また根来衆については1571年に同地を訪問したカブラル師の書簡が別途ありそこでは↓。


根来衆は2つに分かれ、ひとつは「宗教上の管理権を有する完全な修道者」、もうひとつが「マルタ騎士団のようにただ戦争の
ことだけに従事し非常に好戦的で従軍して俸給を受ける。おとな乙名という最年長者十名が居て根来を支配している。婦女子は
根来に入れず女を嫌うこと甚だしく女を知っていると乙名になれない。彼らは剃髪しない。鐘をひとつ撞くだけで3里(レーグア)
範囲から2万5千ないし3万人の戦士が3,4時間で集まる。女がいないので子供は出来ず周辺の地から少年を選んで養子と
する。さらに真実を言うと男妾とし死後相続者とする」

4)雑賀:富裕な農民たち、だが軍事教練においては根来衆と同じく武勇好戦的。僧籍はないが一向衆で石山本願寺に忠誠、
信長と対抗したとき石山本願寺には常時7〜8000の雑賀の兵が居た、自前で衣食をまかない海陸の戦いで武器弾薬を補給した。

要衝雑賀は難攻不落だった、二方面は海、残りは紀ノ川と高い山脈に挟まれ、出入り口は一箇所、信長は最初十万、二度目は
7万の兵で攻撃したが失敗。石山本願寺明け渡しの後は顕如とその一族と財産は雑賀に根拠地を移していた。

5)このほか最北部に槇尾:最盛時には坊舎800、寺領3万5千石といわれたが、これは1581年信長が堂塔伽藍寺庵僧坊
経巻一字も残さず焼き払って、すでに存在しない。