1974年のプロ野球
巨人V10ならず、中日優勝、長嶋引退、金田ロッテが日本一 この年中日が日本一になっていれば…
最後に「リーグ優勝して日本一」から67年間見放されているとかいう異常事態にはならなかった
ほんと生きてる間に中日のリーグ優勝からの日本一見るのはもう諦めるべきかね
まあ仮にこの年にリーグ優勝からの日本一になっていたとしても47年間か 田淵が王とのホームランダービーでデッドヒート
最後は王にかわされたが初の40本台到達 前年とこの年で王は2年連続三冠王か、この2年間がキャリアハイかな(他の年も凄いけど)
この年の出塁率.532はもう塗り替えるのは不可能か この年は長嶋引退の年で、他のV9メンバーも衰えてきたから、三冠王の王だけが突出した打線だった
だから、王の四球が増えて出塁率がすごいことになった 中日は巨人に一桁の勝利数しか挙げられなかった
のに優勝。オールスター戦明け後半戦なんて
巨人に1つか2つくらいしか勝てなかった。 >>6
中日優勝アシストしたのはヤクルト
対中日8勝16敗2分
対巨人12勝13敗1分
巨人にしたらアトムズ時代カモにしてきたヤクルト相手に5分の星は痛かっただろうな >>7
大洋も巨人に12勝13敗
だが中日は大洋相手に14勝9敗 中日ヤクルト広島はお互い競り合わない限りはこのうちのどっかが優勝争い、とりわけ巨人や阪神とならアシストしあう
んで中日はヤクルトや広島と巨人が競り合いになるならヤクルト広島を、巨人はヤクルト広島と中日が競り合いになるならヤクルト広島をアシスト 「体力の限界」で引退したはずの長嶋が引退試合の後に行われた日米野球でもカンカン打ちまくっていた。 メッツの監督はヨギベラ
ジョートーリはカージナルスから移籍してきたばかりだった 巨人は王以外では末次の調子がよかったくらいで、打線が薄くなったんだよね
衰えた長嶋が打線のブレーキになってしまっていた
前年もぎりぎりの優勝だったからね 衣笠は最初は調子よかったけど、後半は当たりが止まってしまったんだよね 衣笠24本の時に田淵22本、王17本
結局32本で二人に大きく抜かれる 「天下取り」
朝8時から競歩に近い30分間の散歩で始まり、本練習でも40分間のジョギングや練習前の20㎞走・・・。ロッテの鹿児島キャンプは「走る」という
事で彩られた。金田正一監督就任の73年からとにかく走らされ、ナインからは「俺たちは陸上選手じゃない」と文句が出た時もあったが、就任初年度
に前後期とも2位だった事で金田の方針に懐疑的だった選手たちが走る事に対して疑わなくなってきた。練習法がひたすら走り込みを中心とした
強烈な印象の金田だったが、細やかな側面も数々あった。
「食事はバランスの良いものをたくさん食べろ」と言って出てきた遠征先の豪勢な大量の食事から、「酒の飲み過ぎとタバコはNG」「十分な睡眠と
早起き」「素足の生活は良くない」といった健康管理の大切さを説いていた。
猛練習キャンプの心配をよそに「この苦しみが夏場に生きるんや」と金田は意に介さず開幕を迎えたが、前期は4月に7連勝、連敗してまた4連勝で
最大貯金10として2位阪急に3差をつけた。開幕2週間前のオープン戦で木樽正明が顔面骨折、開幕直前には「エースにしてみせる」と金田が
話していた弟・留広も負傷していたが、早期復帰して白星を積み上げた。しかし35試合目で阪急に抜かれて2位に終わり、直接対決も3勝7敗3分け
と負け越した。
後期に入って暑くなると、金田が言うような練習の効果が出始めた。前期6戦連続アーチを含む18本塁打、打率.362のジョージ・アルトマンが
8月上旬に病気離脱しても、投手陣が立ち直ってきた。金田留が9連勝を含み10勝3敗で最多勝、防御率も前期の4点台から2.07と飛躍して
兄の予言通りエースとなった。木樽も7月中に10勝クリアと安定感を見せて、村田兆治、成田文男を合わせた4本柱が確立された。
8月16日からの阪急4連戦、0.5差で首位に立つロッテが初戦は金田留の完投勝利、2戦目は19歳の三井雅晴から木樽へのリレー、4戦目も
木樽-成田-八木沢荘六という先発陣総動員で3勝1敗として8連勝中だったライバルを撃退した。そして9月26日、デーゲームで阪急に完封負け
を喫したものの2位南海が日本ハムに引き分けたため、ロッテの後期優勝が決まった。
後期の対阪急戦8勝5敗の勢いをプレーオフにも持って行った。西宮での1戦目は金田留先発予想の裏をかき球宴のような細かい継投の奇襲を
披露、木樽-八木沢-三井-水谷則博-村田のリレーで1点差勝利、2戦目は満を持して登板した金田留が初回5点の援護をもらい連勝、そして
仙台へ場所を移した3戦目は初戦で抑えを務めた村田の3安打完封で4年ぶりのリーグ優勝を飾った。
後期Vは宿舎前の道路でジャージやパジャマ、ポロシャツ姿のナインによる金田の胴上げだったが、プレーオフではもちろん県営宮城球場での
胴上げとなった。就任時から常々「伊達政宗は無理やったが、ワシは(仙台で)天下を取ったる」と言っていたが、リーグ優勝の2週間後中日に
4勝2敗で勝って日本シリーズを制覇、名古屋の地で金田は“天下”を取った。 (了) 日米野球で全日本に選ばれた日本ハムの大下剛史
トレードが決まって広島のユニフォームで出場
しかし場内アナウンスや新聞紹介は「日本ハム」のまま 長嶋が引退、長嶋の成績が.244 15本塁打だったが、
野村の成績は故障もあり.211 12本塁打で長嶋以下。
この年の巨人-阪神戦の後楽園の内野席に野村が観戦しに来ている写真が
週刊ベースボールに載っていた。 兼任監督でありキャッチャーなんだから打撃成績だけで単純な比較はできないよ >>36
ロッテは投手陣が充実していた
打撃は主砲のアルトマンが倒れてからは、小粒になった
山アとか得津が四番を打っていたからね >>44
山崎はそこそこ長打も打てるけど、得津はどう見ても四番タイプじゃないな。
守備専門、人呼んで「自衛隊」の江島巧も四番打ってるね。 この時代の野球ですら中島・沢村の時代からすれば生温く感じる >>36
ここはお前の作文発表会じゃねえんだよボケ
雑談掲示板で独りよがりの駄文垂れ流すなドアホ まだ小学生のころ、ラジオで阪急ロッテ戦の中継を聞いていた。
最終戦で米田投手と山田投手が規定投球回数に到達するために1イニングとか1アウトとか取るために登板した以外は、
普段はあまり試合に出場しない1軍半から2軍選手が中心の試合で、惜しくも敗けてしまうのだが、
ここで捕手・岡田がホームラン。、
阪急ファンだった私は、この岡田という捕手に注目し、来年はきっと活躍する、一軍の試合に出てくると期待した。
ところが翌年、現役続行していた岡田捕手は、一向に一軍の試合に出てくることはなく、その後引退している。
また、同様にベテランの種茂捕手も、翌年コーチ兼任捕手になったものの、試合に出場することなく現役生活を終えている。
今なら、嶋や中嶋、白浜のように出場機会もあったろうに、、、 >>48
岡田幸喜といえば、1969年日シリ第4戦での岡田功球審に対する愚行(投球を捕らず球審にぶつける)が有名。
というか、1973年はキャリアハイで半レギュラー、1974年に大幅に出場を減らしている。 >>49
愚行とか馬鹿か?
あの当時岡田みたいな補欠が自分の意志で勝手にやるわけないんだよボケ
あれは完全にベンチの首脳陣の指令
だから近年出ている阪急もののムックの記事にも捕手の名前は伏せているのにアホか >>51は余程脳に障害があるんだろうな。
さっさと死ねばいいのに。 チームオーダーだろうが、選手の独断だろうが、そんなもん心の底からどーでもええわ、
判定が気にくわないからって(しかも誤審じゃねーし)審判にボールぶつけるのを愚行と言わずして何と言うんだよ 「決定力不足」
3年目から南海の正捕手となり、以降18年間で主砲として2000本安打、550本塁打、1500打点、4500塁打といった記録を打ち立て
ながら本塁を守り続けた野村克也が、20歳の2年目以来の規定打席未到達の憂き目を見たのが74年の事だった。39歳という年齢による
年齢による蓄積疲労、前年リーグ優勝したとはいえ5年目を迎えていた兼任監督の重責もあり開幕直後に右肘痛が野村を襲った。監督・
主砲・正捕手という“三足のわらじ”を履き続ける労力は相当なものだった。
開幕して間もなく出ては休んでの状態が続き、チームは序盤から低迷した。4月終了で既に首位と6差の最下位に沈み前期は4位で終了、
ただ野村が常時出場できていた6月は6連勝と4連勝をしていた。その間に74年の戦い方が固まっていた南海の後期は、前期に反して
良いスタートが切れた。
島野育夫と桜井輝秀の一・二番コンビに両打ちのウェス・パーカーと5月に緊急獲得したロン・ロリッチの新外国人が野村不振の穴埋めをした。
パーカーは14本塁打と長打力には欠けたが打率3割をマーク、ドジャースでの9年間のレギュラー生活で6度のゴールドグラブ賞を獲得した
一塁守備も見事だった。ロリッチはメジャー3年間で48安打の実績で来日して、出場95試合で27本塁打と活躍した。
投手陣も江本孟紀、山内新一、松原明夫の三枚と、西岡三四郎に代わり台頭した中山孝一で先発陣を形成した。リリーフも佐藤道郎が
68登板と健在で、この年13セーブで初代セーブ王の上に最優秀防御率も獲得した。
8月までは首位ロッテに食らいついたが9月に息切れした南海が、前後期とも優勝を逃した大きな原因は決定力不足だった。チーム防御率
リーグトップの投手陣と打線が?み合わず、3連勝以上が8度ありながら3連敗以上も8度あった。この年から9回打ち切りとなっていたが、
引き分け16は59年の西鉄が記録した14引き分けを塗り替える当時の日本新だった事から“引き分けホークス”とも呼ばれた。挙げ句に
9月26日のドローで、ロッテの後期Vが決まるというおまけまで付いた。こうした決定力に加え持久力、忍耐力の無さが響いた74年は、野村と
いう大黒柱の故障と衰えが大きく士気に影響したという老舗球団節目の年といえた。 (了) 中日が20年ぶりのリーグ優勝を決めた1974年10月12日は特撮番組の
仮面ライダーXの最終回が放送された日。名古屋の子供達の中には
中日ファンの親父に無理やり中日球場に連れて行かれて仮面ライダーXの
最終回が見られなかった子も居るんだろうなぁ、と思った。 1974年 日本シリーズ《中日VSロッテ》第1戦10月16日中日球場☆ ---捕手の送球をバットで妨害?
https://youtu.be/K76RNKMs9Lo?t=2 1974年は広島東洋カープが3年連続セ・リーグ最下位…
しかし、翌年には! >>56
前年は主砲・野村兼任監督がMVPになる活躍で優勝した
南海は野村監督が年齢とともに衰えたとき、チームも衰えるしかなかったんだよな 漫画「侍ジャイアンツ」の最終回も主人公が死亡するというオチだったな >>64
ワンマンチームだったからなぁ
南海本社が金を出さなくなり長期的な戦力拡充が出来なくなった時点で先は見えていた 「オリオンズ時代」のロッテ、最後のリーグ優勝&日本一50周年 そして千葉ロッテ時代を通じて最後の年間勝率1位でもある >>63
50年前の1974年まではカープの帽子の色は青だった
翌1975年から赤に変えて初優勝