一大軍事城塞の寺院・根来寺
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この時代の宗教はどこも「武装」していましたが、例えば本願寺の軍事力の実態はというと信徒たちの義勇軍というのが
正解であり、本願寺が「固有の武力」は極めて少数でした。

延暦寺などの「僧兵」にしてもそれはあくまでも「寺院の自衛(という建前)」から作られた側面がありますが、これに対して
根来寺は特に自派の宗旨とは無縁な中央との合従連衡で傭兵活動を行っていた事 そして根来寺自体が城塞そのもの

○鉄砲を本州にもたらす
根来寺は、平安時代後期に真言宗に新義を問えなえた覚鑁が高野山で建立した伝法院から起こり、その後高野山から
分離・独立して、新義真言宗の本山として開山したのが始まりです。

中世以降、隆盛をきわめ、戦国時代には紀州・和泉・河内三カ国に50万石とも70万石とも称する大諸侯でもありました。
根来寺の構成員は主に二つに属しており、

  「学侶」  教義や儀式を司る僧侶
  「行人」  堂塔の管理や寺院防衛の為の僧兵

前者が一般的に言うところの「聖職者」であり、後者が人数比率で言えば多数派でした。彼らはそれぞれ「杉の坊」
「泉識坊」「岩室坊」をはじめとする多数の子院を構成して、「根来寺衆」という軍事組織を形成していました。

一般的に伝えられる「鉄砲伝来」における鉄砲伝播では、紀州根来寺の杉の坊が津田監物を種子島に派遣して、
1挺を譲り受けたことになっています。それにしても根来寺が何故これほど早く鉄砲に関する情報を入手していち
早く入手したか、という疑問が生じますが、これは紀州の地勢にも関係しているようです。紀州はその地勢から
いっても水運による漁業や交易活動が盛んで、そこから海外交易の窓口にもなっていました。そういった海外交易に
従事していた者たちを通して、既に銃器の存在とその情報を入手しえたからこそなしていたかもしれません。

やがてこれにより根来寺は一大鉄砲保有集団として、中央(当時の畿内)で大きな存在でした。ルイス・フロイスは

「日本の諸侯(大名)が都付近において戦うときには、この坊主等(根来衆)を雇用する。彼らは甚だ戦争に巧みで、
常に練習し、火縄銃及び弓矢に達している」(『イエズス会日本年報』)