きによることだと思います。 今回の書き込みで、初めて ろんさん の人生の歩みが少しだけ想像できるようになりました。 私が 2ch で、特にカトリックと名のつくスレで、どれほど暴言を浴びせられているかは、きっとご存じだと思います。 私は、主が私に与えてくださった救いと、福音への信仰を、大いに誇りに思っています。 自分自身を誇るのではなく、「誇る者は主を誇れ」 と書かれているとおりです。(Iコリ 1:30-31、エレ 9:23 参照) ろんさん が 私に敬意を表してくださっているのは分かるのですが、私を 「先生」 と呼ぶのは差し控えてください。 すでに 2000年1月から、一人の信徒としてカトリックの教会のミサに参加させていただいています。 その最初の頃、ある一人のプロテスタントから来た信者が、何回か私を 「先生」 と呼ぶことがあって、その人には私から 「先生と呼ばないでください」 とお願いしました。 しかし、その数回の先生呼ばわりを耳にしたあるカトリック信者から、後になって敵意ある攻撃を受けたものです。 多くの教会で、カトリックの教会では特に、あまり知識のない初心者には皆さん親切にしてくださいますが、彼らよりも知識のレベルが高いと分かったとたんに、警戒心だけでなく、多くの場合敵意を持った目で見られるようになります。 どこの教会でも、驚くべきことに、ほとんどの信者は (更に牧師や司祭までもが)、自分が何を信じているのかよく分かっていないし、福音に対する明確な確信も持っていないのです。 そして、その (核心的な) 弱点を見透かされることほど、彼らにとって嫌で怖ろしいことはないからです。 本物の信仰者は、ただ主への感謝と賛美に生きるもので、教会と主の小羊たちを愛することはあっても、仲間の足を引っ張ってみたり、蹴落として自分が優位に立とうなどと考えることはありません。 「信仰」 もそうですが、「謙遜」 も、主が与えてくださるものであって、自分の努力で作り出す美徳ではないのです。 ろんさん は、Iテサ 1:10 につまずいたのですね。 それは、とても重要なポイントに直面したということなのです。 たいていのキリスト教信者は、こういう聖書の証言を真面目に考えるのをスキップして、洗礼を受けてしまった人々です。 そういう先輩に、福音や救いをどう考えたら良いのかと質問しても、まともな返事を期待することは出来ません。 キリストの受肉を、死と復活を、そして昇天と将来の再臨を、人間の知恵で理解しようとするのが間違っているのです。 それは信仰の事柄であって、救いは 「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17) そして、その信仰は、賜物として与えられるものであって、決して人間が自分で作り出すものではありません。 お読みになったかも知れませんが、先日別スレに私が書き込んだ 【信仰とは】 へのリンクを紹介しておきます。 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1478019542/288-293 11月26日 年間第34土曜日 (ルカ21,34-36) 「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、 あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、 いつも目を覚まして祈りなさい。」ルカ21,35-36 誰かを愛するとは、その人を高めるように善を行うことですが、この人のために希望を持つということでもあります。 ですから、何の希望も持たずに、絶望して生きている人は、誰も愛していない、また、希望を見出さないかぎり、 誰も愛することが出来ないと言えると思います。 イエス・キリストが再臨されたら、神の国と同時に私たち一人ひとりを完成してくださり、 私たちが永遠に父である神の愛に生きるようになるという希望を新たにして、私たちは私たちの愛、神に対する愛、 また、隣人と自分自身に対する愛が、強められますように祈りましょう。 * すべてを治められる父よ、 み旨にしたがって生きる人に、 あなたは神の国の喜びを備えてくださいます。 あなたからいただくすべてのものが、 救いのみわざの完成に役立つものとなりますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」 http://www.nowaksvd.net/ 老クリも馬鹿ではあるまい。 これが、お前がいつもやってることだよ。 >>604 >私が 2ch で、特にカトリックと名のつくスレで、どれほど暴言を浴びせられているかは、 >きっとご存じだと思います。 >私は、主が私に与えてくださった救いと、福音への信仰を、大いに誇りに思っています。 お前はまだわかってない。 自分の神学の勉強の仕方だけは「本物」。他の人とは違って自分は。 いつも人が悪い。自分は正しい。自分が裁く。他者が至らない。 自分を「よそ者」と考えるカトリック信徒が悪い。 お前の独善こそが「まむし族の老クリ」「うす汚い者」と言われる所以。 何個でも神父様の投稿を、お前がやってるスレッドに貼り付けてやってもいいんだよ? ネタはいくらでもある。 古人曰く ち え は い つ わ り の は じ ま り >>606 >>606 天 竺 か ら ふ ん ど し wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 11月29日 待降節第1火曜日 (ルカ10,21-24) 「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、 あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、 幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」 (ルカ10,21) 神についての知識を得るためには、聖書や他の本を読んだり、 神学を勉強したりすることで十分でしょうが、神を知るために、つまり神の愛と命にあずかるためには、 人間になった神の子、しかも十字架に付けられて殺された神の子を信じ、 神の子を自分の人生に受け入れなければならないのです。 私たちは、使徒たちと同じように、イエス・キリストを信頼して、イエスの呼びかけに応えて、 イエスに従い、与えられた使命を果たすことによって、神と人間との間の唯一の仲介者である イエス・キリストと一層深く結ばれますように祈りましょう。 * いつくしみ深い神よ、 苦しみにある人々を力づけてください。 やがて来られる救い主への希望に支えられて、 罪のいざないに打ち勝つことができますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」http://www.nowaksvd.net/ とうとう、老クリスチャンは自らの本性を、みんなの前に現し始めましたね。 そして、その歪んだ信仰が徐々に明らかになってきました。 >>605 >知識のレベルが高いと分かったとたんに、警戒心だけでなく、 >多くの場合敵意を持った目で見られるようになります。 皆さんは、老クリスチャンのレベルが高いと思うのではなく、あなたの中の 二心や歪み、間違った方向の信仰を感じるからでしょう。 私はあなたのレベルが高いと思ったことはありません。 くだらない方向、間違った方向に、枝葉を伸ばしたな、と思います。 >どこの教会でも、驚くべきことに、ほとんどの信者は (更に牧師や司祭までもが)、 >自分が何を信じているのかよく分かっていないし、 >福音に対する明確な確信も持っていないのです。 歪んだ実であるあなたが見ると「驚くべきことに」そのように思えてしまうのです。 信仰観を誤っているからです。 >そして、その (核心的な) 弱点を見透かされることほど、 >彼らにとって嫌で怖ろしいことはないからです。 あなたの欺瞞がここ2ちゃんねるでは見透かされていますね。初め、目が曇って 見えなかった○○さんも、見えるようになって、あなたの本性を見抜いたことでしょう。 「牧師ごっこ」「二心のユダ」「うす汚い者」「まむし族」・・リアルでは だれも言ってくれず、自分が神となって「独善」を増長させたのです。 兄弟的勧告に耳を傾け、回心しましょう。あなたが迷った一匹の羊なんです。 あなたたちの中からも、弟子たちを引きつけようとして、有害なことを教える 人が立つでしょう。警戒しなさい。(使20:30) 老クリスチャンさん。おつかれさまです。 おっしゃられる通り先生呼びを控えます。 信仰問答の項目 聖伝のひとつとしての聖書を解釈するのは誰か 使徒信条かニカイア・コンスタンチノポリス信条の説明 秘跡サクラメントか機密ミステリオンの説明 十誡の説明 主の祈りの説明 殉教者や聖人に関するキーワード 中南米サンタ・テクラ 獣と戦う刑 教会洗礼ではなく自己洗礼 外典パウロ行伝 聖イグナティオス 獣と戦う刑 使徒教父文書 聖ポリュカルポス 生きたまま焼かれる刑 骨を拾う信者 聖遺骨崇敬の始まり 黙示録の体の光が照らす記事と迫害で生きたままかがり火にされる殉教の関係 >>618 カトリック教会のカテキズムを例に > 聖伝のひとつとしての聖書を解釈するのは誰かの説明 第1編 信仰宣言 第1部「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」 第2章 人間を訪れる神 第2項 神の啓示の伝達 2 聖伝と聖書との関係 第3項 聖書 > 使徒信条かニカイア・コンスタンチノポリス信条の説明 第1編 信仰宣言 第2部 キリスト教の信仰宣言 第1章 わたしは父である神を信じます 第2章 神のひとり子 イエス・キリストを信じます 第3章 聖霊を信じます > 秘跡サクラメントか機密ミステリオンの説明 第2編 キリスト教の神秘を祝う 第2部 教会の七つの秘跡 第1章 キリスト教入信の秘跡 第1項 洗礼の秘跡 第2項 堅信の秘跡 第3項 エウカリスチアの秘跡 6 過越の会食 第2章 いやしの秘跡 第4項 ゆるしと和解の秘跡 第5項 病者の塗油の秘跡 第3章 交わりをはぐくむための秘跡 第6項 叙階の秘跡 第7項 結婚の秘跡 >>620 > 十誡の説明 第3編 キリストと一致して生きる 第2部 神の十戒 第1章 「心を尽くし、精神を尽くし、 思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」 第1項 第一のおきて 2 「ただ主に仕えよ」 第2項 第二のおきて 1 主のみ名は聖である 第3項 第三のおきて 2 主日 第2章 「隣人を自分のように愛しなさい」 第4項 第四のおきて 3 家族の成員の義務 第5項 第五のおきて 1 人間のいのちの尊重 第6項 第六のおきて 3 夫婦愛 第7項 第七のおきて 2 人間とその財貨の尊重 第8項 第八のおきて 4 真実の尊重 第9項 第九のおきて 2 清さを得るための戦い 第10項 第十のおきて 1 欲望の乱れ 3 心の貧しさ > 主の祈りの説明 第4編 キリスト教の祈り 第2部 主の祈り:「わたしたちの父よ」 第2項「天におられるわたしたちの父よ」 3「わたしたちの」父 第3項 七つの願い 2「み国が来ますように」 7「悪からお救いください」 「カトリック教会のカテキズム」 というものを、目次に出てくる各項目に関する 「FAQ (問題と解答集)」 のように考えないで欲しいと思います。 これは歴史の教会が絶えず続けてきた 「(教会に) ゆだねられた信仰の遺産を守る」 という課題への、現代における (一つの) 試みとして理解すべきものです。 つまり、− − もし教会の時が続くなら − − 100年後にも200年後にも、教会はその置かれた時代の中で常に新しく繰り返して行くであろう、それぞれの時点における試みなのです。 冒頭にある使徒憲章は、次のように述べています。 「(これは) 聖書、使徒伝承、教会教導権によって述べられ、あるいは、これらに照らして明確にされた教会の信仰とカトリック教理の解説です。」 律法主義者のための律法集のようにではなく、使徒たちから伝えられた福音、教会がそれを土台として歩んで来た福音を聞き取るために、これが用いられますように。(Iコリ 3:10-13, 15:1 参照) 2007年(主日A年) 12月9日 待降節第2主日 イザ 11:1〜10 ロマ 15:4〜9 マタ 3:1〜12 イザヤ書における預言者の召命の記事 (イザ 6章) に続く大きな出来事は、アラム・エフライム戦争における王アハズとの会見でありました。 イザヤはアハズ王に対して、落ち着いて神の助けを待つことを勧めました(イザ 7章)。 しかしアハズ王は聞き入れませんでした。 恐らくアッシリア王に救援を求めるアハズ王からの使者が、すでにその途上にあったのでしょう。 アッシリア王はその願いを聞き入れて、ダマスコに攻め上ってこれを滅ぼし、北王国もその領土の大部分を失いました(王下 16:7-9)。 この事件は預言者イザヤの中に大いなる変化を引き起こしました。 地上の王に失望したイザヤは、終末的なメシア待望を預言するようになります。 その頃の預言の一つが今朝のテキストです。 教会は降誕節に、御子イエスの誕生によってこのイザヤの預言が実現したことを記念します。 それは壮大な救済史のドラマであって、さらに終末における完成を目指しているというのが、福音の終末的使信なのです。 主の降誕の夜半のミサで、同じイザヤの終末的なメシア待望預言 (イザ 9:1-6) が朗読されるのも、教会が今なお “終わりの時に向かって急ぐ”(ハバ 2:3) 救済史の中を歩み続けていることを、覚えるためです。 「その日が来れば ・・・・・ 」(イザ v.10)。 そうです。 「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ロマ 8:25) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 老クリスチャンさん。おつかれさまです。 今まで律法主義的に解釈していた事に気づかされました。 少し落ち着いてカテキズム等を読んでいきたいです。 11月30日 聖アンデレ使徒 (マタ4,18-22) 「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。」 マタ4,19-20 父である神は、すべての人々を愛の絆で結び、一つに集めたいと求めておられ、そのために 常にご自分で働き、また人々の協力をも求めておられるのです。 ますます多くの人々が、今日記念する聖アンドレのように、すべてを捨てて、 福音宣教のために全生涯をささげるように招かれなくても、生きている場で、いつも イエスの教えを守り、聖霊の導きに従って、神の愛を証しすることによって、 イエスと共に神の望みに応えて人々を集めることができますように祈りましょう。 * すべてを治められる神よ、 みことばを宣教し、教会を導くために、 あなたは聖アンデレを選び、使徒とされました。 聖人の殉教を記念して祈るわたしたちに、 あなたの国のあかしとなる恵みをお与えください。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」 http://www.nowaksvd.net/ 12月1日 待降節第1木曜日 (マタ7,21.24-27) 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。 わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」マタ7,21 待降節は、自分の人生を見つめるための良い機会です。私の人生の基礎的な価値観は何でしょうか。 私の富、私の最も大事な宝とは、何でしょうか。私は何を求めて、何を希望しているのでしょうか。 私の人生は、どんな方向に向かっているのでしょうか。 このように生きていることによって私はどんな人になっているのでしょうか。 私たちは、自分の現実をありのままに見つめることができますように。そして必要に応じて、 まだ遅くないうちに、変えるべきところは変えることができますように祈りましょう。 * 救いの源である神よ、 力を奮い起こして助けに来てください。 救いの日が、わたしたちの罪のために遅れることなく、 あなたのいつくしみによって早められますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」 http://www.nowaksvd.net/ 12月2日 待降節第1金曜日 (マタ9,27-31) 「イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』 と言われた。二人は、『はい、主よ』と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、 『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。」 マタ9,28-30 イエスを信じると言っている人々の中で、皆が本当にイエスを信じているとは限りません。 私たちが信じているかどうかということが分かるためには、語っている言葉ではなく、 私たちの生き方や、この生き方が結ぶ実を見る必要があるのです。 私たちは心を開いて、イエスご自身とその働きを受け入れることによって、 イエスが歩んだ道を歩み、 イエスご自身が生きていたのと同じように生きることができますように祈りましょう。 * 神よ、 力を奮い起こして来てください。 犯した罪のため、苦しみあえぐわたしたちを救い、 解放の恵みをお与えください。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」 http://www.nowaksvd.net/ そしてアドニーが固有名称でないのは道を通るのは各々の主体だからです。 >>628 父母を敬え、長生きするであろう。 十戒の教えですが本当に今日は幸運でした。 木曜日と言うのは最後の晩餐のパンとワインの日(聖餐の日)なんですが 夕食にハンバーグとワインが出ました。 東方教会の正教に通ってた時に乳製品でバターを食べてはいけない時期に 父親がバターたっぷりの食パンを私に食べさせた時と違い 西方教会カトリックの立場にある老クリスチャンさんを敬うように 父母に珍しく文句を言わなかった今日はこのようなご馳走の日なのです。 またイタリア料理の調理師を目指した女性の方とも話が弾み 西方教会のプロテスタントの女性信者の方とも話が出来て好調な日でした。 西方教会であるカトリック教会の教えを誤解していたのに 目上の人や自分を生んでくれた父母を敬うと神様はご褒美をくれるのだと 神様は本当に憐れみ深い方だと思う次第です。 ご利益で語るのは、異教的かもしれませんが 因果応報で片付けられるものではないと感慨にふけりました。 「あなたの父母を敬え。 あなたの神、主が命じられたとおりに。 そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」(申 5:16) これは、父母と自分が共通の幸せ (神からの恵み) を受けている、という感謝が生まれたとき、本当にアーメンと言える聖句です。 「ご利益」 と片付けてしまわないで、それが神への感謝であれば、素晴らしいことですよ。 前途多難でしょうが、いつか親子そろってイエス・キリストの救いをいただく日が来ますように。 2001年(主日A年) 12月9日 待降節第2主日 イザ 11:1〜10 ロマ 15:4〜9 マタ 3:1〜12 使徒たちによって伝えられた主イエス・キリストについての宣教 (ケリュグマ) は、洗礼者ヨハネの出現の物語りから始まっています(使 1:21-22, 10:36-37)。 私たちはそのことによって、主イエス・キリストの受難と復活に至る受肉とその生涯を、神の救済史の中で理解することが出来るのです。 洗礼者ヨハネの出現は、イザヤ書 40:3 の預言に従ったものでした。 彼の風貌は 王下 1:8 に描かれているエリヤと同じものでした。 それは マラキ書 3:23 の預言に従っていました。 彼は 「主に先立って行き、その道を整え」(ルカ 1:76) るために遣わされました。 彼の授けた洗礼は、「差し迫った神の怒りを免れる」(マタ v.7) ためのものでした。 彼の後から来る主イエス・キリストが 「来たるべき怒りから私たちを救ってくださる」(Iテサ 1:10) ことを予告し、この方を救い主として受け入れるように準備することが、ヨハネに与えられた仕事でした。 彼は 「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタ v.8) と教えました。 このように宣教 (ケリュグマ) は、それを聞くだけではなくて、キリストを信じて救われることを目指しています。 その宣教の初めのところに洗礼者ヨハネは立っているのです。 そのようにして彼は、神の国の王として再臨される終末のキリストを指し示しています。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 12月4日 待降節第2主日A年 (マタ3,1-12) 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」 マタ3,2 人間は個人として、また、人類全体として、平和とか幸せとかを求めて、そのために 一生懸命に努力しています。けれども、なかなかそれを実現することができないのが、 私たちの現状ではないでしょうか。その現状の要因はいろいろあるでしょうが、 その内の一つは、人間の傲慢ではないかと思います。 それだけ失敗の繰り返しの長い歴史があっても、人間はなかなか自分の限界を認めようとしませんし、 賢くならないのです。この限界とは、人間が自分の力だけでは、心の中で求めている平和や幸福を 得ることができないがゆえに、すべての人々を愛し、 すべての人のために永遠に続く平和と幸福を求める父である神、創造主であり、 全能者である神の助けを必要としているということなのです。 自分の限界を認識した上に、神の助けの必要性を認めて、この助けを願い求め、 それを受け入れるために心を開くことこそ、一人ひとりにとって、また、人類全体にとって、 最も必要な回心であり真の知恵なのです。 父である神は、私たちが願う前から私たちに必要なものをご存じ(マタ 6,5-8)ですので、 もうすでにイエス・キリストを通して、真の平和と幸福のために必要なものをすべて準備してくださいました。 ですから今、イエス・キリストを信じることによって、つまり、イエスの言葉を受け入れ、 イエスの模範に倣って生きることによって、私たちは永遠に続く平和と幸福に向かって 歩むことができると同時に、その実現に協力し貢献することもできるのです。 * 恵み豊かな神よ、 御子を迎えに急ぐわたしたちが、 あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、 キリストに結ばれることができますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」http://www.nowaksvd.net/ 老クリスチャンさん。激励ありがとうございます。神に感謝します。 別の方のブログからのコピーが、先日から貼り付けられています。 こういうことは、大いに歓迎です。 私の過去の 「聖書の学び」 からの紹介と合わせて、ぜひ比較しながら読んでみてください。 皆さんがご自分の判断で、両者を批評的な目で読み比べてくだされば、きっと有益だと思います。 2010年(主日A年) 12月5日 待降節第2主日 イザ 11:1〜10 ロマ 15:4〜9 マタ 3:1〜12 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 “我々の父はアブラハムだ” などと思ってもみるな。 言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる。」(マタ vv.7-9) 新約聖書における “神の怒り” は、“御国” “栄光” “命” などと同様に、終末的な概念です。 イエス・キリストの到来によって、この終末の時が開始されたので (マタ 12:28、マコ 1:15 参照)、聖書を学ぶ人は信仰の目を通してこれを見ることを迫られるのです。 世間では不幸や災難が重なると、神々の怒りによる災いから逃れるために、いわゆる “お祓い” をする慣習がありますが、終末的な神の怒りは “免れることが不可能である” と、洗礼者ヨハネは説教しました。 ですから私たちは新約聖書を、“叱られないようによい子になりましょう” というレベルで理解してはなりません。 「正しい者はいない。 一人もいない」(ロマ 3:10)、私たちは皆 「生まれながら神の怒りを受けるべき者」(エフェ 2:3) であることを、待降節第2主日の福音朗読は宣言します。 やがて来られる方であるキリストは、「生者と死者を裁く」(信条) 審判者であり(マタ 25:31以下、IIテモ4:1,8 参照)、私たちは皆、その裁きの座の前に立つのです(ロマ 14:10、Iペト 4:5)。 「悔い改めにふさわしい実を結べ」 とは、外ならぬ御子イエスの “十字架の死と勝利の復活” に結ばれて、罪の赦しを受けること以外ではあり得ません(ロマ 6:3-11、使 10:43、エフェ 1:7)。 私たちは洗礼者の説教を聞きながら、キリストの十字架こそがまさに神の怒りそのものであったことを、深く黙想しましょう(マコ 15:34、Iペト 2:22-25 参照)。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 12月3日 日本宣教の保護者聖フランシスコ・ザビエル司祭 (マコ16,15-20) 「それから、イエスは言われた。 『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。』」 マコ16,15 二千年の間、どんな時代にも聖フランシスコ・ザビエルと同じようにイエスの言葉に従って、 福音を宣べ伝えていた人々がいましたので、キリストの教会が全世界に広まって、私たちも神の愛についての 良い知らせを聞いて、それを受け、父である神の愛と命にあずかるようになったのです。 今までの教会の宣教活動を神に感謝しながら、これからの時代にも、聖フランシスコ・ザビエル のような多くの熱心な宣教師が生まれ、神が教会を通して働き続け、全人類のための救いの計画を 実現していきますように祈りましょう。 * いつくしみ深い父よ、 あなたは、聖フランシスコーザビエルの宣教を通して、 アジアの民をみもとに集めてくださいました。 わたしたちも、聖人と同じ熱意に燃えて信仰を伝え、 救いの喜びを多くの人と分かち合うことがでぎますように。 聖霊の交わりの中で、 あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 ボグスワフ・ノヴァク神父様のホームページ 「キリストの光を全ての人々に」http://www.nowaksvd.net/ >>637 >いつくしみ深い父よ、・ ・ ・ >わたしたちも、聖人と同じ熱意に燃えて信仰を伝え、 >救いの喜びを多くの人と分かち合うことができますように。 この祈りに、だれも異論を唱える人はいないでしょう。 しかし、私はカトリック信徒であるあなた方一人一人にお尋ねしたい。 あなたは (教会を通して) 受けた福音を、人々に確信をもって説明することが出来ますか ? あなたはカトリック教会から与えられた 「教会の信仰」 を、自分自身の信仰として、確信をもって人々に伝えることが出来ますか ? 自分では理解することも信じることもスキップして、ただ形式的にかけ声だけの祈りを唱えているのではありませんか ? 私は皆さんに、「聖書の学び」 の紹介を通して、本気で真面目な悔い改めを呼びかけているのです。 「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(マタ 3:8) >>638 >あなたは (教会を通して) 受けた福音を、人々に確信をもって説明することが出来ますか ? できますよ。ただ、日本人への宣教はとても難しいわけです。 あなたのように、ビールケースをひっくり返して、そこに立って声を半オクターブ上げ 鼻に詰まった声で御言葉を語れば、ほいほいと日本人が信者になるということは ありません。 老クリスチャンのようにではなく、この掲示板のカトリック信徒のように「自然体」で 語ること、日本の社会で「浮きそうでないこと」、事実、カトリック信徒はそうなのですが それが伝わった方がいいのです。 鈍くさいプロテスタントの風をわざわざカトリック信徒に求める必要はありません。 あなたは独善的なんですよ。 >>638 > >>637 >いつくしみ深い父よ、・ ・ ・ > >わたしたちも、聖人と同じ熱意に燃えて信仰を伝え、 > >救いの喜びを多くの人と分かち合うことができますように。 > > この祈りに、だれも異論を唱える人はいないでしょう。 異論ありです。 父なる神はいつくしみ深い神ではないです。 私は、救いの喜びとはなんのことか全くわかりません。 生まれながらのカトリック信徒として私が知った福音は、 日本語でいう福音の意味とは違い、悪い知らせです。 キリスト教に関係ない日本人なら、ひとりでもこの福音を知らないほうがよい。 実際、カトリック教会のカテキズムや教会憲章にには、 知らなかった人には救いがあり、 私のように、福音を知って受け入れないもの、拒むものは、救われることはできないだろう、 というようなことが書かれています。 侵略宗教カトリックは日本には不要。 プロテスタント日本人とカトリック日本人と正教日本人と 一般日本人とは 信じがたいほどに温度差がある。 共産党員と在日朝鮮人(創価学会にも居る)は プロテスタントにもカトリックにもいるのに 何で両派は日本人同士で、こんなに仲が悪いのだろうかと思うほどです。 カトリックを弁護して言うのではありませんが 維新後に殉教者をあれほど出したのに同情してもらえない非常さがあります。 たしかに戦国時代のキリシタンは悪事を働いていたのは知っています。 九州の道筋にある石地蔵や法華経寺に 糞尿をかけて偶像崇拝を馬鹿にした例を私は知っています。 確かに大正時代のクリスチャンがスペインの文献を見て イエズス会が奴隷貿易をし日本女性を小間使いや慰安婦にしていた事実は 2chのカキコで知りました。 しかし禁教が解かれた後のフランス・カトリックに復帰した隠れキリシタンが 戦国時代のキリシタンのような偶像崇拝を馬鹿にする行為は知っている限りでは してませんでした。 フランス政府も市民革命後の政府なので イエズス会のしたような事はしませんでした。 江戸幕府に武器供与(最新ライフルであるシャスポー銃3千丁を贈呈)をし 近代歩兵訓練(伝習隊の訓練)をしたのは知っていますが 侵略とは思えません。 プロテスタント国のイギリスの薩英戦争の方が よっぽど侵略ではないでしょうか。 でも、その一方で正教のロシアの侵略、対馬占拠で要塞つくりに イギリスが交渉で排除したのはドウでしょうか。 黒舟来航をし開国させたアメリカはプロテスタント宣教に徹していました。 ものすごく不思議です。 プロテスタントの日本人信徒が、また カトリックの日本人信徒が 日本人女性を集団レイプしましたか。 風俗嬢を海外に売り飛ばしましたか。 お寺や仏像に糞尿をかけて回りましたか。 奴隷貿易のような事をしましたか。 江戸幕府は長州征伐のとき フランスのナポレオン三世が無料供与した 最新ライフルを使いませんでした。 フランス兵は加わっていません。 これでは侵略といちゃもんはつけられません。 では長州にオランダ兵は加わっていません。 オランダ製のライフルは使用されましたが オランダは侵略国ですか。 フランスはカトリック国です。カトリックは侵略した事になりますか。 オランダはプロテスタント国です。プロテスタントは侵略した事になりますか。 どうでしょうか。 たかが約1億3千万の日本人のうち 0・3%の約44万人の日本人カトリック信徒が 日本を侵略しているとは思えません。 聖書でいう「のろい」は ギリシア語でアナテマといい 正教会では破門の意味である。 聖書でいう福音は 中国語で「幸福の音信」の事であり ギリシア語でエヴァンゲリオンといい エウ+アンゲリエ(よい+しらせ)で アンゲリ(み使い[天使]、知らせる人)は エンゲルで エンジェルの事である。 帝政ロシアでのポグロムは ユダヤ人虐殺と 間違えてカキコしたことがあるが 訂正します。 ポグロムはユダヤ人の家財を略奪する事件で 直接虐殺したわけではないと言う事です。 フランス南部のラングドック地方の ベジエ市での虐殺 (市民でカトリック信者は天国に行き、 異端は地獄いきだから 皆殺しOK)を許可したのは ベジエにカトリックを布教したドミニコ会ではなく シトー会といわれてます。 ヘレニズム時代の コイネギリシア語(聖書ギリシア語)でいうと。 主: キュリオス 創り主: クティサス 救い主: ソーテール 全能者: パントクラトール 油注がれた者: クリストス(キリスト) となります。 良スレにするはずが >>641-647 あらしカキコになり、すみませんでした。 【聖書と信仰】信者も未信者も【神学と哲学】 バリバリの信者も なんとなく信者も 迷っている信者も 境界人も離脱者も敵対者も、 基礎的な聖書理解、信仰維持、神学認識、哲学的批評を軸に 丁寧に議論を積み上げて、良スレにしましょう。 ※嵐 誹謗中傷的 愉快犯は 綺麗なスルーで対応してください。 【福音の学び @】 キリストを伝える使命を受けた者 (教導職と信徒のすべて) は、先ず、「キリストを知ることのすばらしさ」 を求めなければなりません。 「キリストを得、キリストの内にいる者」 となるため、「すべてを塵あくたと見なし」、 「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達し」(フィリ 3:8-11) なければなりません。 キリストの愛に燃える知識から、キリストを告げ知らせ、「福音を告げ」(Iコリ 9:16)、他の人々をキリスト・イエスへの信仰に導きたいという願望が生じるのです。 同時に、この信仰をますますよく知る必要を感じます。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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