>>852 の続き

■二俣事件無罪判決後

1957年12月26日に少年の第二審が東京高裁で開かれ、少年は逆転無罪となった。
判決後釈放された少年が山崎の家に挨拶に訪れた際、山崎は涙を流して少年を抱擁したとされている。
その後も少年と山崎は季節の便りを交わすなど交友が続いた。
その後、1959年に清瀬一郎監修の下に執筆した書籍『拷問捜査 幸浦・二俣の怪事件』日本評論新社、1959年5月によって、
紅林が真犯人と思われる人物からの収賄の疑惑があったことを暴露している。

■警察官失職後

警察官失職後は、運転免許も取り消されたため新聞配達や牛乳配達で生計を立てた。
五人の子どもを抱えながらの生活は困窮し、長女は高校進学を諦め二俣町から離れた場所で就職しなければならなかった。

村八分や親族からは縁を切ると言われ、事件から10年後の1961年には不審火によって自宅が全焼する被害を受ける。
火事の直前に当時小学3年生の次男が長靴をはいた男が家に入っていったのを目撃し警察に証言したところ、
逆に次男が火をつけたものと見られ補導されそうになった。
結局不審者に対する捜査は一切行われることなくコタツの不始末による失火と結論付けられたが、
この火事によって山崎が集めていた事件資料の多くが失われた。

1970年にはトヨタ自動車へ就職した長男に呼ばれ愛知県豊田市に移住し、知人の紹介によりゴルフ場の雑役夫として働き、
後に資格を取得しボイラー技士として勤務した。
山崎は精神鑑定の再検査や故郷へ帰ることを希望していたが実現することなく2001年8月に息を引き取った。
享年87。