福島を見つめる
避難指示解除半年
人戻らぬマチ 牛と共に
 東京電力福島第1原発事故に伴う避難指示が、福島県内4町村(浪江町、富岡町、川俣町、飯館村)で今春に解除されてから半年が過ぎた。
しかし、放射性物質への不安などから、若い世代を中心に帰還を見合わせる住民が多い。
特に原発から近い富岡町と浪江町は帰還率が2%前後にとどまっている。
両町でそれぞれ「人間の都合で生き物を見捨てられない」との思いから原発事故後も避難せず、
牛を育てながら住み続ける2人の町民に、避難指示解除後の様子や町の将来について話を聞きに行った。

残された命を生かす 富岡の松村さん
 福島第1原発からわずか12`の富岡町。
谷間に広がる牧場で松村直登さん(58)は、艶やかな毛並みの牛たちに牧草を与えていた。
 といっても、原発事故前は鉄筋工で畜産は素人。
住民の避難後、牛が殺処分される現場に偶然出くわし、残って飼育する決意をした。
東電からの月々の賠償金と国や福島県から請け負う草刈り、耕運などの農地保全作業で生計を立て、
餌の牧草を支援者から無償で提供してもらったり、運搬費用をカンパで賄ったりして何とか牧場を続けてきた。
 今年4月1日に避難指示が解除されて半年。
「ほとんど住民は帰ってきてないな。最初はみんな帰ると言っていたけど、家の解体を始めた。町との関わりをなくそうとしているんじゃないか」と心配する。
 避難指示解除後に合わせ、町内に複合商業施設がオープン。
コンビニやガソリンスタンドも営業を再開し、診療所も診察を開始。
国などは生活環境を整備して、住民の帰還に備えた。
 しかし、松村さんの自宅周辺に変化はほとんど見られない。
近所の家の庭は雑草が伸び放題。
すれ違うのは除染や廃炉の関係車両ばかりで、町民の姿はほとんど見かけない。
家が1軒だけ新築されたが、避難先からときどき訪れるだけだという。
10月1日現在で富岡町に居住する住民は304人で、住民登録人口の2.2%にとどまる。
 こうした現状に、松村さんは諦めに似た感情を抱く。
「年金で食べていける高齢者は問題ないが、仕事もないのに、若い世代がわざわざここで生活しようとは考えない。
だから、われわれの代で町は一度途絶えるわけだ」。
一方で廃炉関係の仕事は豊富にあり、作業員たちが町の担い手になる可能性もあるとみている。
 2011年3月。
立て続けに原発が爆発し富岡町にも多量の放射性物質が降り注いだ。
6年にわたり、町内全域が避難指示区域とされた。
まだ原発に近い一部の地域が帰還困難区域だ。
 原発事故時、松村さんは自宅で両親と暮らしていた。
「避難所がいっぱいだった」ため両親は県外に避難。
家にとどまった松村さんが目にしたのが残された牛の餓死だった。
生き残った牛も国が次々と殺処分。
松村さんは飼育は未経験だったが、牛舎から脱出したり知人から託されたりした約50頭を飼い始めた。
「生き物の命は全うさせるべきで、なぜ殺してしまうのかと思った。
家畜として価値がなくなったのなら、放射線の影響を記録し分析するなど、何らかの形で命を生かす方法があった」と憤る。
 松村さんはかつて福島第1、第2原発建設にも携わり、東電は「放射性物質は外部に漏れない」「事故はあり得ない」と建設現場で繰り返していたという。
その東電が柏崎刈羽原発(新潟県)再稼動手続きを進めている。
「福島の事故が収束していないのに再稼動を目指すのはおかしい。柏崎刈羽で何か起きたらどうするんだ」と語気を強めた。