【エレキの】寺内タケシとブルージーンズ【神様】 [無断転載禁止]©2ch.net
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幼児の勘違い、防災のヒントに 幼稚園が27年記録
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学級崩壊した後の学級担任 小学校非常勤講師のブログ
https://t.co/tJzFRvnZ1M 3DCG女子高生Saya2016がヤバい出来に。完全に不気味の谷を超えた(世永玲生)
https://t.co/6w6QleGZ3Q 彼らのレコード、CDは日本ではジャンク扱いだが
海外ではプレミア盤。
それをいいことに日本国内の数倍の価格で海外に売り付ける
日本のゲスな業者が世界に恥を晒している。 そんなの普通だろw
高くても買う人がいるなら
誰だって高く売りつけるわなw 初期ドラマーの工藤文雄氏は、引退後有楽町で焼鳥屋やってたらしい。故人だが。 ルイ高橋がタクシー運転手になっていたとは。しかし、野村義男の話では東京ビートルズの元メンバーもビル警備員やってたとかいうし。 タクシー運転手といえば、有名だったのは元(元祖)ジャニーズの真家ひろみだな
50代で亡くなったけど 1960年代のアルバム群は、フェンダージャガーのシンプルな音でモズライトとはまた違う良い出来。 バニーズといえばプラチナゴールデンショー
毎回、エンディングが御大のギターインストだったなあ 第一期のレコーディング曲で加瀬邦彦リードギター曲あるかな 津軽じょんがら節と黒い瞳のシングルでの三橋美智也とのセッションは圧巻でした。アルバムも出してほしかった。 昔の真冬の深夜、ボーヤに寿司買いに行かせて遅いと鉄拳制裁、同じく深夜にキャデラック洗車を命令、
車の地面側も潜って洗ってないとまた鉄拳。ひでえなwww アメリカの音楽誌で世界三大ギタリストに挙げられたという話はちょっと……… この人は嘘が多いからなぁ
話しかわって
80か90年代のアルバム聞いてみたらもろにフュージョン音楽もやってて驚いた
音もプレイも現代風
エレキでテケテケしかきいたことなかったから意外だったけど
こういうのやると個性が死ぬね
普通のフュージョンだ 昔、「すばらしき仲間たち」という日曜の晩にやってたトーク番組で
ジョージ川口、アイ・ジョージ、寺内タケシによる「芸能界三大ホラ吹き男」鼎談というのがあったな うちの大学のバンドサークルの先輩の性格がこの人そっくりで
実際ぶん殴られたこともある。
ただギターの腕は雲泥の差だったが。
バンド界のこうした体質は
はっぴいえんどが出てきてから改善されたと思っていたが
現実は何も変わってはいなかった。 >>25
>はっぴいえんどが出てきてから改善されたと思っていたが
妄想だな 剣の舞、ペルシャの市場あたりのカバーも上手い。好みはあるけど、古今東西あらゆる曲を仕上げる力量は素晴らしい。 この人は2ちゃんねらーとかネトウヨみたいなのを
一番嫌ってそう。
能書きばかりで自分自身は何も行動を起こさない者の典型だから。 ホラも多いが、ソ連公演や長年の間の高校コンサートを地道にやってるのは評価に値する。 ソ連時代のツアーに参加したメンバー氏から
「女の子はキレイでスタイルもいいんだけど、ヒゲが生えててねえ……」という話を聞いたことがある 60年代に、自分で引いた設計図を日本楽器に持ち込んでオルガン作らせたとか、本当か? オルガンは知らないが、バニーズ時代に巨大なアンプをどこかに作らせたって
昔ラジオでムッシュと宇崎竜童が話してたな
GS時代の器材が話題に上がっていた際に、こんな感じで
ムッシュ「寺内タケシがさ、狸の千畳敷みたいなバカでかいアンプをもってきて」
宇崎 「ジャズ喫茶で、あれ使って津軽じょんがらとかを弾いたら、蛍光灯がピシッ、ピシッと割れちゃって」
音圧が蛍光灯が割れた? 真相は不明だが、そんな話をしてた >>36
寺内氏らしいエピソードwでもこの人の70年代録音はどれも分厚い音で聴き応えある。 Wikipediaの内容すげえなwこれだめだろww 昔、自著「エレキ部落の大統領」を持ってた
友達に貸したらそのままんまになってしまったが
今ならタイトルで発禁になってしまうであろうこの本、内容もすごかったな
覚えているのは、米兵から100ドルでフェンダー・テレキャスター(黒ピックガードの初期モデル)を譲り受けるくだり
食うや食わずで働いて金を貯め、それでも足りずに着ていた普段着まで古着屋に売ってしまい
下着(パンツとランニングシャツ)姿になって、ようやく手に入れたという
「米兵宅からの帰り道、見たこともない四角い黒革のケース(ハードケース)に入ったギターを抱きしめて、泣いた」
とあったが、裸同然の男が路上でそんな姿を晒していたら、すぐに通報されてしまうだろう >>43
テレキャスターはサックス編成時代の超初期ブルージーンズで使ってるね。寺内というと赤いフェンダージャガーか金色ヴォイス12弦の印象強い。
会社の元上司が錦糸町楽天地で、加瀬時代の演奏見たって言ってた。うらやましい その本のなかに、突然の発病と闘病のことも当然ながら書いてあった
「演奏中に冷や汗がとめどなく流れ、動悸が激しくなり……」とか
いっぽう加瀬に言わせると
「前日までピンピンしてたのに、突然病気だと言って仕事に来なくなっちゃった」
1989年この人達のライブ見た事ある。高校の学年単位で見た。私達には
古い人達で先生の方が見たかったようだけど周りの人はかっこ良いと思った
ようだ。結局すぐにバンドブームが始まって友達でバンド始めたのを聞いて
いる。オレもそういうのに興味持ったから良かったと思う。 >>45
クレージーだよ奇想天外の撮影前日あたりに、メンバーにナベプロ独立を提案して加瀬だけが反対。
キレた寺内はその後病気療養を名目に脱退潜伏→バニーズ結成。レコーディング中のブルージーンズインハワイのアルバムも寺内不参加の曲がある。
ライナーには療養中で…とか書いてあった。 関内の事務所ビル見たら、結構古そうな建物だったなあ 寺内タケシのディスコグラフィーが詳しく載ってるサイトってある? モズライトの裏側に純金プレートくっつけてるんだっけ 幾度となく録音された津軽じょんがら節だけで、軽く3枚組アルバムできるねw 加瀬邦彦の本に、第一期オルガンの鈴木八郎とのやりとりが書いてあるけど興味深い。 カルト盤「寺内タケシ・アニメ大百科」と
「歌のないエレキ歌謡曲」の最初の2作が初CD化。
でもアニメ大百科の大部分は
94年に出た通販の10枚組に入っていた。 アルバムジャケットやらステージ衣装のデザイン(特に70〜80年代)は何とかならなかったのかな?
周囲の人間は「寺さんそれダサいっすよ」とか云えない空気だったんだろうな・・・。 >>59
70年代後半、世間での流行が終わった後にロンドンブーツを履き出したのは痛かったな
当時、ミッチーとか呼ばれてディスコサウンドなどに手を出した三橋美智也も
トラボルタ風の衣装にロンブーを履いていたが
テレビ出演の際に「寺内タケシに薦められて履いている」と言っていた
で、同じ番組に出ていたおすぎだかピーコだかに
「今どきそんな、ソ連ブーツ(ロンドンではとっくに廃れて、ソ連あたりにいけば流行ってるかもという意味)なんか履いちゃって」とバカにされていた >>64
右から二番目、クズ坊こと岡本和夫もリードギター担当になれてノリノリだったに違いない。しかし… 田川譲二といえば、久世ドラマ「ムー一族」での着流し姿の印象が強い
そんな強面だっただけに、この衣装の似合わなさは絶望的
まあ本人もイヤだったのだろうが
撮影のやっつけ加減もすごい
http://meg-cd.jp/products/detail.php?product_id=6337 田川譲二って、ユーヤつながりなのか、一時期ジュリーの用心棒みたいな感じだったような? 同じくブルージーンズの桜井五郎は亡くなってるとか。ほりまさゆきは分からない >>69
ステージでジュリーを肩車して練り歩いている映像は見た記憶があるな
ジュリーを担いでるガタイのいい、悪人面のオッサンは誰だ? と思ったら田川譲二だった
あの映像は何だったんだろう? サヨナラ日劇だったのかな? なんだかんだいって、エレキバンドでここまで商売してきたのは凄い >>64
ドラムは寺内時代末期にヤマハから提供受けたのをそのまま使ってたんだね。 亡くなった工藤文雄が営んでた焼鳥屋に行きたかった…生きてれば83歳。 ビートルズをリアルタイムでカヴァーしていたのはいいね。 津軽じょんがら節だけでも、数枚組CDボックスが作れるw まだ女ボーカルいるんかいな。ルイ高橋に代わってくれー 再度旗揚げからルイ高橋在籍前後(石橋志郎や相田幹夫)時代が短期間に終わり、メンバーが若手にガラッと代わったのはなんでだろ そりゃギャラを抑えるためだろ
若手なら安いギャラでこき使えて、口答えもしないだろうが
ベテランはそうはいかない 第二期BJは確かにギャラは良かったみたいだね
ttp://www.tomoyosejazz.com/BookReview2016.html
のサイトの下の方にジョー水木氏のギャラに関するエピソードが載っているけど
第二期BJって69〜70年の1年ちょいで9枚もアルバムリリースしてるし、
幾らギャラが良くてもベテランからは不満が出そうだな
若手にチェンジした第三期BJも71年に10枚以上アルバム出してるのも凄いけど
ギャラは安かったんだろうな・・・ しかし…数年前に関内の寺内企画のビル前通った時、あまりの外観にドン引きした。築何年だあれ。 渡辺プロからの独立を画策していた寺内タケシが、1966年3月横浜のジャズ喫茶「ローンスター」のステージ後のミーティングにてその胸の内を明かす。「俺は今『寺内企画』という会社を作っている。
このまま渡辺プロダクションにいては、俺が考えているブルージーンに変えることは無理だ。ということは、みんなの将来も保証できないということだ。新しく作る会社に移れば、みんなの将来も保証するし、給料も一人二万はアップする。
(中略)悪いようにはしない。さあ、時間がないから一人一人来るか来ないか言ってくれ」この提案にメンバーは順々賛同の意を表したが、最後に残った加瀬邦彦が
「(ブルージーンズを)やめさせてもらいます!」と答えたのに対し寺内は即座に「この話はなかったことにする」と言って帰ってしまい、
次の日の仕事―クレイジーキャッツの映画『クレージーだよ 奇想天外』出演に遅刻してあらわれ、その場で結核に罹った旨告白しバンドおよびナベプロから離脱する。加瀬がブルージーンズを辞めると発言したのは突発的な感情ではなく、
すブルージーンズのような「エレキ・バンド」ではなくビートルズみたいな自分のグループを作りたくて半年前から悶々としていたことによる。
しかし寺内離脱のせいでバンドは加瀬をリーダーとして存続を強制されてしまった。先の『奇想天外』同時上映の『アルプスの若大将』にもブルージーンズが出演しているが、寺内タケシはいない。
これが、寺内脱退後事務所命令で存続させられ、しかし2ヶ月しか続かなかった「加瀬邦彦とブルージーンズ」の貴重な(唯一の?)記録と思われる。5月頃に「加瀬とBJ」にビートルズ来日公演前座の仕事が入る。
これにより、ブルージーンズにいる限りビートルズの来日ステージを見れないことが決定的となり、とうとう加瀬はブルージーンズ脱退に踏み切った。というのが加瀬本の概略。
そんな直前での前座決定の不自然さや加瀬の直前の脱退が了承された奇異さは残るが、そういった杜撰さも当時の業界のリアリティだったのかもしれない。 「(寺内が)前の晩までピンピンしていたのに、翌朝突然病気だって言い出してさ(笑)」
と加瀬がインタビューで言ってたな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています