【「自己責任」論】平野啓一郎
 「自己責任」という言葉を頻繁に耳にするようになったのは、2000年代の半ばくらいからである。
長引くデフレと新自由主義的経済政策の下、当初は企業に対して「勝ち組」「負け組」と言っていたのが、いつの間にか個人の生活格差にまでそれが及ぶようになり、その後、
「リア充」「非リア充」といった類語も生まれた。この時の「自己責任」論は、どちらかというと、「勝ち組」の擁護に力点が置かれていて、「負け組」とされた社会的弱者は、努力が足りないのだと指弾されていた。
彼らの不幸は、「自業自得」だという、いわば“冷たい消極的否定”だった。

 しかし、昨今は、同じ「自己責任」論もトーンが変わってきている。日本の財政難が危惧され、社会的弱者は、税金を無駄に費やし、「真っ当に」生きている多くの国民に
「迷惑をかけている」という“熱い積極的否定”が目に付くようになった。
ここまで来ると、むしろ全体主義的である。

 生活保護をターゲットに、主に貧困層に向けられていたバッシングは、今や“医療保険を食い物にする
「自己責任」の病人”にまで拡大している。次は一体、誰だろうか?

 財政問題は、大いに議論すべきだが、社会的弱者を、デマとヘイトに塗(まみ)れた暴力的な言葉で袋だたきにするというのは、
今の日本人の精神的荒廃を露呈する醜悪な光景である。

 社会学には、「スティグマ」という用語がある。個人の欠点や障害、犯罪歴、あるいは人種や国籍など、それ自体としては中立的であっても、
他者の反感や差別意識を刺激し、その社会生活を困難にさせる属性の意味である。それはしばしば、
「彼にある他の好ましい属性を無視させる」(アーヴィング・ゴッフマン)ことになる。

 「自己責任」論者は、人間をただ、国家の労働力としか見ない。が、人間は本来、多面的な存在である。
少なくとも、経済学的に見ても、貧困層は限界消費性向の高い消費者でもあり、
彼らに投入された税金は、食費や衣料費、あるいはささやかな趣味のために使用され、社会に必ず還元されるのである。
<中略>
 アマルティア・センは、「単一基準のアイデンティティーという幻想は、対立を画策する者の暴力的な目的に見合うものであり、
殺害や殺戮(さつりく)を指揮する者によって巧みに醸成され、助長されるものだ。」と批判する。
他者の違いを恣意(しい)的にスティグマ化して、「彼にある他の好ましい属性を無視」し、
社会の対立を扇動する邪(よこしま)な言動は断固として拒絶すべきである。
社会の多様性の基礎は、個々人の多様性に他ならない。

http://www.nishinippon.co.jp/sp/nnp/teiron/article/284107