ルーマニア最後の独裁者ニコラエ・チャウシェスクの支配は、24年におよんだ。
ルーマニア国内には彼が残した孤児院が何百もあり、
1990年になるとそこに推計17万人の乳幼児と未成年者の孤児が収容されていることが明らかになった。
人口増加が国の経済を強化すると信じていたチャウシェスクは避妊と中絶を減らす政策を推進し、
子供のいない家庭に懲罰税を課す一方、子供を10人以上産んだ母親には「英雄の母」の称号を与えて讃えた。
だが、食い扶持はとても稼げない思った親たちは、新しく生まれた赤ん坊を
「チャウシェスクの子供」だとでも言うように、こう吐き捨てた。
「この子は“彼”に育ててもらおう」
望まれずに生まれ、口減らしされた子供たちを収容すべく建てられた孤児院の看板には
「国家は、生みの親以上の手厚い養育ができる」というスローガンが掲げられた。
孤児は3歳になると選別された。
将来の働き手となりうる子供たちには衣服、靴、食品が与えられ、一部は学校で教育を受けた。
反対に「病院の家」の発育不全児たちにはとくに何も与えられない。
ソ連の欠陥学では、乳幼児の障がいは内因性で治療は不可能と見なされていた。
斜視や貧血症、口唇裂といった治療可能な疾患を抱えた子供でさえ、放置された。
1989年にルーマニア革命でチャウシェスク政権が打倒されると、痩せこけ、床に小便を撒き散らし、
糞便のこびりついた正視に耐えない状態に置かれた膨大な数の子供たちが発見された。