ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつの間にか例の松の真下に来ているのさ」
「例の松た、何だい」と主人が断句を投げ入れる。
「首懸の松さ」と迷亭は領を縮める。
「首懸の松は鴻の台でしょう」寒月が波紋をひろげる。
「鴻の台のは鐘懸の松で、土手三番町のは首懸の松さ。
なぜこう云う名が付いたかと云うと、
昔しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊りたくなる。
土手の上に松は何十本となくあるが、
そら首縊りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。
年に二三返はきっとぶら下がっている。
どうしても他の松では死ぬ気にならん。
見ると、うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。
ああ好い枝振りだ。あのままにしておくのは惜しいものだ。
どうかしてあすこの所へ人間を下げて見たい、
誰か来ないかしらと、四辺を見渡すと生憎誰も来ない。
仕方がない、自分で下がろうか知らん。
いやいや自分が下がっては命がない、危ないからよそう。
しかし昔の希臘人は宴会の席で首縊りの真似をして余興を添えたと云う話しがある。
一人が台の上へ登って縄の結び目へ首を入れる途端に他のものが台を蹴返す。
首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛び下りるという趣向である。
果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん、
僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に撓る。
撓り按排が実に美的である。
首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。
是非やる事にしようと思ったが…
夏目漱石『吾輩は猫である』

ちはやふる 神代も聞かず 竜田川 唐紅に 首くくるとは