「保守」そのものが「知的謙虚さ」とは対極に位置するものだと思う。
論理や科学的根拠ではなく、「今までこうだったから」という理由だけで、ある政策や組織に高い位置付けを与えるのが保守の連中だからね。
保守的な人は、「変化」には大きな代償が伴うと考えがちで、たとえ合理的な反論があっても必要以上に懐疑的になる。
知性的な人はエゴに縛られない。
自分の間違いを認め、考えを改めれなければ、そもそも知的に成長することは不可能だもの。

勘違いする人がいるといけないからいっておくと、記事の主張は…
1.右翼権威主義者は宗教信仰が深い傾向にある
2.右翼権威主義者は知的謙虚さが低い傾向にある
であって、
3.宗教信仰が深い人は知的謙虚さが低い傾向にある
では無いよ。
あくまで、宗教と政治が結びついた場合にのみ、知的謙虚さとの相関が見られるということ。

「宗教心が深い」といっても色んな形がある。
たとえば、信仰心が厚い人が、必ずしも個人の行動の善悪を神の意思で判断する訳ではない。
でも、宗教心が深い人たちの中のある集団、この研究によれば「政治的保守派」、に焦点を当てれば、特定の傾向が見られるってことだね。

この考え方には賛成だ。
自分は無神論者だが、全ての宗教が神の意思に善悪を委ねるわけではない。
この研究で対象になった「信心深い」人たちは、委ねてそうだけどね。

権威主義的な性格は「宗教的原理主義」と相関している、という論文記事を読んだことがある。
逆に、伝統的な教義に従うのではなく、自分で求道し問いかけを続けるタイプの宗教者は、無宗教者と比べても、「権威主義的」な傾向が低いそうだ。

そもそも「右翼的権威主義(Right-wing Authoritarianism)の右翼は、政治的右翼のことではなくて、「既存のやり方や権威に従う傾向」のことを指している。
つまり、「右翼的権威主義」な左翼だっているって訳なんだ。
現在では、ほぼ絶滅していて、権威主義=右翼だけど、東ヨーロッパには一部、権威主義的左翼が残っているらしいよ。

「自分と異なる考え方を許容する」というけれど、現実にこうあることは難しい。
新しい考え方や情報だったら喜んで耳を傾けるんだけど、大半の人は古い時代遅れの議論を繰り返すだけ。