〓西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター〓Vol.27〓
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>>284
名門球団で名選手大監督に間違いないだろうな
人間性はクズ、軍隊時代の話、湯口事件のパワハラと捨て台詞を吐いたクソ野郎。 >>285
あと1001も美化されすぎて、暴力パワハラ野郎。
有能監督でも、人間性はクソ。俺は嫌いだな。
川上、星野は。 >>285 巨人の星を含め、マスコミが作り上げた虚像
淡口を評し「この子は親孝行なんですよ」そんな奴、5万といる
>>286 自分は殴られたことあまりないくせに人を殴る。
動機は頭に来ただけとか、気に食わないとか。後で、お金か物あげれば何とかなると思っている。落合はそれを見抜き、見限った。 川上野球の模範は大リーグ
強化のポイントを明文化している大リーグは第三者に説明しやすい利点がある
川上門下生から指導者が多く生まれたのはこのためだろう
但し成功したのは広岡、森ぐらいだが 藤本定義、三原、水原がいろんなチームの監督をしたように、川上もパリーグの弱いチームの
監督もしてほしかった。
太平洋の監督になって、ドジャース野球を導入するのを見たかった。 >> 289 一応、藤田(本当は水原なんだろうけど)
広岡は少し違う。反牧野だったし、川上の精神論信者ではない。
基本の反復練習と頭をつかう細かい野球。
ブレイザーに教えを請うたり、自腹でアメリカに行き体得したもの。
巨人愛、早稲田愛、広島魂が強く、思想として人に媚びたりはしない。だから上とぶつかる。
ただ、毒舌な割には、黒江とか面倒見たり、早稲田後輩の江尻、近藤昭、八木沢などコーチを紹介している。 >>275
水原も勝負師だったが、野球の面ではそれほど無茶なマネはしなかった
土橋は、水原のオヤジにもっと資金面で厚遇してあげれば優勝は1度きりで終わらなかった、と証言している
三原は近鉄時代でもう評価はジリ貧だった 当時の選手間の人気は水原がダントツで、やはり、巨人で第二期黄金時代(11年で8回優勝)はインパクトが強い。
スマートな野球で、姑息な手は使わなかった。
甲子園優勝、六大学のスター、巨人での人気など、すべて三原を上回ってた。
水原が意識していたというより、同郷で2歳下の三原が何故か異常に水原に対して執着していたのではないか。 監督退任時の年齢は水原、三原が62歳、川上は54歳か
川上にはその後、具体的なオファーとかなかったのかな?
それとも本人が巨人以外でやりたくなかったのか、
指導者としての経歴を(数字的に)汚したくなかったのか
しかし退任時やNHK野球教室の川上ってお爺ちゃんに見えたけどまだ50代だったんだなw >>245
最初は日拓と日本ハムとの間で土橋監督続投の約束をしていた様だけど、
結局中西就任に切り替えたのはそういう理由だったのかな? 最後には川上と袂を分かった広岡だが、大いにその薫陶を受けている
それは反復練習、私生活への干渉、必勝法、必敗法の訓示などに見受けられる 川上と広岡が険悪になった根本には現役時代に
広岡が「プロだったらその位は捕ってくださいよ!」
「あんな酷いファースト(守備が下手)で野球ができるか!」と
怒った事がある その上、打撃練習でほとんど時間を取っていたのは川上。
現役時代は打つことしか考えていない。
もっとも、別所も登板数しか考えてなかったらしいが…
門限もそんなに厳しくなく、ベテランには甘かった。
むしろ、当時秋季キャンプとかなかった時代に、練習とか、食事制限とかは広岡が先駆け。今では当たり前だが。
プロなんだから、走攻守、3拍子に一応こだわるのも、広岡イズム。
一応と言ったのは、ベテランには職務上厳しく接してたが、崖の下までは落としていない。大杉、田淵、太田など。 >>295
親会社やチーム名が変わるとはいえ、実質2分の1シーズンで更迭された土橋監督は気の毒でしたな 最初は土橋続投が既定路線でも、結局三原社長が、東映色(水原色と言うべきか)の払拭を重視したんでしょうね 土橋はフジテレビ・ニッポン放送が解説者として拾ったけど、
その縁なのかフジテレビがたまに土日に日本ハム戦を79年頃まで中継していた。
ヤクルトのコーチ就任もフジテレビと球団の関係かな?
ヤクルトでは武上監督が休養して2度目のコーチだった中西が代行もまたまた休養、
土橋が代行の代行として指揮を執ってそのまま正式監督だが、
日本ハムの時とは逆に土橋が中西の後任に。 大洋時代の教え子土井淳は「三原さんの言うとおりにすれば勝てた」と述懐している
三原野球は選手に魔法をかけるマニュアルのない野球 だからだれにも真似できないのだと思う 広岡監督も「広岡さんの言う通りにしたら、できるようになった」「故障が治った」という
話をよく聞く。ただ、三原と違うのは魔法ではなく、理論や科学に基づいていたところか
どちらも卓越した頭脳を持っていたので池沼と呼ばれた 真弓は太平洋を首になっていたら野村南海や上田阪急が拾ったかもしれないな 前から気になってたけどダイエー中日の日本シリーズ、始球式、ゲスト解説が
名古屋中日側が杉下、福岡ダイエーが中西太。
まるでダイエーの前身が西鉄?おかしいだろ?
ダイエー側が広瀬、杉浦、皆川となら分かるが。 南海OBたちは「ホークスは南海の後継球団」と声を張り上げるべきだな 福岡ドームの若者はタマに南海帽子被ってるから嬉しいわ。売り場に南海グッズ売ってるやろな。
西武ドームで西鉄グッズ売ってるし似てる。
腹立つんわ、西鉄残党のファンが強い西武応援してて弱いダイエー見向きもせずに、
西武の主力が移籍してダイエー強くなると、
応援してるの腹立つよな。そう言う奴に限って昔からのホークスファンを名乗るからマジ辞めてほしいわ。南海ファンはもっと怒ってどうぞ。
福岡人の西鉄ファンは西武応援してどうぞ。 >>307
それは「判官贔屓は存在しない」という福岡の県民性を否定することにつながる >>284
パクリだとよw
たまたま当時の巨人が長嶋以外打力あてにならないから(王は一本足になる前)
同じような打高投低のドジャース野球を取り入れただけだ
あとは他のチームに7真似されてばかりじゃねえかwww
川上は2000年頃にインタビューで「今なら全然違う野球をやる」と言ってるよw 果たして、川上に考える頭脳があるのか疑問
牧野あっての川上だったと思うが…
結局、圧倒的な選手獲得力と同一リーグの主力引き抜きでの巨人の采配しか見てないんで、川上の力は測りつらい。
監督引退後、他の球団から引きもなかったので、相対的にもわからない。
藤本、水原、三原、鶴岡のように引手あまたでも無し、巨人以外に影響力も全くなかった。 中日出身で大した選手じゃなく、接点もない牧野を引っ張ってきてるんだから
考える頭脳はあったんじゃないの。 >>310
アホ丸出し。
牧野のあだ名知らんのか?
「茶坊主」
新しい試みは実は全部川上が独創している。
専任バッティング投手導入もキャンプの練習でリラックスさせるため音楽流し台はじめたのも
コーチ任せになったのは軌道に乗ってから。 >>310
アホ丸出し。
牧野のあだ名知らんのか?
「茶坊主」
新しい試みは実は全部川上が独創している。
専任バッティング投手導入もキャンプの練習でリラックスさせるため音楽流し台はじめたのも
コーチ任せになったのは軌道に乗ってから。 >>298
壊れたテープレコーダーか w
広岡スレに帰れウザいんじゃ 今BSで再放送してるムーに時々牧野が出てくるが
選手の実績も監督経験もないのにキー局の看板解説者というのは
当時の巨人人気がいかにすごかったか 川上さんが太平洋の監督になっていたら、牧野さんがヘッドコーチだっただろうな
投手コーチは別所さん、打撃コーチには榎本さんを招聘していたと思う >>316
牧野のヘッドコーチはともかく
川上巨人成立時に投手コーチとなりながらも川上の目に余るほどの出鱈目な投手起用とあからさまなコーチ無視ときて監督の川上と正面衝突し
球団が引き留めるも聞かずシーズン途中で巨人投手コーチを一方的に辞任した別所が
再び川上の下でコーチなんかやらんだろ
フジの解説者時代も川上にはかなり辛辣だったとも聞いたし 川上はレギュラーを獲ったと思われる選手のポジションにも有望な新人を獲得したり、
他球団から力のある選手を補強し、決して選手を安住させなかったようです。
特に森捕手のポジションには、これでもか、というぐらい選手の補強がなされた。
そして森の性格は最悪に… >>319
ライオンズ関連の話をすればもし巨人が狙い通りに
田淵を獲得していたらどんな運命になっていたのだろう
森が手段を選ばずに田淵を潰したのか
森でも天才田淵は潰せなかったのか
38年には慶応大から大橋勲を、40年には市立神港高から吉田孝司を、
42年には槌田、さらに中京商高から矢沢正を、45年には東京六大学の
首位打者、早大・阿野鉱二を…。毎年のように高校、大学の実力派捕手を補強し続けたのだから、
森がぐちるのも無理はない。
だが森は、すべての刺客を蹴散らした。川上哲治が昭和13年から21年間、
王貞治が34年から21年間。「巨人の一塁手はふたりで42年間」とよく言われるが、
どっこい、森だって激務といわれる捕手の座を15年間も独占していたのである。 若菜が以前自著で、もし西部にあのまま残っていたら、
そのままレギュラーを続けたか、広岡さんに嫌われて早々と整理されたか微妙だったと言っていたな。 >>321
讀賣の話はもういいからしつこい野郎だな 川上監督とライオンズといえば黒い霧で投手不足だったライオンズに高橋明を出してくれた事かな
71年、チーム38勝のうち14勝もしてくれて、もしこのシーズン高橋がいなかったら最弱記録でも作ってたかもね
でも翌年、大きく負け越して通算成績も71勝72敗で負け越しちゃった
2006年に64歳で亡くなってるけどライオンズへの移籍についてとか色々話聞いてみたかったな 高橋明は移籍2年目の不振で叩かれてやる気を失い引退を選ぶ 西武の堤が
かつて5度リーグ優勝 3度日本一の名門球団っていうこと認識して球団買収したんかな?
まぁ、堤の頭の中は八百長球団のイメージしか
無いよな、明らかに福岡色を消してるし。
福岡色消した割には名称はライオンズ残したのは凄いけど、何がしたいのかが分からない。
パの老舗ブレーブスの名称すぐに消したのに。 名前を消した日ハム、オリと、名前を残した西武、ダイエー→ソフバンを比べると後者の方が正しかったと言わざるを得ないけどな。
一旦、アトムズと改名したが事情によりスワローズに戻したヤクルトも含めて。 捕鯨禁止の風潮からホエールズからベイスターズに改名したマルハも追加。 >>329
堤は元々はホエールズを買う気だったが頓挫した
それでライオンズを買った
>>327
高橋明と一緒に移った田中章は存命らしい
木更津でもつ焼き屋を営む夫婦、ご主人は元・巨人軍のピッチャー!2人の夫婦愛あふれる姿に感動!
https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/entertainment/entry/2017/014641.html >>329
お前野球のやの字も興味無い堤がそんなマニアックなことに
いちいち口出すと思ってんの?
当時をリアルで知ってる年齢なら相当なバカだな
知らない世代なら知らないだけで済むけど 堤義明については親会社のないライオンズを救ってくれて強豪にしてくれた
これだけで十分立派なオーナーだよ
「福岡色を消した」という人は福岡の行政、財界がライオンズに何をしてくれたのか調べてほしい >>330-331
ニックネームをコロコロ変えて失敗したのはオリックスくらいで
ハムもロッテも横浜もニックネーム変えてからの方が成功してるだろ >>333
アイスホッケーのほうが好きだったみたい 福岡野球は、最後には10億円の負債があり、中村長芳さんにはもうお手上げだった
西武の堤さんが負債を肩代わりの上。、球団も買ってくれたのだから、それだけで十分に有難い
最新式の球場や練習施設も作り、選手の年俸や契約金もびっくりするほど上がった
誰にとってもこれでよかった >>332
田中章に至っては社会人で華々しく活躍して巨人にドラ2で入団、
1年目から一軍で登板機会を得ながら僅か2年でよりによってあの頃の西鉄にトレードとかどんな気持ちだっただろうな
しかし腐らずに数字こそ良くないものの中継ぎとして末期西鉄を支えてくれた
ピークは太平洋時代の73〜74年だね
73年11勝10敗
74年12勝5敗9セーブ >>267
大嘘。
近鉄では結果出してるわ。
創設以来万年Bクラスのチームが優勝争いだぞ?
2年目では最後に阪急との連戦で投手宮本にサヨナラホームラン打たれて負けたが、
あれがなかったら優勝してたわ しかも3年目は「万博優勝」と期待されてたのに、
自分が入る前の八百長事件が蒸し返されて失速。
その後始末を密かにしたから優勝争いできるようになったのに。
近鉄時代は大評価されるべきなんだよ 「優勝」と「優勝争い」は天と地の差
三原マジックの神髄は、
西鉄:3連敗後の4連勝での「日本一」
大洋:6年連続最下位からの「日本一」 >>293
人気?
人気投票でもしたんか?w
水原は凡将。戦力が揃ってる時だけしか勝てない。
中日監督時代は占いスタメン決めてたのは有名な話 近鉄時代の三原は後出しでインセンティブを求めまくったことで
フロントに嫌われてしまった 近鉄監督時代の三原は単身赴任だったが大阪の空気に馴染めなかった模様 >>338
田中は東尾より先に安定した成績を残して稲尾ライオンズの主力だったけど
その割にはあっさり大洋に放出されてすぐ引退したんだよな。
人件費削減の波を食らったのかな >>342
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170609-02
大下剛士
「東映のチームカラーは好きじゃなかった。水原さんが監督をしていたから入ったようなもの。」 >>346
たった1人しかも大下w
それで何のサンプリング調査になるの?
青田も千葉も馬鹿にしてたのに 自分が野球見るのに興味もった時は太平洋だったが、クラウンも含めてなぜか関西のテレビでは、阪急近鉄南海戦の中継で見たことが無いまま身売りした。 >>343
まだフロントぐるみでヤオやってた残り香があったのかな >>343
それよく知ってたな。
この板で珍しく感心したわ 応援団長の川辺さんはご存命だろうか
中内オーナーに稲尾さんに監督をさせてくださいと直談判したらしいけど 筑紫哲也は大の西鉄ライオンズファンと公言していた
「地方が中央を倒す」筑紫好みの球団
もっとも黒い霧に関しては言及を避けていたようだが 筑紫哲也てカープファンじゃなかったっけ?
俺の勘違いか? 最初故郷の大分に近い西鉄だったけど移転したから
次に近い広島に変わったんだよ 西鉄ライオンズは地方(革新)が中央(保守)を倒すイデオロギーがあった
移転とともにライオンズファンをやめたのは左派の人が多いのではないか 確かにアンチ巨人=アンチ中央って意味合いで、西鉄、南海、カープファンな人も見受けられるけどな。
南海なら江田五月の父親の江田五郎元社会党委員長(後に社民連結成時の中核となるも、結党目前に死去)や一時期熱烈なファンだったという大島渚。
カープなら筑紫哲也や久米宏。
それとも違うけど、一貫して熱烈巨人ファンの弟の赤瀬川原平に対して、西鉄→カープというファン遍歴の兄・赤瀬川隼という赤瀬川兄弟も興味深い。 地元が中村を妨害したのは、やはり左派にはイデオロギー的に「岸の秘書」というのが引っ掛かったたり、
福岡の自民党も、派閥抗争の影響で反岸・福田(田中派・大平派など)の連中が多かったのか?
赤瀬川隼は、戦後の引き抜き劇を見てチームよりも選手本位になった事を書いていたな。 ライオンズ所沢移転とともに誕生したのが西鉄ライオンズ研究会
西鉄を隠れ蓑にして西武をたたくこの団体、母体は西鉄応援団東京支部
東京なのに西鉄を応援、福岡から首都圏に移転したとたん球団を叩くなど
反中央を掲げる左寄りの団体だと想定できる そういえば福岡ライオンズ29年間で盗塁王出てないよな。
埼玉移転後秋山がライオンズとして盗塁王とったのが初やね。 西鉄時代、一番打者の高倉がそこそこ走ったが、突出して走れるわけではなかった
主軸の中西、豊田が意外とよく走れたが、やはり突出して走れるわけではない
そこそこ走る選手が複数いたが、広瀬・河野(旭)・バルボンほどの走者はいなかった
昭和40年代になると、福本にかなう走者は当然いない そこは足の南海が居たからね。
阪急は河野・バルボンコンビで対抗し、近鉄には後に三原大洋の一因となる鈴木武が居たけど、三原さんは南海と同じ事やったんじゃ何時まで経っても
追い付けないと長打重視の野球を推進した訳で。 そうして誕生した流線型打線にコテンパンにされた鶴岡は
100万ドルの内野陣の解体に踏み切り身体の大きな選手を中心に獲得
その中で頭角を現した野村を中心とする400フィート打線を形成していったと 60年代後半の貧打線は今見ても本当に酷いな。
東田・竹之内・基らが一本立ちする69年頃からややましになるが他球団と比べると弱いまま 豊田を金銭トレードして、その金で外人を3人雇うという補強をしたのが致命傷になった
日本人の主軸がいなくなり、次第に外人が抜けていくと、まともに打てる打者がいなくなった
ようやく主軸がしっかりしたのは、土井、白、江藤を補強した昭和50年だった スタメンアーカイブ見ると池永の打順が段々上がって終いには6番になってる。
今でも基本、日本は野球の一番上手い子が投手やるのは変わらないし
さらにその中でも際立って身体能力が高かった池永が打てるのは当然とは言え
仮にもプロで飯を食っててそれ以下の野手って… 阪急の梶本は投手で四番を打ったことがあるらしい
バルボンはプロの打線じゃないと嘆いたそうだ、ちなみに西鉄黄金時代 伊藤光四郎や和田がクリーンナップなんて味方投手はやってられないだろな 高倉の放出が決定打かな
高額年俸だからって生え抜きの実力のある人気選手を次から次へと放出してたらそりゃ
人気は無くなるし優勝も出来なくなるよなぁ
もっとも球団は優勝はしなくていいって考えだったんだろうけども 西鉄は貧乏だから放出は免れないけど、
もっと酷いの西武黄金時代の支えた選手殆ど放出の方が鈍いだろ。あの当時の堤全盛期に引き留める金はあるはず、今は別としても。
所沢みたいな田舎アクセス面もやばいけど。 その時にあってもそこから更に減ってくのは誰が見ても明らかだったろ NLマーク組み合わせよく出来てるよな。
一文字だけのNのマーク帽子も好き。 NとLの組み合わせの帽子のデザインといい、西鉄ライオンズ球団歌の2番のソロといい、豊田泰光という人は野球以外でも多才な方でありましたな 球界の外の、小林秀雄や丸谷才一といった文壇の重鎮から愛されたのも分かる感じがします >>349
少ないけど、全くなかったわけではない
1975/08/09(土)
ttp://i.imgur.com/antLmxF.jpg
1975/08/23(土)・24(日)
ttp://i.imgur.com/p4vTWSg.jpg
ttp://i.imgur.com/BkE21fd.jpg
土曜の薄暮ゲームがKTV、日曜のナイターがSUN
1976年04/10(土)
ttp://i.imgur.com/5RYvoVi.jpg
1976/05/02(土)・03(月・祝)
ttp://i.imgur.com/Q3JpHCX.jpg
ttp://i.imgur.com/kGF7DAe.jpg
1976/07/11(日)
ttp://i.imgur.com/XwK356G.jpg
1977/04/10(日)
11時開始のダブルヘッダーをKBS京都−奈良テレビの2局ネットで(画像なし)
1977/04/30(土)
ttp://i.imgur.com/i6XbsHi.jpg
1977/07/30(土)・31(日)
ttp://i.imgur.com/rDbNN2L.jpg
ttp://i.imgur.com/fH2BAS4.jpg
土曜の薄暮ゲームがKTV、日曜の薄暮ゲームがABC、ナイターがKBS
1977/08/21(日)
ナイターをKBSが中継(画像なし)
1977/09/03(土)
ttp://i.imgur.com/UHYxp7w.jpg 1978/04/08(土)
ttp://i.imgur.com/LzgN1uO.jpg
1978/04/15(土)
ttp://i.imgur.com/46kM9gZ.jpg
1978/04/29(土・祝)
ttp://i.imgur.com/rejvfGa.jpg
翌30日のデーゲームはKBS発で奈良・神奈川・千葉のU局にもネット
1978/06/18(日)
11時半開始のダブルヘッダーをKBS京都−奈良テレビの2局ネットで13時から中継(画像なし)
1978/07/01(土)
ttp://i.imgur.com/xoTuTvl.jpg
翌2日のナイターはKBS発で奈良・神奈川・千葉のU局にもネット
1978/08/26(土)・27(日)
ttp://i.imgur.com/T0m8vY8.jpg
ttp://i.imgur.com/8LBaeF5.jpg
KTVが2日続けて薄暮ゲームを放送、日曜のナイターはSUN(この画像にはなし)
1978/09/09(土)
ttp://i.imgur.com/3AxPUtT.jpg
翌10日のデーゲームはKBS発で神奈川・千葉・群馬のU局にもネット
349氏が見落としてただけで、ライオンズ関係だけ少ないということはない >>378
今よりも関西でのパリーグの放送が多いww [181] mixiユーザー
11月13日 23:50
「神様仏様稲尾様」の名言と「シーズン最多勝利 42勝」「4連投4連勝」の記録は、球界や野球ファンに永遠に語り継がれていくことでしょう。
ご冥福をお祈りいたします。
そして天国からいつまでもホークスを見守っていて下さい。
・稲尾が亡くなったときのMIXIにこんな投稿が載っていた
・「ホークスを見守ってください」の文面に違和感が・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています