君山狩野直喜が 昭和天皇に対して儒学について御進講をしている。御進講は合計4回行われたが、そのうちの「古昔支那に於ける儒学の政治に関する理想」と
「我国に於ける儒学の変遷」の中で狩野は儒学の夷狄観について論じている。そこで興味深い指摘がなされていた。

狩野は1868年(明治元年)肥後熊本に生まれ、東京帝国大学文科大学漢学科を卒業。中国に留学しその間に義和団事変に際会する。帰国後草創間もない京都帝国大学文科大学教授に就任、
敦煌古書調査や欧州への留学もし、東洋学・中国学における京都学派の中心となる。定年退官後は東方文化学院京都研究所長。文化勲章受賞。1947年(昭和22年)に没している。

御進講が行われたのは大正末年から昭和の初めにかけて、狩野の京都帝国大学退官の前後のことである。そこで狩野は孔子の手が入っているという『春秋』を引いて、
儒学の夷狄についての考え方を説明する。天下の内には中華と夷狄があり、夷狄とは古代中国で中華に対して四方に居住していた異民族に対する総称でありかつ蔑称である。
細分すれば東夷、北狄、南蛮、西戎となる。一面では華が漢人種、夷は非漢人種ということになる