昨日、というか昨夜、便意を催してご不浄に行って排泄を行った。
すると素晴らしい糞が出てくれた。

考えてみると、3日木曜日に久しぶりにキチンとご飯を炊いて、十六雑穀を入れて1日で3合食ってた。
(十六雑穀は米を炊くとき、いつも「"やずや"の推奨量の2倍入れている)。

それで「明日(今夜寝て4日のうちに起きてから)またちゃんとご飯を炊いて食べよう」と思った。
土曜日は以前から書いている通り、昼近くに女装趣味を持つ友人が昼飯とお菓子を持って遊びに来るが、特にそちらの食い物を
食べる前に炊いた飯を食い尽くせるだろうから心配も要らないだろう。

しかし1週間って早いな。大学院修士課程(ちなみに修士課程とは「前期博士課程」と同じ意味)の1年目に入ったばかりだが、
だいたいどの授業も(授業は演習形式で学部生が講義を受けるような形ではない)なんて、どの先生のどの授業も「ま、GW明けてから本格的に始めましょう」って感じだ。

んで、GWに何をするのかというと、主に新入生発表会の準備に時間を割いている。
準備といったところで要するに大抵の人は卒業論文を手直しするだけだ。

だから自分は法学部法律学科出身といえどもカント哲学で卒論を書いたわけだから、さしたる困難もない。
でも自分以外の人の中には年によっては他学部出身でしかも卒論なしで卒業してから、私と同じところに入学している人もいる。
そういう人は大変だろうなぁとは思うが私の知ったことではない。

自分もカントの三批判(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)を読み直す暇なんぞないが、少なくとも卒論で引用した箇所や抜き書きしたものを
Wordで打ち直して、発表の際にその場で参照できるように準備するのだ。

他には、法律学科だからカントと言っても宗教論で卒論を書くわけにはいかないから、そこをカントの宗教論を加えて(根っこは同じでも)卒論とはちょいと方向性の違う文章を発表用にこさえるだけの話。
カントの宗教論というとキリスト教神学者だって『単なる理性の限界内における宗教』という論文を思い浮かべることは出来るだろう。
しかし現代カント研究なり、現代カント宗教論なりの世界では、「カントの三批判と併せてカント宗教論である」とみるのが主流である。
少なくとも1985年のG・ピヒトの『カントの宗教論』以降はそういう時代に入っている。

昔(100年前とか)は、カント研究の世界でも真/善/美の(世俗の)三価値をそれぞれ純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判が扱うものと見做されていた。
しかし現代では三批判全部併せてカント哲学であると見るのが普通である。カント研究一つとっても時代とともに熟していくものだ。

何の話をしていたのかな?ああ、良いうんちが出た話だった。
手抜きせずに雑穀米を炊いて食べながら新入生発表会の準備を続けよう。