不在への態度

たとえば、ぎっしりと未知の文字が書いてある石盤が見つかったとして
それが何を表現しているのか、現代の誰一人分からないとするなら
この文字列は何かを表現していると言えるだろうか

論理の実在を信じるなら
その意味を理解していた古代人がいたかもしれないこと
そのことを理解することは可能である

なぜなら、未知の記号の羅列そのものをいくら調べても、
それに意味があるのかないのかすら分からないが故に
記号の羅列は常に、それに意味があるかもしれない可能性を残してしまう
ゆえに現代の我々が知らない記号を使っていた古代人が存在したことは
まず間違いないこととして承認されることになる

過去に存在したこととして想起される何ものか、何ごとかが、いまここに存在しないことは
その何ものかを虚無として葬り去るための根拠としてははまるで足らないのである
ゆえに「いまここ」に根拠を求める独今論の類は、蛙の独り言にしかならない
「いまここ」は"一般化されない現象”ではあるが、世界の全てではないからである

論理を支える普遍、すなわち常在不変は時空を超えて存在しているようだが
残念ながらそれがどのようであるかについては分かりようがない
よって我々としては、論理学やら言語学やら数学やら物理学やら工学やら
哲学やら、によってそれに近づけるような錯覚を楽しむより外にやれることはない