関根潤三さんの思い出を語るスレ
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やっぱりヤクルト監督時代の功績だよね。
在任中はずっとBクラスだったけど、
広沢、池山を中心打者に成長させて暗黒時代を脱出したことにより
うそのように明るいチームになった。
関根さんの功績でもないんだろうけど、
ホーナー効果とかの明るい話題もあった。
花が開いたのは野村時代だけど、
ヤクルトにとっては関根さんが幸福の使者だったと思う。 身体は小兵だけど、喧嘩は糞強かったらしいな。
ハリーとどっちが強いんだ? デーブの件は本気でキレてたの?
ちょっとやんわり注意じゃないの? >>5
それは近藤貞雄監督だけどね。
まあ、高木豊は自ら言うとおり関根さんの作品ってことでいいと思うけど。 大魔人佐々木に対して野球をつまらなくしたって言ったのいつ?
佐々木は何て反論したの? ニッポン放送の解説、何試合くらいやったのかな?相当な記録だと思う 2016年にCSプロ野球ニュース出てた姿がヨボヨボで見てられんかったな >>8
1966〜69年の第1期は局で唯一の解説者。
自局制作は全て担当し、本番カードがネット受けの場合は裏送りも担当。
その後も現場復帰の間、71〜74、77〜81、85〜86、90〜2016年と断続的に契約。
2期以降は既にLFも複数人数の解説者を雇っていて、関根氏の独壇場ではなかったものの、
担当した試合は1,000試合を軽く越えているはず。 実は瞬間湯沸かし器で監督時代に「てめぇらふざけんじゃねぇぞ!」って啖呵切った逸話好き。 1990年の開幕から間もない頃のニッポン放送での番組内、
関根氏(スタジオ)、野村監督(グラウンド=練習中)をつないでのやりとりがあり、
その中で野村監督から「秦をもっと教育しておいて欲しかった」とボヤかれたのに対し
「いやぁ、ごめんごめん(苦笑)」と返したのがいかにも氏らしかったかな。
ただ、そのやりとりの前に野村監督が秦捕手のリードを腐した事※も影響していたかも。
でも、内心はムッとしていただろうなぁ。
※巨人戦でクロマティに高めのつり球を痛打された際の意図を問い質し、
(空振りを狙いという答えに)アウトカウント、走者、ボールカウントを踏まえて
なぜそのような発想になるのかがわからない、という趣旨の内容 関根さんは古巣・近鉄に対する思いは強かったようだ。OB会長も務めたくらいだし。
本人は「いつか近鉄には恩返ししなければいけない。」と話していたから、オファーが有れば監督を引き受けていたんだろうね。
選手時代を知る人物が在籍していた70年代前半がタイミングだったのかも。それ以降なら世代が違う野武士的な選手たちを操縦できただろうか。 衣笠祥雄が夜遊びして深夜にコソーリ帰ってきたら
待ってたよ
泥酔した衣笠に死ぬ程素振りをさせたというエピソードにビビったな
力の抜けた良いスイングに、明日ホームラン打つよ、と関根さん
もちろん打った >>11
それ全然効果なかったらしいけどね
?みたいな感じで インテリヤクザとかキレたら恐いとか言われてるが本人はガリガリの爺さんだしな
勝手に恐い人扱いされて迷惑してたんじゃないの?
まあ関根の周りに恐い人がいたのかもしれないけどさ ヤクルト時代は優勝お助けマン
優勝チームには三年ともボロ負けしながら、二位には勝ち越した 若菜が米マイナーのタイドウォーターからシーズン途中に大洋に移籍した時に緊張を解こうと
選手前で当時人気番組になっていた笑っていいともをまねて「今日から若菜が入るけどいいかな?」「いいとも」とやったらしい >>18
同い年の根本や安藤昇とつるんでたらしいからガチやと思うで 「関根さんは温厚に見えて厳しい方です。少し休めば長引かない程度のケガをしていて、今後のために
1試合休ませてほしいと頼んだら、“休んでもいいけど帰ってくる所はないぞ”と突き放す。続けて“いまお
前がスタメンから抜けるとチームバランスが変わってくるだろ?”とも。これには身が引き締まる思いでした」
「関根さんがチームに与えた影響は大きかった。僕ももう一度やる気になって、高木豊ら若手も育ちましたから」
https://bunshun.jp/articles/-/37182?page=2 2chだった頃どこかのスレに書いたものを記憶を辿りつつ再録
プロ野球ニュースのオフ企画で
新婚さんいらっしゃいのプロ野球選手版をやったことがあって
司会が関根潤三と森脇健児、
ゲストは中日与田夫妻とヤクルト笘篠夫妻が入れ替わりで出演した。
事件は二組目に起きた。
夫・笘篠賢治が妻・松本典子にやめてほしいこととして
「起こす際に耳の穴に指を入れてくること」という話をしていた時
森脇が隣に座っていた関根さんの耳にこっそり指を入れたのだ。
森脇としてはもちろん軽い冗談のつもりだったんだろうが
関根さんはいつもの好々爺キャラはどこへやら、
「…この野郎!」と一瞬にして人が変わったように殺気立ち、
あまりの豹変ぶりに驚いた森脇はセットの裏に逃げ出してしまった。
その後セットの陰から様子を伺う森脇を「座れ!」と一喝し
森脇は恐る恐る元の位置に戻ってトーク再開。
以後は何事も無かったように企画は終了した。 >>23
ヤクルトでも同じ事やったな
水谷か渋井か忘れたがあそこが痛いここが痛いと言ったんで
1度2軍に落としたら1年間上げなかった >>15
本人はほとんど素振りをやらない人だったのにね 80年代のセリーグって、牧歌的な時代だったよね。
常に巨人・広島が優勝争いに絡んで、ヤクルト・大洋は基本的に問題外なのだが優勝争いをかき乱すこともある。 1勝2敗でも自分を見失わないことが大切だったかな。なかなかの名言だと思った。
この年代の人は厳しいよ。軍人のようだし。 でも勝負事は勝ってなんぼ。
星野のような思考のほうが選手はついて行く 荒木大輔高野伊東昭光と投手を破壊しまくった。
おかげで後継の野村は苦労した でも荒木高野伊東が戻ったら優勝したな まぁ伊東以外は長続きしなかったが…
この3人は全員重複1位で全員東京出身で仲が良かった
高野がオーナーだった34ビルに集まって花火見物していたそうだ >>37
野村も内藤・加藤・川崎・西村・岡林・伊藤・山部・田畑って投手を潰しまくったけどね。 >>33
現実的には負け犬思考に陥っていく人が大半だろうな 「一勝二敗で威張ってるんじゃないよ。僕は、そんな気持ちなんか持っていないからね。“負けて勝つ”なんて、うまいこと言ってるんじゃないよ」
まさかの展開に驚いていると、スイッチの入った関根さんの口調に勢いが増す。
「オレは『一勝二敗の勝者論』なんて言った覚えはないよ。1つ勝って、2回負けたら勝者じゃないよ。そんなことねぇよ。1回勝って、2回負けて、何が勝者だ!」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200410-00037164-bunshun-spo&p=2 82年は長嶋大洋の予定だったが発表直前にオジャンになってこの人が急遽やった 大洋の関根の後任が近藤貞雄だったのが謎。他にいなかったのかな。若手が育ってたんだから勝てる監督を呼べば良かったのに。 >>44
85年から古葉だったら野村ヤクルトみたいにうまく行く可能性あっただけによりによって前年に古葉広島が優勝したのが…(´・ω・`) 近藤は別に悪い監督じゃない
5位か6位が定位置の大洋を4位にしてるしね
古葉の方が大洋の監督としては悪かったよ 1勝2敗の云々は言ってないのかな。
亡くなった時にテレビでも紹介してたけどね。 理想の上司にランクインして「舐めてますね」と怒っていた
優しい顔で交代する投手の足を踏む 大洋では破天荒で八方破れな選手も多く報復を恐れてか?
そういう行為は自粛していたようだね >>49
いつの時代の大洋だよw
関根の頃にはそんな奴いねえよ 報知で関根ヤクルトのヘッドコーチの安藤統男が関根爺についての追悼コメントを載せてたが、この2人、82年の例の横浜球場場審判暴行事件で、お互い対戦チームの監督だったんだな。 こいつを巨人の犬と言えば必死になって噛みつくカミツキ亀みたいな虚カスがいるよな昔から
負け越す年もあったが基本はさんざん貯金させてもらって感謝がないな
特に87、89は酷いの極み サンスポで自伝が連載されてるのを読んでるけど大学時代の話に至っては、この時代の野球選手は救いようのないバカの見本
こういう馬鹿さ加減を自慢する悪い見本として球史に残る存在
プロ野球ニュースに出てきて平気でパ・リーグ見てません宣う姿には呆れたが、まさかここまでとは >>52
大事な場でアイケルバーガーとか出すようなアホはこいつしかいないよな 現役時代は打撃の機械と呼ばれていたらしい。
超投高打低の時代に3割を何回かやってるのはすごい >>59
アイケルバーガーは名前で獲得決めたらしいな。
戦後日本の占領時代、マッカーサーの片腕の将校の名前がアイケルバーガーで、
何か頼りになりそう、みたいなw 適当なところもなかなか良いね。
細かく神経質な人がトップだと下はついていかないし。 「よく、僕が“池山や広沢を育てた”って言われるでしょ? 冗談じゃないよ、監督が選手を育て
るなんておこがましいこと言っちゃいけない。
池山も広沢も、あいつらが勝手に育ったの。オレが情けなく、頼りにならないから、あいつら
が頑張ってくれただけ。本当にいい選手に恵まれただけなんだから
https://number.bunshun.jp/articles/-/843137?page=2 >>61アイケルバーガーがシーズン早々から使い物にならない事が判明した時、関西のスポーツ紙では、(バース氏ヤクルト入団)という飛ばしがあった。ファーストバース、サードパリッシュで夢の布陣と書かれてた。 戦争による甲子園大会中止をまっただ中で体験している(日大三中)貴重なプロ野球人 敗戦当日は鬼怒川温泉で遊んでいた関根さん
(実際は死ににいく前の思い出づくり) >>61
入団に前向きだったノーラン・ライアンの獲得断念で、急遽投手を探したけどロクなのが残っていなかったって事らしい(´・ω・`)
その後、ライアン自らオリックスに売り込み契約寸前まで行ったらしいから、本気で日本に来る気だったんだな。
自身もライアン獲得を進言したという関根さんに依ると、ホーナー入団で野手陣の意識が大きく変わったように、ライアンで
投手陣の意識改革を促したかったそうな。
手法としては、盟友の根本さんがカープ監督時に山内和弘を獲得したり、ライオンズでは田淵・山崎を獲得したのと同じだね。 ホークスでは秋山・工藤を獲得したのも追加>根本さん 高木豊チャンネルで関根潤三の話して欲しいのに
全然される気配がないぞい(´・ω・`) >>38
伊東を規定投球回数未満の最多勝投手にしてしまった野球界にとっての大罪人 関根さんはひょうひょうとした口調で、こんなことを語った。
「三振? だってしょうがないじゃない、三振するんだから。それを怒ったってし
ょうがないからね。もちろん、“ちょっと三振が多いなぁ。どうすっかなぁ”ってこ
とは考えたよ。だけど、すぐにうまくなるもんじゃないからね」
後に池山本人にも当時のことを尋ねたが、「関根さんには何も言われず、本当に
自由に打たせてもらった」と語っていた。このときに小さく矯正されることがなか
ったからこそ、池山は球界を代表するスター選手となったのだ。
https://number.bunshun.jp/articles/-/843907 ヤクルトの池山隆寛2軍監督は「三振しても下を向いて帰ってくるな」との言葉が忘れ
られない。「ブンブン丸」と呼ばれた豪快な打撃の土台が築かれ、88年から5年連続で
30本塁打以上。「若い頃に我慢して使ってくれた監督」と振り返った。
広沢克実さんは87年のキャンプで「全試合に出ろ」と言われた。紅白戦さえ休みがな
く、公式戦の移動日も猛練習を課された。「三振は不名誉じゃない。思い切り3回振って
こい」と助言を受け、翌年に自己最多の30本塁打。「野球の楽しさを教わった」と感謝
した。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020040901204&g=spo 球界の好々爺 関根潤三さんの思い出を高木豊と苫篠が語る | ベースボールスポット
https://baseballspot.net/archives/12832/ 転機となったのは、1982年の関根潤三監督の就任だった。「それまでと違い、バッ
ティングの基本通り、きれいなレベルスイングを教えていただきました。遠征先の宿舎
で監督室に呼ばれ、素振りを見てもらったこともあります」。左打ちもメキメキ上達
し、84年には規定打席数を満たした上で打率.305をマークした。
その関根氏が今年4月9日、老衰のため死去した。「僕は関根さんに育ててもらいまし
た。大恩人です。お葬式には何を置いても行きたかったのに、コロナ禍でかなわなかっ
た。残念でなりません」と落胆を隠せない。
https://news-watch.info/archives/20591 一茂をものにしつつあったよな
あと2年見てみたかった ミスターは努力を人に見せなかった!長嶋一茂が明かした父の「真の姿」とは? | アサ芸プラス
https://www.asagei.com/excerpt/157169 関根潤三さんがお亡くなりになった。93歳。巨人には近鉄から移籍して来た1965年の1年間
だけ在籍した。関根さんは代打が多かったけど時に左翼を守り、私が中堅なんてことがあった。
キャンプ中、同部屋だった。驚いたことに関根さんがバットを振ったのを一度も見たことが
ない。バットを持つのだが、ボールがス―ッと軌道を描くのをイメージしてバックスイングを
取り、ステップする。これだけだった。
タイミングを重視していた。「バットは自然に振れるから振る必要はない」と話していた。
投手で65勝、打者として1137安打を放っている。天才型のタイプだった。
75年に長嶋(茂雄)さんに請われてヘッドコーチに就任した。この年は最下位に沈み、責任
を取る形でヘッドを辞任した。
実に温厚な方だった。ご冥福を心からお祈りいたします。
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/04201701/?all=1 記憶がおぼろげだけど、
多分1988年(もしかしたら1989年)シーズン後の週刊ベースボールの
各球団の成績を振り返るコーナーでのヤクルトの項。
ルーキー年から100三振が続いている事を(記者から)問われた広澤選手のコメント
「でも池山が追って来ている。アイツは怖い存在だよ」
これに対し関根監督
「花束がなかったね」 来年はショウアップナイター55周年。
存命でいて欲しかった・・・ 今年はノムさん関根さんと相次いで亡くなった年だった
芸能界の大御所も何人も亡くなるしコロナだし暗い1年だった 関根さんの現役時代は結構勝負強かった記憶がある
さすがに巨人時代しか見たことないけどね 自分も近鉄時代は見たことがない
巨人時代は代打が多かったかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています