ランディ・バース(Wikipedia)

…この年は王貞治が1964年に記録したシーズン55本塁打の更新が注目されたが、54本目を打った段階で残り試合数が2試合になった。いずれも巨人戦で、その監督は王貞治。

最初の試合(10月22日、甲子園)で先発した江川卓は3打席ストライクで勝負し1安打に抑えるも、他の投手は事実上の敬遠攻めであった。
最終戦(24日、後楽園)の第1、2、4、5打席はストレートの四球、第3打席は先発の斎藤雅樹がバットが届くところに投じた初球の外角高めの球に飛びつくようにセンター前に単打して、結局1打数1安打4四球で記録は達成できず、
翌日の報知新聞には「バース記録達成失敗」という見出しと「自分はバースに敬遠を指示しなかった」という王のコメントが掲載された。

当時巨人に在籍した外国人投手キース・カムストックは、後に自らの著書でこのことを振り返り、「バースにストライクを投げると、1球につき罰金1000ドルが課せられていた」と記している。指示を出したのは、当時一軍投手コーチだった堀内恒夫であった[5]。

また当時バースは、最終戦を前に「記録達成は無理だろう、私はガイジン(外人)だから」とも語っていた。
一方、この敬遠攻めの影響でバースの出塁率が上昇し、前日まで9厘差でトップだった吉村禎章(当日4打席で出塁0)を最終打席で.0005差で抜いたことで、バースは最高出塁率のタイトルも獲得した。

前年(1984年)までセ・リーグでは『最多出塁数』が表彰タイトルであったが、この1985年からは『最高出塁率』が表彰タイトルへと変更されており、当時の巨人ベンチはこの記録のことをよく理解しておらず忘れていたことが原因であった。

結果的にバースは当時表彰タイトルだった最多勝利打点と併せ、打撃部門5冠に輝いた。ちなみにバースは、翌年の7試合連続本塁打記録を賭けた対戦(後述)と合わせ、記録を恐れず真っ向勝負してきた江川を高く評価し、
「本当にファンタスティックだった」「江川は素晴らしいピッチャーだったし、いつも勝負してきた。敬意を表するし、尊敬もしている」とコメントしている[6]。