仏教は必要だけど坊主は不要
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現在の僧侶達は仏事(葬式・法事)つまり死者の祭りごとばかりに執心し
衆生の苦しみや悩みごとに耳を傾けることがほとんどない。
衆生の教化が僧侶本来の使命であるにもかかわらずその役目を果たさず
保身の為に自らの寺院経営に一辺倒な坊主どもにお布施を差し出す必要などない。 私は創価学会とか興味ないですが、確かに「お経」のみ重要なわけで、坊主は不要だと思います 一体誰が供養をしてくれるのだろう
素人の供養など絶対にして欲しくないし なんとでも言えてしまうところでもあるね
そんなに素人が好きならその素人が集まるところ(例:2ちゃんねる宗教板)で、
実際に、好意的なレスを返し、素人な方たちと親密で友好的な人間関係を築けてなければ説得力がないよ 世襲坊主は、地盤を受け継ぐ世襲議員みたいなもんだからな。駄目になりやすい。
私の家の近所のお寺にお盆の行事に手伝いに行った時のこと。
ホームレスの人が来て「お腹が空いてるので何か食べさせてくれませんか?」と
訪ねてきたけど、その寺の院主さんに「福祉があるから構わんでもいい!」と
相手にしないように言われた。弱者には冷淡なんだな〜とがっかりした。
知り合いの坊さんの過去に、高校生の時に同級生の女の子を妊娠させ
認知しないと言ったにもかかわらず女の子が産みたいと言ったので産ませたが
自己責任ということで責任を取らなかったそうだ。
坊さんが聖人君主でないといけないということもあるまい。
坊さんは性人君主であればいいのだ。 どんな偉大な聖者でさえ あなた自身の灯明を点すことはできません。 >>14さんの言っている意味は、
聖者は導くことは出来るが、
導かれる人自身に求める心がなければ応じることはないということ。
結局、自分に光明を灯せるのは自分しかいない。
自らを頼りにするならカルト教祖に騙されることはない。
誰かに助けてもらおうと思うからカルト教祖に騙される。 だから俺は前にも言った通り「お経」を自分で学ぶことが最優先で、坊主はいらないと言うことだよ…発菩提心は「お経 」さえ読めば必然的に起こる。そこで、ズバリと悟りだ。初発心時便成正覚(華厳経)無量劫修行…求道すでに悟りなり 求道すでに悟りなりは、
お釈迦様が菩提樹の下で仏道を貫く不退転の覚悟があってのこと。
本屋で仏教書を買うのも菩提心には違いないけど、
お釈迦様の覚悟とは同列に出来ない。
本屋で仏教書買っても、1ヶ月後には、飽きてやめちゃう人も多い。 そうかも知れない…だが大乗経典には読んだだけで悟れるお経がある…法華と華厳…おすすめ。人生を賭けて読むべきだ…釈迦の悟りに及ばずとも、ある種のエンライトンメントに達する 禅宗坊主みたいに座ってもうろくでもない妄想に取り憑かれる危険を回避できるし、とにかくスパリと悟りだ(久遠の過去と永遠の未来の果てが、今の一瞬に収まるからだ) 華厳経と法華経のオススメは良いけど、
他宗の批判は必要なかったな。 禅宗は天狗なので、叩いて差し支えありません(キッパリ)だいたいこの輩は小乗です。大乗は看板に過ぎないので… 私はダライ・ラマさえ信用していません。階級制度の土台の上に立ち偉そうなもっともらしい説法は西洋人のような「お子さま」にはふさわしいですが、日本人の真実への凝視は恐ろしいまでにシビアなのです。日本華厳宗のみまともな程度でしょう 偉そうなのはアンタだよ。
日本でアンタみたいな攻撃的な態度を受け入れてくれる人は少ないだろうね。
ネットだから、好き勝手言えるんだろうけど。 知り合いの住職さんはまことに人間らしい人だ。1000万クラスのベンツに乗り
愛人2人に子供を産ませ養育費を毎月支払い、息抜きにキャバレー通い。
人生を謳歌している。ちなみにこういうことをよく言う。
「日本の坊さんは、みすぼらしい恰好していたらいけねえ。いい格好してないとだめだ。
いい女抱いて、いい車乗って、いい食いもん食ってこそが人間の幸せなんだ。」と言う。
そして境内の霊園墓地の墓をうるべく営業マン達を叱咤激励する日々だ。
日本の坊さんは徳が無ければいけないのでない、得があれば満足するのだ。 阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
要らないのは日本人の坊主と自称する輩であって
チベットや東南アジアのお坊さまにはむしろ地に頭つけて礼拝したいね
もちろん彼らの中にはどうしようもない破戒坊主も混じってるだろうけど
真に民衆のためを思ってくれる宗教者が多いのも事実
例えばタイの大学でお坊さんが勉強してたりするけど、すごく真面目で
民衆の幸せを一番に考えてくれる立派な僧侶がたくさんいる これが日本になると、自分の食い扶持の心配ばかりして、
ヒステリックにチベット・上座部を攻撃する自称”坊主”ばっかり
口では「すべての衆生を救う」とか空念仏ばかり称えるが、実行には移さない。
観念的で誇大妄想的なヒーロー幻想に浸って、
現実的にどうやったら具体的に衆生を救えるかとかは考えない
変なイベント開いて、なんとか金づるを逃がすまいと腐心するばかり
(坊主BARしかり、この前ロフトで開かれたトークショーしかり) 俺は何者にも頭は下げない。どんな偉大な高僧だろうと。大乗非難するその前に「自分で」できる事をしろ!バカめ 事実上地球上にはもはや、いわゆる「仏教」などない。ラーマクリシュナ・ミッションの爪の垢でも煎じて飲んでろ!バカめ!華厳経のみ偉大なだけだ!バカめ! キリスト教の無教会主義みたいに無僧侶主義とか作ればいいんじゃないの? >>1
この世のもので比べることも、言語表現することもできない《この上なき最上の喜びの境地=ニルヴァーナ》を知った者は、世を厭
い離れ無所有で、森や林・荒野で静けさを目指した釈尊と修行僧は、唯一の正しい信仰対象と認める。
神々と対話しても、人助けをしてくれる存在ではないようで、五欲の対象や、その他諸々の欲望に関する貪りを捨て去る釈尊と修行
僧寄り。
ニルヴァーナを知っても、《世を厭い離ることなく、諸々の欲望に関する貪り》を捨てきれず、《妄執というひとつのものに一切の
ものが従属》し、再び下界に生まれる運命となるのも、輪廻転生をも説いた釈尊の教えは正しい。
また、神々が自分の所に来て、人は輪廻し苦しみから離脱できないと説くのも、五欲の対象やその他諸々の欲望に関する貪りを捨て、
我々の所に生まれられるようになれと指導するのも、釈尊と修行僧の行いと変わらない。
しかし、修行完成者として、多くの人々のため慈悲やあわれみを説いたのも、この世でのニルヴァーナ(自己を乗り越えた最上の境
地)である。
人として地で生き続けても、彼岸の者のように、森や林など大自然を楽しんでいる時のように、世のことに思い煩ったり・悩んだり・
苦しんだりせず、健康的な精神で喜んで生きることをよしとし、彼岸の者のように、《一切の生きとし生けるものの幸福と安穏と安
楽な暮らし》を行い、善い行いを人々に指導すればよいのである。
自己と世に思い煩い苦しんでいる人々には、《この身は泡沫のごとく、世の中は泡沫のごとく》《すべては水の泡か陽炎のごとし》
そのように観ずることに努め、苦悩の緩和に努めることを指導すればよいのである。
《妄執というひとつのものに一切のものが従属し、下界で苦しみ》《この世を厭い離れ、自己に克つ》ことのほうが善いことであり、
《悪は一切なく、平安に満ち喜びに満ちた境地が人々の世では、慈しみのこころづかい》であるから、慈しみのこころづかいが崇高
と説き指導するのは、当然のことである。
欲を捨てきれない衆生の教化も、地で生き続ける全ての衆生のために、慈悲を指導するが仏教の使命で、葬式・法事ではない。 そーいうきれい事は、自分が達成してから言ってね。おばかさん ニルヴァーナは言語表現できるようなものでもなく、最上の境地で、これ以上のものはない。真理を見る者には何ものも存在しないの
である。
森や林で静けさを目指し、狂おしい悩みもない者のように、美しく晴れた朝だ、美しい朝陽だ、といって健康的な清々しい心で暮らし
ている人々のほうが、清浄な境地に近い。
一切悪もなく、平安で安らぎに満ちたその境地は、この世では一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、慈
しみのこころづかいが崇高と教えられ、離欲を目指しこの世に生まれない者・欲を捨てきれずこの世に生まれる者でも、この世で人々
の幸福と安穏や安楽を害うことはあってはいけない。
ニルヴァーナは、この世で人々の普通の生活と全く関係ないものでもなく、人の内に仏(彼岸に通じるもの)もあるから、人々の幸福
や安穏や安楽な暮らしを害うことは悪い、快楽や世のものを貪り悩んでいる者よりも、狂おしい悩みもなく、美しく晴れた朝だと喜ん
で暮らしている人々のほうが健康的だと感じるようにしてある。
そういった健康的な精神を磨き、他人に従属しない者となるのも、仏教の大事な使命である。 寝言は死んでからいいましょう。(よい子は真似しないでください) 夢は必ずかなうかい?人間は好きかい?金なんていらないかい?腹が減ってもメシはいらないかい?クソがしたくなったら死ぬまで我慢するのかい?たわごとだ。バカバカしい… 輪廻転生から逃れるのは大変難しく、釈尊と修行僧がなぜ人里離れた場所で、静けさを目指して修行したのか理解できない者どもが多
い。
妄執を乗り越えた清浄な状態(きれいな状態)は、神々であり、この世では人里離れ森の中でわずかな食物で暮らす生活を守り、離欲
を達成しようとする修行者だけである。
その他全ての人々は、妄執を乗り越えることができず、再びこの生存状態(下界)に生まれる構造になっている。
宗教儀式・行事を行って取る・取られるという行為があっても、取る・取られるだけのことであり、離欲を目指し静けさに安住しよう
とするか、離欲が達成できなくとも、慈しみのこころづかいをよしとして、幸せに暮らすことしかないのである。
―富を得ると、自分を楽しませ、喜ばせ、父母を楽しませ、喜ばせ、妻子を楽しませ、喜ばせ〜友人・朋輩を楽しませ〜愚劣な人が富
を得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない。健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自ら用い、またなすべきことをなす―
(神々との対話)
不浄は不浄と認めて思い上がらず、妻子・他人に分かち与えて喜ばしても、宗教儀式・行事で取る・取られる行いをするより、
仏教なのである。 幸福の定義が人により様々だから坊主が衆生を導くことが困難になったとも言える。
幸福の定義のの多様化により坊主が衆生を説法する必然性を困難にさせたとも言える。
歴史的な背景としてそもそもの衆生の教育水準の向上が挙げられる。
大学入学者増加により学力、知識レベルの上昇が要因。
一般人でも、大学仏教学部、仏教専攻なんてざら。
皆、ちょっとした学者である。
檀家のお参りに来た坊さんに対しても受ける側として
「私は○○大学の仏教学科卒ですけども・・・お話聞いていいですか?・・」と
挑戦状。この果たしあいに果たして坊さんたちは勝てるのかな?・・という感じです。
仏教的見解でもいいので何かご意見でも・・・坊さんに丸めこまれないために
檀家もあの手この手で応戦。檀家もアホではないよという話。 妄執を乗り越えたら、彼岸に到達し神通力の領域に達するということも知らない人々。
老いも死もない境地で、自己を乗り越え、一切の苦しみから解き放たれる。絶対的な境地に至るのである。この世を重荷に感じられるほ
どの境地で、その境地から一切皆苦と説く。
妄執はこの世で生きる自己という個性であり、それによって様々な人となる。
人里離れた静かな場所で離欲を目指し、神々と同じような状態で重荷を下ろすことを目指してもよいし、重荷に耐え、色と物もある下
界で生き続けるのも、その人の自由なのである。
しかし、業(善い行いと悪い行い)のみがその人につき従い、悪い行いをさせないようにするのが、重要な教えなのである。
《真理を見る者には何ものも存在しない》空であり無相世界を知った者は、
苦しみの止滅も、苦しみもあるこの世で耐え生きることも、正直な行いしかないと知るのである。 仏はこの世を空と説く。
この世は幻であるという意味である。
仏教はここから始まる。 当たり前。馬鹿ですか?誰でも知ってるちゅうね。ところで上記の事柄もやはり幻なのである。悟ってもいないくせに生意気なヤツが多いな…おばかさん 口先だけなら、なんとでも言える。だが、お前らの悲惨な末路が目に浮かぶ…悟らず、死の直前に…悟れなかった悔しさに歯軋りし、悶え苦しむがいい。地獄行きは免れぬ。俺には、秘儀があり、翼ありて、そんな哀れなお前らをせせら笑うのみ >>48
「比丘」と名乗るからには具足戒受けてるんだろうな?
まあ本物の比丘が2ちゃんなんかに書き込んでるわけないんだが お前たちは神々の怖さを知らない。神々は実在する。
―足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々
のひとの家で貪ることがない―
―諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿る
ことがないであろう―(ブッダのことば)
再び母胎に宿ることがない者は、現代の文明的な暮らしを厭い離れ、離欲の達成に日々努力しなければいけない。
離欲を達成した釈尊と出家修行をした修行僧を軽蔑する者ほど、神々の怒りの者である。
―人がこの世でなす善と悪との両者は、その人の所有するものであり、人はそれを身につけておもむく。それは、かれに従うものである
―影がそのからだから離れないように。それ故に善いことをなして、来世のために功徳を積め―(神々との対話)
諸々の邪まな見解を捨て、離欲を達成した者が欲のないところに生まれる。欲を捨てきれなくとも善い行い(善業)により来世も救
われる。これは決まりであり、それに反することを言う者が反神々・反釈尊・反仏教である。 >出家修行をした修行僧
はあ?どこに「出家」がいるんだ?
出家と称して寺に住み、戒律を守らず、祭祀儀礼で糊口をしのぐニセ坊主なら腐るほどいるが
釈尊はもういない・・・世捨て人として世の様々な活動による思い煩いから離れず、世の雑務を行い、生活を簡素にせず、諸々の欲望に
関する貪りを除こうとせず、足ることを知らず、わずかの食物で暮らさず、諸々の感官を静めようと日々努めず、ひとの家で貪ることを
せず・・・
それで再び母胎に宿ることがないと語る人々がいる。(無法者)
しかし、神々は存在し「欲が深すぎる」、下劣な人々と天に知られていたのである。
―森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが〜―(神々との対話)
人の状態で、そのようなことができれば立派なのである。
森に住まずとも、諸々の感官を静め、わずかの食物で暮らし、離欲を達成しようと日々努めて暮らしているなら、再び母胎に宿るこ
とがないと。
現代の豊な生活を厭い、それらから全く離れ、離欲と静けさを楽しむから、その世界が得られるのであって、現在の豊な生活を全て
捨てようとしないなら、その世界は得られない。得られるというなら、法を全く知らない者である。 釈尊と修行僧を尊敬するなら、修行僧のように、わずかな食物で暮らす生活を守れず、諸々の感官を静めようとせず、離欲を達成しよ
うと日々努めていない人々は、再び母胎に宿るということを認めることである。
―人がこの世でなす善と悪との両者は、その人の所有するものであり、人はそれを身につけておもむく。それは、かれに従うものである
―影がそのからだから離れないように。それ故に善いことをなして、来世のために功徳を積め―(神々との対話) >>46
そのさまざまな幸福がほんとに幸福なのですか?って話が仏教じゃねぇの? 小乗仏教の小乗とは小さな乗り物という意味。仏道修行をして悟りを開いた者のみが救われたら良いという考え。
大乗仏教の大乗とは大きな乗り物という意味。、修行した者も修行してない者も皆救われようという考え。
日本は大乗仏教なので修行してない人も救われなければならないという所に無理がある。
他力本願という考えには努力せずして神様まかせ、人任せという楽なものという解釈をする者が多くなる一因なのである。
日本に仏教が広まったのは大乗ゆえの話で皆がお気楽感覚で救われることを目指したことによる。そこに不幸がある。
幸せとは坊さんに祈禱なりの願掛け的な宗教儀式により解決出来るものでない。
この願掛けこそがまやかしと言ってよい。
幸福とは自分が一つ一つ悩みながらも困難を克服し道を切り開かれた時に訪れる安堵の地である。
坊主が金を稼いでいることを見れば、その経済における価値は明らかである。 ばーか!いい加減にせえよ、クソだぬき小乗野郎め!大乗にも難行道と易行道があるんだよ。だいたい「他力」の何が悪いの?楽して救われるならそれに越したこたぁねえ。各駅停車の鈍行で移動するのはクタクタになっちまう。出来れば新幹線のぞみで豪速球移動したい 小乗野郎ってつくづく阿呆が多くて前々から気に入らねえヤツらだった。努力、努力うるせーんだよ!努力すれば夢は必ずかなうかよ?あり得ねえ… 要はね。悟りなんか開かなくてもいいという話。仏教そのものの存在を根底から崩すことになるけども。
自分のやりたいように好き勝手やって酒池肉林で修羅のまんまで生涯を終えたら人間らしくていいじゃない。
お釈迦さんは修行苦行の末、悟りを開いた。つまり真理を発見したわけ。そこから始まるのが利他行(他の人や社会の為になることを実践する)。
お釈迦さんは真理を発見した人には社会の為に役だってほしいと考えていた。そこが仏教の醍醐味。ここ重要。
お釈迦さんの真理というのはお釈迦さんしか分からない。それを弟子たちに教えようとしたけど教えられるものではなかった。
悟りなんて近いようで遠く、遠いようで近いものだと思うよ。難しいようで簡単だったりするかも。実は案外身近にあるものじゃないかと。
そういう意味では大乗という形の仏教ではお釈迦さんの目指してる目標とそもそもが矛盾するけど。
仏教教団を大衆に受け入れられる為やむ終えない形ではあると思う。その為お手軽仏教になってしまったわけだけどね。
それと悟りを開いたからと言って満ちたされた人間になるわけではないと思う。人生が楽勝になるわけでないよ。ここも重要。
人間なんだもの。死ぬまで自分の中の不満足な欲求と対峙して、身の丈に合わして生きていくしかない。それが出来なければ破たんするだけなんだ。
現代で《この上なき最上の喜びの境地=ニルヴァーナ》を知り、神々とも対話し、仏教を正しく伝えることのできる者は私しかいなく
なったか。それほど愚者・愚鈍、或いは下劣な者は多い。
自分で努力し、離欲を達成するので、離欲の境地に安住できる。欲を全て離れようとせず、その世界に到達しようとする者どもは
「下劣」=釈尊も法を説くため、人里離れ離欲を修行僧に指導した。
多くの在家の生活を営む信者(善と悪の業)
―究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜足ることを知り、わずかの食物で暮らし〜一切の生きとし生けるものは、
幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものども
に対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ―(ブッダのことば)
― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない ―(神々との対話) 在家の生活を営む人々に対し、
―信仰心あり、学び修めた賢明な人は〜心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」「与えよ」と語る〜その豊な功徳の流れは、施しを与
える人に、降り注ぐ―貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ―(神々との対話)
―すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである。わかち与えるには功徳が増大する
―眼のある人は、不平等のようなことがらに勇敢に打ち克つ。たとい何かが存在していても。賢者は、この命あるものどもの世界に
おいて、悪いことがらを全く避けるべきである―(感興のことば)
愚鈍・愚劣、畜生のような者以外は、《意識もそなえ心もあるこの一尋の身体》で、「母が己が独り子を命を賭けても護るような
慈悲は素晴らしい」という心がある。
修行完成者への尊敬と、在家の生活を営むことへの謙遜(神々に対してでも)で、善いことを行おう・悪いことがらを避けよう、
―サンガに対する浄らかな信仰があり、その人の見識が真直ぐであるならば、その人を貧しからずと呼ぶ。その人の生活は空虚
でない―(悪魔との対話) ―われらは一物も所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜び食む者となろう―(真理のことば)
欲楽もなく喜びに満ちているところがある。むしろ下界は一切皆苦である。在家の生活を営む人々も、貧しいということは何も
ないのである。全世界でどのような状態でも、見識を真直ぐに保ち、邪まな見解を捨てよう。
神々こそ、「欲楽を捨て足る」を求める存在であり、修行者も人として行っていた。衣食がある人はそれ以上を願うことや、離
欲を達成して清浄な境地に達しないのに、老いと死の苦しみから逃れようとすること、その他諸々の苦しみから逃れようとする
ことは、全く法に反し、神々に怒り・敵意を抱かれている者なのである。
わかち与えたり、善い行いをして功徳を増大させること、耐え忍ぶこと、悪いことがらをしないこと、釈尊の愚鈍・愚劣な者と
は、法の説得がわからない者と法に反する行いを平気で行う者で、無意味に他人を見下すことではない。
神々によれば、法は人間の内の仏により具えられ、仏教は在家の生活を営む間に間違いを犯すかもしれないから教えとしてある。
しかし、一番の教えは、釈尊や修行僧のように、世捨て人となり離欲を達成すること、下界に生まれないことだと。 無知なる者は、他力を求め願い求めようとするが、
―われらは一物も所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜び食む者となろう―(真理のことば)
一.他そのものの存在は、一物も所有していない。
二.釈尊・修行僧の行いを第一とし、信じる者にも世捨て、離欲、邪まな見解を捨て去ることを求めるだけである。
《御利益など全くなく、修行僧のように離欲により苦しみから逃れ、また母胎に宿ることのない者となれ》と。
それらの存在に信仰ありとしながら、離欲を達成しようとしない人々は、《下劣・愚鈍・欲が深すぎる》であり、在俗信者は
誰も救われることはない。 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、無量の慈しみがこの世で崇高
一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない
学び修めた賢明な人は、貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ
すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである。わかち与えるには功徳が増大する
この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころと
せずにあれ
本来は畜生のような人間でない限り、法は人間の内の仏により具えられ、教えなくして歩んでいるのであるが、
ある時は、
―園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、かれらの功徳は、昼夜に常に増大する―
(神々との対話)
―父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと〜悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆる
がせにしないこと―(ブッダのことば)
―自分を楽しませ〜父母・妻子・友人・朋輩を楽しませ、喜ばせ〜愚劣な人が富を得ると、自ら用いることなく、他人にも与えな
い。健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自ら用い、またなすべきことをなす―(神々との対話) またある時は、
―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちもよく起き上がった―(ブッダのことば)
―人のいない林は楽しい〜愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである―(真理のことば)
他人にあるとか、ないとか考えることもなく自らの内の仏で楽しみ救われている。
そしてまたある時は、
―貧窮なる人々〜乞う人々に施しとして与えよ―(神々との対話) そういったことをよしとして、あわれみの行いを自然にして
いる。
畜生・下劣・愚人と称されない多くの人々の心の内に仏は具えられている。下界(欲界)で暮らし続ける人々が過失を犯さな
いためにも、釈尊・仏教はある。下界は老い・死・様々な困難もあり、それらを耐え忍ぶことも仏教なのであり、法なのであ
る。 仏
↑ 供養
坊主
↑ お布施
衆生
そもそもこういう図式なんだから、坊主に衆生の悩み事解決や教化を求めるのはおかしい。
衆生には仏からのご利益があるのみ。 仏=死人を葬式で坊主が引導してお釈迦さんの弟子にするという話自体が
坊主がお布施をもらって飯を食っていく為のご都合主義に見えてチャンチャラおかしい。
修行もしてもいない人をなぜお釈迦さんの弟子にするべきなのか納得いかない。
家が寺院の檀家だとかいうだけでお釈迦さんの弟子にしないでほしい。
そもそも死者を祀らないといけなくさせてしまった坊主の策略と無知なる衆生の習俗がいけないわけ。
坊主がお経上げたらバカ高いお布施を貰うことが当たり前になり、お布施しないと亡者も救われないですよと
衆生の弱みに付け入る隙間をつくってきたことを皆が改めなくてはならない。 弟子、なのか?
弟子だとしても霊的に近しい人と疎遠なランクの人まで
まちまちだと思うけど。
そんなあからさまにお布施を要求する坊主はいないと思うけど
(まぁ実際にいたのなら、ほっとけ)
生半可なやり方では霊魂の貪瞋癡に汚染されるよ。 >70にも一理ある。
お布施があまりに高額になると
昔のように朝廷や大名でなければ寺や墓を維持する事は出来なくなり
庶民は亡骸を川に流すしかなくなる。 坊主憎けりゃ袈裟までもってか?修行もしてない坊主って誰?彼らは仏弟子ではない?いんや、弟子だ。少なくとも在家の弟子だ。日本のような社会で、しかも資本主義体制下で「出家」は不可能だ。明らかに坊主への「嫉妬」しか感じられない それでは、まずお前らが率先して「出家」して具足戒二百五十を実践し、一鉢食を守り、葬式における儀式(読経や戒名を)無料で引き受けてやればいい。もしお前らにできるならな。言っておくが東南アジアのような坊主が出家だと思ったら大間違いだぜ? 現代において、僧侶は仏道修行において悟りを開いた覚者つまり真理を見つけた人
という意味で其々の伝統仏教宗団において認められている。
でも皆、取りあえず同じ修行形態をとればそれだけで認められるという安直な道理で一介の僧侶になっていいということになっていることに気づいているか?
ここに疑問がある。宗団は皆、一連の宗団の認める修行の課程を終えるだけで、仏教における覚者(悟りを開いた者とする)
という経緯に疑問を感じなくてはならない。
要はね、坊主の世界も学歴、資格次第というわけ。
そこに何の有難味があるのか?何の値打があるのか?について衆生は考えなければならない。 【悪とは】
―六つのものが生起するときに世間が生起して、六つのものがあるときに〜六つのものに依拠して、六つのものにおいて世間は害わ
れる―
―世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない。それ故に、世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた
人は、世界の終極に至る人となるであろう―(神々との対話)
五感と第六の思考・意向・・・悪業の原因
五感の貪りと、それに対する意向や思考を捨て去ろうとしないと下界(欲界)から離脱することはあり得ない。しかし、い
つかは世界の終極が来る。
【善とは】
―われらは一物も所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜び食む者となろう―(真理のことば)
―究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜足ることを知り、わずかの食物で暮らし〜一切の生きとし生けるものは、幸
福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜何ぴとをも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩ま
そうとして怒りの思いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない〜母が己が独り子を命を賭けても護るように、
そのように一切の生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意
なき慈しみを行うべし―(ブッダのことば)
―真理を見る人には何ものも存在しない。人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている―(感興のことば)
世間も自己も虚妄で、無量の慈悲に満ちる。これが真実の自身だという悟りの境地ニルヴァーナ。 【地の活動】
人々の五感への意向・思考などで害われる。
害われない状態、快楽・享楽・五欲の貪り、自分は偉いものと思いなし、他人の意向・思考を尊重しない・・・
世間と自己とに執着しない世界の信仰心、それらと正反対の行為への恐れ。
―信仰心あり、学び修めた賢明な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ。心に喜んで、撒き散らし〜貧窮な
る人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ―(神々との対話)
他人に飲食物を与える
―かれは貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起こして―(ブッダのことば)
―すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである。わかち与えるには功徳が増大する―
(感興のことば)
俗世間で生活活動をしている人々は、快楽・享楽・五欲の対象を貪らない人のほうが崇高なものに近い、貪欲を離れ・憎悪を制し、
慈しみの心を起こしてわかち与える。
快楽・享楽・物欲・五欲の対象を貪っている(貪る)ことのほうが尊い、それらを得ていない人々を軽蔑し、心の内に仏もない状
態で分かち与えても、心は浄化されない。 ↑こいつ、マジメな性格らしいけど、ハッキリ言ってアホだろ?コピペばっか… 俺はさ、このスレタイが仏教は必要だがブッダは不要だったらもっと刺激的なスレになったと思う 人間は自分より遙かに上だと認めた人のことはリスペクトするものだから。
それにより(希求する限り)自分も引き上げられるので、
霊性の成長・進化という本質的な願望に添えて尚都合がよいのだろう。 >>79
ブッダ=覚者=真理を悟った人というのは仏教では絶対必要。
それが無いなら仏教の本来の意味は無い。仏教の醍醐味!
つまり仏教の存在意義なんだ。 >>81
釈迦牟尼仏がいなくても残り2999仏がいるじゃん >>78
君たちはニルヴァーナの素晴らしさを知らない。見たこと、考えられたこと、或いは聞いたことで論じ合おうとしている。
神々の存在でさえ知らない。
そして論じ合おうとしている。だから愚鈍で愚劣で天まで届く愚人であると知られている。
すなわち永遠の愚者である。
このような今のような生存状態は限定的であるということも知らないのか?
真理を見る人には何ものも存在しないということを知らないのか? 究極の理想に通じ平安の境地に達した者の知る世界が、無量の慈しみ
ということもわからないのか?
愚鈍・愚劣・愚人は「釣る」 賢明な人は、仏の教えを聞いて、邪まな見解を捨てようとする。
愚鈍・愚劣な人々は天まで知られている愚人であるので、神々により釣り殺されているのである。 中には愚鈍・愚劣・愚人どもに惑わされずにまともな人間がいるかもしれない。
一.下界(欲界)に二度と生まれることのない者は、欲を捨て世を捨て、足ることを知り、物欲・物の便利さにも喜んで暮らすことのない者で、
むしろそれらがないことに喜び、離欲に満足して暮らす者でなくてはいけない。わずかな食物で満足して暮らす生活の者でなくてはいけな
い。
二.人間という生存状態はニルヴァーナを知れず、このような今の生存状態で見たこと、考えられたこと、聞いたことでも完全には知ることが
できないようになっている。真理を見る人には何ものも存在せず、人間の如何なる考えも超越している。
しかし、この世で表現するなら無量の慈しみである。
平安の境地ニルヴァーナは慈しみのこころづかい、この世では崇高な境地と説いてあるとおり。一切の生きとし生けるものをあわれむ修行
完成者ブッダに罪過は存在しないと説いてあるとおり。
三.善業は慈悲・あわれみの心に従った行為。離欲を行わず、信仰しようとする人々は善業を学ぶ。
四.自ら愚鈍・愚劣な者であるかどうかは、愚鈍・愚劣な者には全くわからない。
五.信仰深い・信仰熱心・信仰に励もうとしながら、神々の世界・天にも知られた愚人は、「釣る」=釣られることを正しい・利益があると信
じさせる。 >>1
その考え方は間違ってますよ、共産主義国家やアメリカGHQは
日本人の強さ、勤勉さ、結束力の秘訣を国民道徳と敬神崇祖で
あると研究し、戦後、文部省に迷信や宗教や廃絶を教育現場に
文章で指示しています
その指示を共産主義国家を経由し、日教組が、神仏や霊魂の存在を
否定する唯物論、道徳道義を否定する、過激な性教育、個人主義、男女同権主義
などと共に女性の社会進出を促進、それに伴う、少子高齢化、子育ての問題
戦後教育として浸透させていますが日本の国力国運は衰退する一方です
日本国家の為に散っていった戦没者を軽視、各家庭の親先祖を軽視
人は死んでしまえば何かも終わりなのだろうか?そう思いません
それは自分の存在、人生、自体が親先祖の存在なくしては、あり得ない
からである
自身の根、根幹、土台をを軽視して、何が国家の繁栄なのか?
個人主義で子孫は繁栄するのか?また個人主義で何が後世に何が
残るのか?
新興宗教は祭祀、行、実際に行動に移す事を軽視して、本の販売を
中心にして知的理解ばかりを重視して、信者を洗脳しているが、
行動の伴わない理論人間ばかりを大量生産させています
国家、家庭、企業の運勢を守る観点から考えた場合、儒教、神道
陰陽道、民俗信仰と融合した平安、鎌倉仏教をはじめとする我が国
の伝統霊性の価値を再認識する必要を求めたい ニルバーナとは…やれやれだ。そんなくだらないものを求めているのか? ニルバーナよりさらに高い理想があることを小乗卑賤の輩は知ることが出来ない 卑怯な人間はいつの世もはびこる
この邪教は いわゆる 負けるが勝ち
という処世術に過ぎない
つまり この邪教自身を分析しない限り
必ず組織化して はびこるだろう ネットの普及で
さまざまな手品の化けの皮がはがれてきた
変化を受け入れよう >>88
ニルヴァーナを知ったという経験である。ニルヴァーナを体験したという経験である。そこで仏教書に興味を抱いた。
ニルヴァーナは素晴らしいと思った。そして神々も言葉を発した。
―何ものかを信ずることなく〜欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である〜人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛着
なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである―(真理のことば)
― 一切の戒律や誓いをも捨て、世間の罪過あり或いは罪過なき宗教的行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めるこ
ともなく、それらにとらわれずに行え、安らぎに固執することもなく―(ブッダのことば)
老いも死も味わうことのない苦しみのない天に生まれるのは、まず、世と世の活動から生まれる苦悩を厭い離れ、離欲に努め、自己に対する思い
煩いを捨て去ろうと努め、林や森などの人里離れた静かな所は楽しいとか行い、五感の貪りを一切捨て去ろうと日々努めていること。
神々も個性(人格)があり、それ以上の世界(消滅)を目指すのは、その個性すら静めるために、絶対的な安らぎを求めて日々努めなければいけ
ない。 多くの人々はそれができないが、神通力の領域(慈悲)から離れると、幸福を求める人々が自然に苦悩を味わうことになるので、気をつけるようにな
る。
―誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ― ―父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと―(ブッダ
のことば)
―園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、かれらの功徳は、昼夜に増大する―(神々との対話)
―愚劣な人が富を得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない―(神々との対話)
―貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ―(神々との対話)
老いと死、またさまざまな苦悩もある下界を耐え忍べ。他(神々など信仰など)に苦悩の回避を望むことなく、大自然での安らぎを感じて、自ら
の身体の内にあるもので癒せ。他に頼ることは法に反し、全くなく、自己の内の行為で解決しなければいけない。
人々の幸福と安穏・安楽な暮らしのために誠実に働く、力ある国が一切の国民の幸福と安穏・安楽を心得て誠実に働こうとすること、あわれみ・
慈悲のこころづかいにより、人の命を大切にすること・苦しんでいる人々へのこころづかい、そういったことをよしとして受け入れることのでき
る国民・・・・・そういった真っ直ぐで正直な道しか、人間の状態に安住しようとする人々には、与えられていない。 しかも、衣食のない人々・貧窮で困り、生活もできない人々・・・それらの人々への配慮を思う心は、多くの人々の内に仏もあり、必要だと思う状況に
遭遇した場合、行えるようになっている。
―この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を退け、他人が与えようとするのを妨げる人々、かれらは、地獄、畜生の体内、閻魔の世界に生まれる―
(神々との対話)
神々も下界の人々を黙って認め(寛容)、ニルヴァーナ(仏の心)で欲界(苦悩もあるところ)と認めれば、慈悲・あわれみに反する行為は悪業・
慈悲・あわれみに従う行為は善業という、行為だけで欲界は成り立っている。その欲界で苦しいと思えば、他を頼りとせず、世と自己との思い煩い
を離れるような欲の自制と安らぎを求める行為。
欲界である理想は、肉体を得た自己の尊重(誰もがひとりひとりを尊重すること)であり、節度ある行為・自制である。肉体でない世界の理想は、
自己の消滅である。
五.信仰深い・信仰熱心・信仰に励もうとしながら、神々の世界・天にも知られた愚人は、「釣る」=釣られることを正しい・利益があると信
じさせる・・・人々が実際行って、そのとおりになる正直な行為しかないので、邪まな見解を抱く愚人は、釣られ束縛を受ける。 実際体験した者はまじめである。愚鈍・愚劣・愚人どもに惑わされずに、法の良識に従える者がいるかもしれないとして語る。
◎信仰を内に具え、法を内に具えて、仏のある者もいる。
■閻魔・地獄は仏のない者に対してである。
《現世利益》
欲の無い世界に安住せず、目的をもって生まれてくるが、
―身に適したふさわしいことを為し、重い荷に堪え、努力する人は、財を得る―(悪魔との対話)
【閻魔・地獄】
一切の生きとし生ける者の幸福・安穏・安楽に反して、自分の目的のために、他人の幸福や安穏・安楽な暮らしを害うことを心得て、努力する
人々は閻魔・地獄、人間としての生存状態にもなれない。
努力しないで、他を信じた者に御利益を信じさせ、苦労なき益を教える人々は閻魔の世界に生まれる。
信仰を外(他を信じた者)に、努力して財を得、自分を楽しませたり、妻子を楽しませたりだけ教える人々は、閻魔の世界に生まれる。
神々など、他がそうさせないことを絶対言ってはいけないのである。
法を内に秘め仏あり→苦悩、他を頼りとする→衣食住の満足と離欲→神々の世界→他が味方
法を内に秘め仏あり→自然のまま、世と自己との苦悩から離れるように、森や林など静かな場所で、苦悩を取り除こうとする 現世利益は自分が「したいな」という欲求に基づいて、それに向かって努力する。その場合、他人の不幸を喜び、安穏・安楽な暮らしを害うことを
問題なしとしてはいけない。誰かの幸福であると思うことに仕え、安穏・安楽な暮らしに仕えることを結果としなければいけない。
《来世利益》
―この世をもかの世をも望まない―(神々との対話)
―学ぶことに生きがいを認め、奉仕を楽しむために、戒律をまもって生き〜これは一つの極端説である〜この二つの極端説を知って、そこにとどこ
おっていなかった賢者は、それで思い上がることはない―(感興のことば)
―貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ―(神々との対話)
善業も法を身に具えた世の人々の良識範囲で、善業をするべきであるというこだわりを捨て去ること。金・物・享楽・快楽・・・物質的な
ものへの執着し過ぎな者が、法に背くのである。その人が助けるべき範囲の者であるのに、自己への執着・もの惜しみのために助けない。
冷酷・残忍・無慈悲な心と行為は、閻魔・地獄・人間としての生存状態にもなれない。
〔試し〕
―何ぴとをも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を
与えることを望んではならない〜母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対して無量の慈しみの意を
起こすべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ―(ブッダのことば)
母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみは、この世で一番素晴らしいことだと思えるか、もっと自己の欲得になる信仰を望むことで、
試される。
法を内に具えた人々の中には、試さなくとも、「他人の命を救うことは素晴らしい」ことだと思い、信仰を内に具えている人々もいる。
魚を殺す=釣る、釣られるか否かは、その人次第なのである。 多くを語るのは
本人が何がいいたいかをわからなくなっているときである >>89
>ニルバーナよりさらに高い理想があることを小乗卑賤の輩は知ることが出来ない
その高い理想とやらのために指一本でも動かしたのかねえ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています