【エンヤトット】岡林信康 第5集【エレキ】
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2009年以降、再びバンド編成を復活させた岡林氏。
野外フェスへの参加(フジロックとCDJ 同じ年に両方参加した稀有なミュージシャン)や
美空ひばり関連公演への参加など、一時期より積極的になった。
さて今年は。。。。
関連サイトは2以降に。
そうそう
高石さんもメッセージ系の歌を続けることに疲れて一時逃避をしていたと記憶 プロテストソングを声を大にして歌っても
世の中を変えることなどできんのだヨ 高石氏もナターシャ時代にいろいろ考えたんだろうけど
こだわりもあったのはそこらへんですよ
曲のタイトル忘れたが「もう私の歌では世界は変わらない
だけど私の夢まで誰も壊せない」とか。
高石スレじゃなくて、岡林スレで書くのもなんだが。 >>104
「もう私の歌では世界は変わらない
だけど私の夢まで誰も壊せない」
作詞 キタヤマオサム
作曲 高石ともや
タイトル「少年」
1982年頃の作品ですね。 そうそう、ちょうどその頃に高石、北山、加藤に杉田などで
メッセージソング復興的な同窓会みたいのを・・後年には
なぜかエンケンとかも加わっ・・
・・って、また岡林から離れていくのでやめとこ(笑
同窓会嫌いの御大は、あまりそういう話には関連してこないのよね
>>103
岡林もその手のメッセージソングを歌ってた頃は、一種の使命感に燃えて
作詞してたんだろうけどね >>107
聴く側もリキが入ってたんだろうな。
主に団塊世代の兄ちゃんたちか。 結局、冷めちゃうわけだよ。そのリキが入ってた今60いくつかの
昔の兄ちゃんたちに吊るし上げられて。
だから、祭り上げられて同時に吊るし上げられる「キリスト」とは
皮肉にもそういう面もあったわけで。
俺は拓郎や泉谷らの70年代フォーク・ブームには背を向けてた。
時代に逆行してそれよりも前の岡林の初期アルバムを愛聴。
まだURCそのものから発売されてた頃だったなあ。
背伸びしたいガキだったから彼の曲の歌詞の内容に賛同w ■「フォークコンサート京の旅人」2012
京都円山音楽堂
日時 : 2012年10月13日(土)午後3時半〜
出演 :杉田二郎,ばんばひろふみ,
上田正樹,HUKUROH(住出勝則、滝ともはる、矢沢透(アリス)),平松愛理,秋人,山田兎, オーディション合格者
(スペシャルゲスト:元ジローズ 森下悦伸、元バンバン 高山厳)
料金 : 前売2500円 当日3000円
チケットは各プレイガイドで発売中
なぎらの新刊で、風船の西岡氏のインタビューなどをメインに
したものをパラッと立ち読みしてみたが高石と岡林は昭和44年
以降同じステージに立ったことはないらしいので、いっしょに歌って
いたのは意外にも実質2年ぐらいしかないんだね。
拓郎や泉谷らの70年代フォーク・ブームは功罪ありで、拓郎はミーハー
な?女の子のファンを増加させたし泉谷はエレックの拓郎に続くスター
を出すゴリ押しで知られるようになったのだが、本人たちが望んでそう
したわけじゃないので悪いわけではないのだが、拓郎のファンの女の子
は他の共演者のステージは聴いてないし拓郎のステージが終わればさっさと
帰ってしまうとか、そういうファンの変質は以前のフォークファンから見れ
ば、反発もまねいたわけだな。 >>107
アジ曲作るまで眠らせてくれなかったと嘆いてたみたいだよ、当時は
でも皮肉なもんだよ、その当時(urcの三作)の曲が未だにキャリアの代表作なんてね そりゃね
あの頃の団塊の思想など
否定されてるからだよ メディアを含め多分ボリュームゾーンであるあの世代は
「さすが岡林!
俺たちにできないことを平然とやってのけるッ!
そこにシビれる!あこがれるぅ!!」
的なところがメディア関係者を含め大半を占めていた、という事なのだろう。
後年に同様なポジションに墜ちてしまったのが尾崎豊なのは改めて言うまでもないが。 >>110
厨房時代にURCからカタログ冊子を送ってもらいドキドキしながら
各アーティストのアルバム写真を見てたよ
注文するときは異様な世界へ足を踏み込むような一種の冒険だったw >>116
URCのレコードは最初は通販だったけど、ブームになってからは俺の地元のレコード屋にも置いてあったよ
そこで岡林、高田渡、加川良らのアルバムを買った。アンチ拓郎を気取ってたオレ。 今34歳だけど、高校生の時なんて小室ブームで
回りにURC聞いてるやつなんて居なかったよ。
日本的で卑猥で猥雑な感じが好きだね。 同じ小室でも等のほうはアルバムを持ってた
♪雨が空から降れば・・・・・ >>117
俺はURCでは岡林と一緒に三上寛のアルバムを買った。
異様な世界にぶっ飛んだw それまでは普通の歌謡曲のレコード(それもシングル盤)くらいしか買ったことがなかったので
初めて岡林のURCでのアルバムを買ったときは大人になった気がしたw 初めて買ったアルバムは、ビクターから出していたベスト盤 『岡林信康の世界』
URC音源の曲も多数収録されてた。
残念ながら 「くそくらえ節」 は途中フェイドアウト。
「それで自由になれたのかい」 は違うヴァージョンだった記憶が。
ビクターはその後も、ちょくちょく独自のベスト盤を出してたな。 >>123
ビクターのベスト盤はCDの時代になってからは
80年代に出した1枚だけだった 「山谷ブルース」
今、ようつべにはいろんな奴らのカバーがアップされてるな。
五木ひろし、森進一、八代亜紀、ダウンタウン・ブギウギ・バンド・・・竹中直人w >>125
五木ひろしのヴァージョンは
アレンジがモロに彼の世界w 岡林は演歌に凝ってた時期は美空ひばりだけでなく
五木ひろしにも曲を提供してたね。
一緒に写っている写真を見たことがある。 80年代に岡林が出ていたお茶のテレビCMって
ようつべアップされたことないのかな 矢沢永吉のは、おそらく小学館の今は亡き「GORO」での対談である
ところまではわかるが、それにしても、Aちゃんとなんのつながり
ので対談だったのか、誰か知ってるおじさんいません?
時期的には、たぶんキャロル解散してソロになったあたりかと思うが。
>>123,124 86年にCDで出したが、そのあと間もなく印税未払裁判で勝って、H氏(2003?年没)からライツを金銭の代わりに取ったので出せなくなった 内容はほとんど忘れたが、矢沢のロックはシティロック、と言ったことに対して
岡林さんが、俺のはカントリ−だから、と言ってたような気がする あとサザンの桑田とも、昔テレビで対談してたな
当時ノイロ−ゼ気味の桑田にノイロ−ゼ先輩格の岡林さんが
アドバイスしていたような気がする
岡林はサザンには好意的だった。
「すばらしい芋バンドで好きだ」と評価してたw 昭和歌謡やフォークの自選カバー曲集のソロステージ
でも「チューリップのアップリケ」歌ってたな、桑田。 一時期岡林はアミューズ所属で、サザンの合同結婚式に牧師役wで出たり、野球やってたりした 桑田と山下達郎が、桑田のラジオ番組で「友よ」を歌ったこともある。
そうそう、山下達郎のライブツアー、企画もの以外の普通のツアーでは4回連続(98-99、08-09、10、11-12)、岡林の歌を自曲の中で引用している。(最初のみ「私たちの望むものは」、あと3回は「友よ」)
岡林「僕はビートルズのアルバムは『アビイ・ロード』なんかより
初期のほうが好きやね」 >>139 そりゃ後半のは多重録音など、ライブで実現不可能なものばかり。つうか66/08以降ライブやってない(ルーフトップくらいか) サンボの山口との初の対談で、こう語ってるからでしょ。
「彼らの初期の作品はアホみたいな歌やろ。君を抱きしめたい、とか。
でも、かってなかったあの音楽スタイルはファッションだけじゃなく
いろんな革命を起こした。「イマジン」は初期のくだらん歌詞ほどの
革命は起こしとらんのや。彼らが意識せず本当に楽しい、ノレる、最高
やと思ったものが非常に感動を与えて歴史を変えたんだもん。歌詞はたい
したこと歌ってなくてもね。何かを変えよう、世界を変えようとして歌った
ものはあんまりろくなものがないんや」
(山口)「だけど岡林信康が過去に世の中を変えようとした曲で僕ら変わり
ましたよ」
「だから自分の中で残ってる歌は何だというと意外とそういうことを意識
せず書いたもの」 >>139
凝ったものよりも自然でシンプルなサウンドの方が
いいと思ったんだろうな もちろん革命を起こせたか起こせなかったかが、良し悪し
の判断基準になるわけでは、全くないと思うけどね。
ではウッドストックの「ラブ&ピース」は後世における影響
はあったのか、それともただのあの時代特有なただの共同幻想
だったのかという話にもなってくるわけで。
まぁ、おうかたは幻想だったのかもしれないが。 昨日、ユーチュブでガイコツの唄を聞いた。
「姉は淫売 妹は芸者 末のチョロ松バクチ打ち・・・」大笑いしたw
ライブパフォーマンスがハンパじゃねーな。 >>144
本人がいま聴いたら赤面するかもw
若いっていいねえw >>145
19年前に徹子の部屋にゲストに出た時にクソクラエ節とガイコツの唄がスタジオに流れて岡林は大変照れくさそうだった ついでだから上記の対談から、ガイコツの唄に関しては
「今思ったら、あれが人生の結論かもわからんな。
本来は人生の最後に作る歌なんちゃうか。あのとき、まだ21やで。
あの歳で、なんであんな歌書けたんやろうと思うね」
岡林に限らずURC系は歳の割に達感してた歌手が多いんじゃないかな
20代の若造たちがよくぞあんな歌を・・・
いまどきの若造の感性が幼いのかもしれんが あの世代が出来過ぎてるんだよw
岡林高田三上エンケン友川・・みんないい意味で不良だよ むしろディランなんか知らん頃だからこそ
出来たんじゃないのか? 聖書もキリスト教も捨てたけど、培ってきた死生観みたいなのは
はあったと思うからね当時の御大も。だから、どうせみんないずれは
骸骨になるんだから、一度しかないおまはんの命を大事に使ってくれと。
70年代末期から80年代初期の岡林
テレビでジュディー・オングやデビュー当時の
チャゲ&飛鳥とも共演してた たしかに岡林三上エンケンたちを聴いた後、
最近の若手シンガ−ソングライタ−たち、たとえば高橋優などを聴くと
その幼稚さにがっくりする。 っていうか、ここんとこの「Jポップ」とか言われる若い連中
の歌詞とかはね。
ちょっと背伸びした中学生でも書けそうな詞みたいなのばっかり
で。 あ、でも高橋優は最近の若い連中の中でありつつ、曲によっては
意外と嫌いじゃないのだがw >>154
チャゲアスとの共演は『ミュージックフェア』だったかな。
ASKAが「高校生の頃から岡林さんには憧れてました!」
そして一緒に岡林の『グッバイ・マイ・ダーリン』を歌ってた。
これ何かのテレビCMで使われてた曲だったな。 スカパーでたまたま観た日本の悪霊。
映画自体も強烈だが岡林の存在感もすげ〜 「みんな僕より売れやがった(笑)」のリストにASKAも
入っていたのだな 東芝EMI専属だった頃、「僕のCDが売れない分、会社はユーミンの売り上げで補てん」
などと自虐的に話してたw Good-bye My Darlingはライオンが初めて男性化粧品に進出した時採用したCMソング。
化粧品分野がその後どうなったかは言うまでもない。
ちなみにシングル盤はアレンジにストリングスが入っているが、このバージョンはCD化されていない。 >>162
>Good-bye My Darlingはライオンが初めて男性化粧品に進出
TVドラマ 「警部マクロード」 で人気があった、俳優デニス・ウィーバーが
女性とフェンシングをしてるCM映像だったな。
そのBGMに (ポップス路線へチャレンジ中の?) 岡林の歌w 「セレナーデ」 (1978) がポップ色濃いアルバムだったな.
羽田健太郎のピアノ、芳野ふじ丸のギター、
タイム・ファイブや槇みちる (♪若い〜ってすばらしい〜) のコーラス。 「セレナ−デ」の中の「オリビアに」を、加賀まりこが司会をしている番組で歌ったことがあった。
「幻の名曲です」と紹介していた。 岡林信康と浅川マキ。復刻版CDを全部買ったのはこの二人だけ。
2007年までは毎年春に京都府立芸術会館の
小さなホールで公演やっていた。
2007年の公演がなかった事で京都の主催者が
公演予定日に「おわび」のハガキを送ってきた。
そこに「いつの日かきっと、岡林さんを京都円山
音楽堂のステージに立たせたい…(以下略)」と
あった。
その後2007年秋に日比谷野音公演を実現させた時
岡林さんは「いつかMSG公演を!」と言った。
円山音楽堂では怒号とヤジに包まれる事は必須で、
本人が言うMSG公演の夢と比べたら、
確かに「後ろ向き」な企画だろう。
それから5年、今年秋は曼荼羅でアコースティック公演をやるが、
原点回帰なのか、エンヤトット楽団とも割れたのだろうか…
誰か教えて。
米国シアトルでのジャパン・イベントで歌ったとか言ってたな 何があったのか知らんが、少なくとも20年前に見た密着ドキュメント
番組では、加賀まりこを嫌ってたふしはあった。
「加賀のババアが」と言っていたのは確か。
>>167
「岡林信康を語る」の発売記念トークショーのとき
グローブ座ロック・エンヤトット2DAYSの件で
弾き語りがないという不満の声があったので、フォークだけの公演もやろうと思ってる
みたいなこといってたので、それの延長かと。
今年関東でやった3つの公演は全部エンヤトットやってるし。
円山音楽堂で歌う岡林は見てみたい。 男性用化粧品 MG5のCMソングとして「自由への長い旅」をはっぴいえんどのバックで唄った(70年)
たしか くさかりまさお が映っているやつ。
アレンジがビクターシングル版と若干違う 何のテレビCMだったか忘れたが「君に捧げるラブソング」を
使ってたものもあった かなり前に買った「きつね」のDVDをちょっと見たが、あまりの大根ぶりに
恥ずかしくなって見るのやめた。
学者にはあまり見えないな。世捨て人役でよかったのに だからというわけか知らんが、田原俊彦主演のドラマ
に出たときは無口にマキ割りとかやっててあまりセリフ
はなかったような気がするが、そっちのほうが味があった
ような記憶がある。 >>174
主演の女の子も売れなかったね
中山美穂も出演候補だったらしいが その三上寛も、「偶然耳にした岡林信康の歌を聴き、何かが起こっている、と感じ」
生き方を変えた一人だ。 不謹慎かもしれないが
この人は早死にしていたら
尾崎豊のようになっていたのだろうか・・・。 >>179
いつ死んだかにもよる。
もし、URC期に亡くなっていたら、神だなぁ。
(カバーされる曲はこの時期のものばかりだし、伝説となった「ひと騒ぎ」の数々も)
オレもいけない事を言うが、自分の最後は「自由への長い旅」で
送りだして欲しい。
岡林さんと平野さんと鳴る駒姉さんの3人でやるやつ。
「彼(尾崎)のように死ななくて本当に良かった」
という実感が「ジェームスディーンにはなれなかったけど」 >>181
大事なのは家族と生きる事、家族にメシ食わせる事と。
ありふれた事だけど、愛にも全力でと子供に言ってる。
いまのライブでは歌う機会はまずなさそうだけど。
笑福亭鶴瓶が以前ラジオ番組で岡林の作品の中で1番好きなのは「ジェームスディーンには〜」って言ってた
片付けをしていたらベアナックルレビュー’86のポスターが出てきた。
戸塚の会場に行った時手に入れたモノだと思う。
生岡林を見た時のだ。 片付けをしてたらベアナックルレビューのコンサート会場で買った
自主製作のカセットテープが出てきた
楽屋を訪ねてイラスト集の本にサインをしてもらったっけなあ >>185
自主製作のカセットテープ
岡林は 「食っていくための行商です」 などと自虐的に言ってたなw たしかベアナックル・コンサートって、寺や神社、
温泉センターの宴会場などでもやってたと思う >>158
>ASKAが「高校生の頃から岡林さんには憧れてました!」
最近読んだASKAの雑誌インタビュー
「自分とフォークとの出会いは高校時代に聴いた井上陽水さんだった」
なんて書かれてたけどな(岡林はそのついでに聴いてたのかもw) >>188
彼の世代だったら拓郎か陽水あたりから入るほうが普通だろうけどな 拓郎はミ−ハ−向けだから、ASKAだったら陽水だろう。
岡林の良さもわかると思う。 確かにASKAがはまっていたのは、陽水の、まいにち吹雪吹雪
「氷の世界〜」だったはず
まぁ、最初の出会いと言うならリアルタイムの団塊でもなければ、
いきなり岡林というわけでもないか。
私だってフォークなるジャンルを最初に意識したのは小椋佳とか
ですよw 自分はASKAと同い年なんだけど、団塊世代のいとこの影響を受けて、
拓郎、泉谷の70年代フォーク・ブームの頃も、時代に逆らい岡林や高石友也
のアルバムを聴いてた。 >>192
拓郎なんかよりも岡林や高石の歌のほうが
ずっと歌詞に重みがあったからな ただ、「拓郎嫌いだ、岡林のほうがいい」って期待した団塊〜昭和20年代
生まれのファンは、その後の次々変わる御大の変遷に「もう岡林にはついて
いけん」と、どんどん離れていく(もしくは拓郎に心変わりする)わけさw
本人も「それでどんどんジリ貧になった」と言ってるように。
以前にもこのスレにそういうおっさんが「今の岡林はつまらん。昔に戻れ」
とか連投していたし。それはそれでどうしようもない・・
だから自分もそうだが、ヘタにリアルタイムとか知らない後の世代のほうが
御大の変遷も含めて全部を受け入れられておもしろいと思えるのですよ。 もし俺がリアルタイマーだったら、アルバム「俺らいちぬけた」
あたりで見捨ててたかも
もう、こいつは終わった・・とか言って 今34歳だけど、「金色のライオン」までだね、聞くのは。
それ以降は興味ない。
>>193
リアルタイムでもそんな感じだったんすか?
まあ拓郎はメジャーよりだし、初期だけなら岡林の方が魅力があるのは解るんだけど 自分は中心としては岡林のファンだが、拓郎は拓郎で好きな曲も
あるよ。まぁ、かってのつま恋とか篠島あたりで「タクロ〜っ!!」
とか熱狂していたおっさん(当時の若者)の中にも最初は岡林で
フォークに目覚めた人もいるだろうけど、こりゃもう時代の流れ
でしょうがない。当時の御大は「俺はもう演歌なんや、ほっといて
くれ」(絶版・「村日記」)だもんなw ちなみに拓郎と多くの共作の、襟裳岬その他で作詞のヒットメーカー
の岡本おさみは、「岡林は日本のロックの原点だと思う」と高く評価
はしている。 頭脳警察なんかよりロック感じますよね、初期の岡林は。
2年前の吉祥寺ライブのマンハッタン、3ケ所くらい歌詞間違えてる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています