なぜ、ここまでして隠れなければいけなかったのか。答えは、翌18日の指揮官の動きにある。大阪・野田の電鉄本社で、久万オーナーと会談した。正式には、この時点でノリ獲りの許可を得てはいなかった。

 17日の極秘交渉で感じた手応えを、ぶつけた。ゴーサインを取り付ける前に、自分の眼で、「中村」を見ておきたかった。

総帥を説得するためには、フライング交渉しかなかった。

 ただ結果的には、この苦労は報われなかった。11月21日の『初交渉』。ノリの何気ないひと言で熱は一気に冷めた。

 「巨人は、これだけ出してくれるんです、と言いよったんや。小さな声でな」。本人に他意はなかったかもしれない。

ただ好条件を引き出すための、駆け引きに利用されるニオイを感じた瞬間、身近に感じた「中村」は遠ざかっていった。

 トランクの中で息を潜めたとき、惨めさは感じなかった。それだけに、反動は大きかった。ホレやすい人間だからこそ、ちょっとした違和感に、過敏なまでに反応してしまう。悲しい性だった。

 12月21日の深夜。ノリが近鉄残留を決めた。「縁がなかったということやな」が闘将の第一声だった。前代未聞の『逃走劇』は、指揮官にとって、あまりにもホロ苦い結末となってしまった。

(稲見 誠)