存在価値がない孤男
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人生は死後もなお続くのです。
永遠に続くのです。
その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、
同時に、他人への迷惑も考えずに横柄に生きた人間には、
その悪業の償いをするチャンスが与えられます。 霊の目をもって見る者は、民族・国家・肌の色・宗教の別を超えて見つめ、全人類を一つにつなぐ霊の絆を見て取ります。 地上世界はあまりに長いあいだ教義とドグマ、祭礼と儀式といった宗教の本質とは何の関係もないものにつまずいてきました。
私は、魂をより意義ある生活へ誘ってくれるものでないかぎり、教義とか信条といったものには関心がありません。
日常の行い以外のものには関心を向けません。
根本的に重要なのは、日常生活の生き方だからです。 宗教というと何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ、“聖典”と呼ばれるものを読み上げることと考え、讃美歌をうたい、特別の衣装を着ることだと思うようになりました。
人のために役立つ行為、自分より恵まれない人へ手を差しのべること、弱き者へ力を貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること、こうした行為こそが私たちの説く宗教です。 迷信・偏見・不寛容・頑迷といった低級な性向は、それに反撃し退却せしめるだけの知識がないところでは、傍若無人に振舞います。
ですから、学ぶという態度を忘れて“私はもうここまでで結構です。これ以上は進む気はありません”などと言ってはなりません。
知識は掛け替えのない宝です。 事故にも、それに先立つ何らかの原因があって生じているのです。
原因と結果とを切り離して考えてはなりません。
圧倒的多数の人間の地上生活の寿命は、あらかじめ分かっております。
ということは、予定されている、ないしは運命づけられている、ということです。
同時に、自由意志によってその“死期”を延ばすことができるケースも沢山あります。 スピリチュアリズムの最大の敵は、外部ではなく内部にいる ー
つまり、生半可な知識で全てを悟ったつもりでいる人たちが、最大の障害となっているように見受けられます。 私たちはラベルやタイトル、名称や組織・団体といったものには、あまりこだわりません。
私自身、スピリチュアリストなどと自称する気にはなれません。 人のために役立つことをする ー これが他のすべてのことに優先しなくてはなりません。
大切なのは“自分”ではなく“他人”です。
魂の奥底から他人のために良いことをしてあげたいという願望を抱いている人は、
襲いくる困難がいかに大きく酷しいものであっても、必ずや救いの手が差しのべられます。道は必ず開けます。 人間は組織・団体に属さなくても人のために役立つサービスができるという特典があります。
サービスこそ霊の通貨なのです。
何度も申し上げておりますように、人のために役に立つということは崇高なことです。 成長がもしも努力なしに得られるものだったら、それは神の公正が愚弄されることになります。
罪深き人間が簡単に聖人になれることになります。
それでは公正の原理が存在の意義を失います。
霊的成長はゆっくりと、しかし確実に進行するしかありません。
次の一歩を踏み出すに先立って、今の足場をしっかりと踏み固めないといけません。
成長と発達は無限に続くのですから、焦ることはありません。 そもそもこうして地上に生まれてきたということが、あなたがたがまだまだ完全でないことの証拠です。
欠点に気づいてそれを直し、過ちを犯してそこから教訓を学び、そうやって少しずつ内部の神性を開発していく、
それが、地上生活のそもそもの目的です。
が、それは長い長い時間を要することです。 黄金は地中から掘り出された時から輝いているわけではありません。
打ち砕かれ、精練され、不純物を取り除かれて、ようやく純金の輝きを見せるのです。
立派な人材も、困難との葛藤を経てはじめて本物となるのです。 薬物中毒患者など、いかなる種類のものであれ、安易な手段、手っ取り早い方法で幸せを求めようとする堕落者を扱うのも、私たちの仕事なのです。
幸せに近道はありません。
正しい手段で、しかも努力の積み重ねによって身につけないといけません。
もしも努力も葛藤もなしに得られるものだったら、それは初めから手に入れる価値のないものです。 形式への盲従が度を越しています。因襲を大切にしすぎます。
私にとって宗教はたった一つしかありません。
人のために自分を役立てるということです。 祈りは叶えられるものでしょうか
「叶えられる時もあります。祈りの中身と動機次第です。
人間はとかく、そんな要求を叶えてあげたら本人の進歩の妨げになる、あるいは人生観をぶち壊してしまいかねない祈りをします。
祈るということは、自分自身の波長を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為です。」 人間はロボットではありません。
一定の枠組みの中での自由意志が与えられているのです。
しかし決断は自分で下さなければなりません。
摂理に叶った生き方をしている人は、大自然から、そして宇宙から、良い報いを受けます。 地上の人間は肩書きやラベルや名称を崇めるのがお好きです。
が、クリスチャンを名のろうと無心論者を名のろうと、何の違いもありません。
大切なのは実生活において何をするかです。
仮にここに宗教など自分には無縁だと言う人がいるとしましょう。
神の名を唱えても頭を下げようとしません。
しかし性格は正直で、人のためになることを進んで行い、弱い者に味方し、打ちひしがれた人々の身になって考え、困った人を援助しようと心がけます。
もう一人は見たところ実に信心深い人です。
あらゆる教義、あらゆる教説を受け入れ、信仰上の礼儀作法には口やかましく気を使います。
しかし心の奥に慈悲心は無く、生活の中において何ら人のためになることをしません。
前者の方が後者よりはるかに宗教的人物と言えます。 もう一つ別の摂理をお教えしましょう。
代価を払わずして価値あるものを手に入れることはできないということです。
また、この世的な富を蓄積しているとそれなりの代価を支払わされます。
つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされることになります。 蒔いたタネが実りをもたらすのです。
タネは正直です。
トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。
利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。
罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。
寛容性のない人、かたくなな人、利己的な人は不寛容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。 生活は行為だけで成り立っているのではありません。
口にすること、心に思うことによっても成り立っております。
行為さえ立派であれば良いというものではありません。
むろん行為が一ばん大切です。
しかし口をついて出る言葉、心に思うこともあなたの一部です。 いかなる方法でもよいのです。
相手が誰であってもよいのです。
どこであってもよいのです。
倒れた人に手を貸して起き上がらせ、衰弱した人に力を与え、暗闇に迷う人に光明をもたらし、飢えに苦しむ人に食べものを与え、
寝る場所とて見出せない人に安眠の場を提供してあげるという、その行為が大切です。 人間は戦争が起きると“なぜ神は戦争が起きないようにしてくれないのか”と言って私たちを批難します。
しかし神の摂理をみずから無視しているかぎり、その責任は人間自身にあります。
自分の行為による結果だけは避けようとする、そういうムシのいい考えは許されません。
蒔いたタネは自分で刈り取らねばなりません。
高慢、嫉妬、怨恨、貪欲、悪意、不信、猜疑心
こうしたものが実れば当然のことながら戦争、衝突、なかだかいとなります。
個人であろうと、大勢であろうと、民族全体であろうと
摂理に反したことをすれば必ずそれなりのツケがまわってきます。 もし与えられた寿命をみずからの手で切り上げるようなことをすれば、それに対する代償を支払わされます。
たとえばリンゴを熟さないうちにもぎ取れば、リンゴの美味しさは味わえません。
それと同じで、霊的に熟さないうちに無理やりに次の世界へ行くようなことをすると、永い期間にわたって辛い体験を支払わされることになります。
おまけに、せっかく一緒になりたいと思った愛する人にも会えないことにもなります。
その摂理に背いた行為が一種のミゾをこしらえるからです。 私は時おり多くの人間の祈りに耳を傾けることがあります。
そしていつもこう思うのです。
もしも神がそのすべてを叶えてあげたら、ゆくゆくはあなた方にとって決してうれしくない結果をもたらすであろう、と。 悪も進化の過程の一翼を担っております。
改善と成長 ー 絶え間なく向上せんとする過程の一つなのです。
人間にとって悪に思え苦痛に思えるものも進化の計画に組み込まれた要素なのです。
痛みがなければ健康に注意させる警告がないことになります。
暗闇がなければ光もありません。
悪がなければ善もありません。
地上にもし悪が存在しなければ、何を基準に善を判断するのでしょうか。
改めるべき間違い、闘うべき不正が存在しなければ、人間はどうやって成長するのでしょう。 地上での出来ごとはいつの日か必ず埋め合わせがあります。
いつかはご自分の天秤を手にされてバランスを調節する日がまいります。
自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則からまぬがれることはできません。
罪が軽くて済んでる者がいるようにお考えのようですが、そういうことはありません。 地上に苦難がなければ人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。
痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。 その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、あえて悪い方を選んだ。
自分で選んだのです。
ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。
元に戻す努力をしなくてはいけません。 地上生活が利己的すぎたために死後もあい変わらず物質界につながれている人(地縛霊)がいますが、それは少数派に属します。
大部分の人にとって死は牢からの解放です。
潜在的能力を発揮するチャンス、地上でなし得なかった仕事をするチャンス、かつては考えられなかったほど生気はつらつとした生活ができるチャンスを得ます。
シルバーバーチの霊訓 うまく罪をまぬがれる人は誰一人いません。
摂理は間違いなく働きます。
たとえ地上で結果が出なくても、霊界でかならず出ることを私が断言します。
因果律はいかなる手段をもってしても変えられません。
永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。
原因があればかならず結果が生じます。それから逃れられる人は一人もいません。 どの道をたどるかは問題ではありません。
その人が存在したことによって他の人が霊的な豊かさを得ることができるようにという、誠実な動機をもって生きればそれでよいのです。 世間でいう“成功者”になるかならないかはどうでもよいことです。
この世的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。
大切なのは自分に対して誠実であること、良心の命令に素直に従えることです。
それさえできれば、世間がどう見ようと、自分は自分としての最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。
そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ちうける生活への備えが十分にできているという自信をもって、平然として死を迎えることができます。 子供がなぜ苦しまねばならないのか。
痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。
それもすべて霊の進化という永遠の物語の一部なのです。
その中には地上に誕生してくる前に、みずから覚悟しているものもあるのです。
ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。
つまりは、それが存在の目的なのです。
光の存在に気づくのは暗闇があるからこそです。
暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。
埋め合わせと懲らしめの原理というのがあります。
神は厳正なる審判者です。差し引き勘定がきっちりと合わされます。
どうか同情心はこれからも持ち続けてください。
しかし同時に、気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するようにつとめてください。 自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。
人間が争いを起こすとき、その相手が人間どうしであっても動物であっても、結局は人間自身の進化を遅らせることになるのです。
人間が動物を敵にまわしているうちは自然界に平和は訪れません。
平和は友好と一致と協調の中にこそ生まれます。
それなくしては地上は苦痛の癒える時がなく、人間が無用の干渉を続けるかぎり災害は無くなりません。 「もしも地上生活が初めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それはもはや幸せとは言えません。
幸せがあることがどういうことであるかが分からないからです。
悲しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです」
ー 残念なことなのですが、苦難に遭うと不幸だと思い、邪険になり、卑屈になっていく人が多いようです。
「それは結局のところその人の人生に確固とした土台がないからです。
人生観、物の見方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境でも動じることはないはずです」 指導霊といえども完全ではありません。
誤りを犯すことがあります。絶対に誤りを犯さないのは大霊のみです。
私たちも皆さんと少しも変わらない人間的存在であり、誤りも犯します。
ですから私は、霊の述べたものでも、すぐに鵜呑みにせず、かならず理性によってよく吟味しなさいと申し上げているのです。 ー 死後の世界のレベルについて教えてください。どういう違いがあるのですか。
「善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界に住むことになります」 死んで霊界へ来た人は地上にいた時と少しも変わりません。
肉体を棄てた。ただそれだけのことです。
個性は少しも変わりません。
性格はまったくいっしょです。
習性も特性も性癖も個性も地上時代そのままです。
利己的な人はあい変わらず利己的です。
どん欲な人はあい変わらずどん欲です。
無知な人はあい変わらず無知のままです。
悩みを抱いていた人はあい変わらず悩んでいます。
少なくとも霊的覚醒が起きるまではそうです。 人間はその時どきの自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、
実際には叶えてあげる必要がまったくないものがあります。
いちばん良い導きは本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、
放っておくことである場合がしばしばあるのです。
人間の祈りを聞くことがよくありますが、要望には応えてあげたい気持ちは山々でも、
側に立って見ているしかないことがあります。
時には私の方が耐えきれなくなって何とかしてあげようと行動に移りかけると
“捨ておけ!”という上の界からの声が聞こえることがあります。 一人ひとりが何らかの存在価値をもち、小さすぎて用の無い者というのは一人もいないこと、忘れ去られたりすることは決してないことを忘れないようにしましょう。
そういうことは断じてありません。 たった一人の人の悲しみを慰め、たった一人の人の病気を治し、たった一人の人に真の自我に目覚めさせてあげることができたら、それだけあなたの全人生が無駄でなかったことになります。
シルバーバーチの霊訓 悲しむ人々を慰め、病の人を癒し、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人すべてに手を差しのべてあげることです。
儀式よりも生活の方が大切です。
宗教とは儀式ではありません。
人のために役立つことをすることです。
本末を転倒してはいけません。 宗教には“古い”ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。
その大半が宗教の本質とは何の関係もないものばかりだということです。
私自身としては、幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具はかたづけるものだという考えです。 死ぬということは霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。
何一つ怖がる要素はありません。
死は有り難い解放者です。死が自由をもたらしてくれるのです。
地上では赤ん坊が生まれると喜びます。
ところが、いよいよ地上へ誕生しようとする時こちらでは泣いて別れを惜しむ霊が大勢いるのです。
それと同じく、地上で誰かが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を出迎えて喜んでいる人たちがいます。 あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。
みんな永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。
その巡礼に必要な身支度は理性と常識と知性をもって行わないといけません。
書物からも、伝記からでも学べます。
ですから、他人が良いと言ったから、あるいは聖なる教えだからということではなく、
自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。
それがあなたにとって唯一採用すべき判断基準です。
たとえその後一段と明るい知識に照らし出された時にあっさり打ち棄てられるかも知れなくても、今の時点でこれだと思うものを採用すべきです。 口を開くと大言壮語をする御仁に惑わされてはなりません。
私の説く真理はいたって単純であるがゆえに、誰にでもわかり、誰にでも価値を見出すことができます。
人間のあるがままの姿を何の虚飾もなしに説いているからです。
すなわち神の分霊を宿し、その意味において真実“神の子”であり、永遠にして不変の霊的な絆によって結ばれているという意味において真実“同胞”であり、人類全体が一大霊的家族であり、神の前に平等であるということです。
地上世界は今こそ、そうした単純な真理を見直す必要があります。 こうしてほしい、ああしてほしいといった、ただの要求は祈りではありません。
真実の意味での祈りは大きな霊的活動です。
“何とぞ私を役立たせ給え” ー これ以上の祈りの言葉はありません。
どういうかたちでもよろしい。
摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、お腹をすかしている人に食べるものを与えてあげることでも、あるいは暗い思いに沈んでいる人を明るい気持ちにしてあげることでもよろしい。
つまりは、その人のためになることであれば、どんなことでもよいのです。
自分のことを後回しにしてでも、他人のために役立つことをするすべを身につければ、それだけ内部の霊性が発現することになるのです。
ところが、聖職者たちは教会を建立し、その中で得体の知れない説教をします。
難しい用語を散りばめ、“宗教的”であると信じている儀式をします。
が、そんなことはどうでもよろしい。 私たち霊界の者は肌の色にはまったく関心がありません。
肌の色は肉体だけのもので、魂には色はありません。
黄色の魂、赤色の魂、黒色の魂などというものは存在しません。
魂はその始源においては全てが同等です。 霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまざまな体験を積むということです。
そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。
この地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。
その教訓を学ばずに終われば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。 これまで地上には、あまりに長い間、あまりに多くの宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いてきました。
しかし、その宗教が最も大事にしてきたものは、実質的には何の価値もありません。
過去において流血・虐待・火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義や信条への忠誠心は、人間の霊性を一センチたりとも増していません。
それどころか、いたずらに人類を分裂させ、障壁をこしらえ、無用の対立関係を生みました。
論争のタネともなっています。
分裂と不和を助長することばかりを行ってきました。
主義・主張はどうでもよいのです。
大切なのは、日常の行いです。 ローカルルール(書き込む前に読もう)
・日常を楽しみたいポジティブスレです。
・もちろんコテもおk、というかコテ歓迎。 自由主義リベラル派(ケインズ主義)は、
貧しい人々でも経済的時間的に自由でいられるために、
政府による富の再分配が必要だという考え方。
公営の社会保険や公共事業などへの財政出動をする。これを福祉国家という。 共産主義・社会主義(マルクス主義)は、
計画経済にすることで競争の勝者と敗者を無くし、
平等と労働条件の改善をおこなうという考え方。 新自由主義(ハイエク主義)は、
最小限のことしかしない政府にして
税金を安く済まそうという考え方。 日本国は自由競争の市場経済である。
それは、社会人達が分担して協力してひとつの社会を運営しているのではなく、
自由な自分のアイディアで仕事をいとなみ同じ仕事をしている人とかぶったら
お互いをライバルとして競争をして金儲けをするというルールのことだ。 信頼と安心ベースで築かれる経済的活動という大切な部分がない 例えばプレハブ小屋をリフォームする場合
インターネットで業者を選んでも本当に良い仕事をしてくれるか、自分の趣味を分かって選んでくれるか、ちょっとボッタクリが無いか、評判はサクラでないか。。。。 各集団にそれぞれそういうもののコードがある コードを守ると集団に認められると集団の利益を分け与えられる 司法試験に受かっても弁護士にはなれない 東京弁護士会に認定されなければ 当然コードがあり上納金もある 共同体主義の上級国民とマイルドヤンキー層は幸福な人生
競争資本主義の中間層は孤独で不幸で税負担増
中間層が没落するはずだ 他者との共同生活を可能にするもの、それは愛とか思いやりとか想像力とか包容力とかいう個人レヴェルの資質ではない。そうではなくて、公共的な水準に擬制された制度である。
「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性!これらはなんのために発明され、なんのためにこれほどめんどうなものが創造されたのだろうか。それらは結局《文明》というただ一語につきるのであり、《文明》はキビス(civis)つまり市民という概念のなかに、もともとの意味を明らかにしている。 「共同生活への意志」をもつもの、それが市民であり、オルテガのいう「貴族」である。オルテガによれば、「貴族」の条件は身分でも資産でも教養でも特権でもなく、この「自分と異質な他者と共同体を構成することのできる」能力、対話する力のことである。 これはオルテガイゼットという前述のポルトガル、スペインの共同体主義の理論基板だ
共同体の中で対話し共同体を守り、豊かにする者が文明人であり貴族的人間だという事。
反対は野蛮人。金、趣味に執着し共同体を批判し孤立化する自由主義リベラルのような人間の事を言う 僕も家族や親戚という僕の所属する共同体の幸福のために、
投資や役割を果たすなどをする事はしているが。
キミは何が出来てるの?それとも本を読んだだけですかな? マウントを取ることに興味がないと言いながら
たえずマウントを取ろうとしているよね
別にいいんだけどさ
自覚をしたほうがいいと思うよ 卑賤な野蛮人だ
対話もなく上から小銭を投げてご満悦 得意の後出しジャンケンも痛々しいだけになってきたね 昨日休みだったのでマック行って
単品でハンバーガーとチーズバーガー計250円使いました 共同体主義者のイメージはこのとき決まったんだろう。 資本主義には証券市場が必要であり、
そこで買いたい人に売ったり売りたい人のを買ったりするのは、
需要と供給の経済活動である。
つまり個人投資家は自由主義経済維持に必要不可欠な存在なのだ 個人投資家は仕事を干される事がナイ最強な個人だと言えよう。 成りたいなら個人主義者になれるということ。
仕方なしに共同体主義者になってる不幸者へのメッセージだな。 干されないとはつまり、「言いたいことが言える」という事。 BCLラジオにアマチュア無線用のアンテナを接続。
感度は良好だ。 結論。
自作の直径1メートルのマグネチックループアンテナが1番感度良いは。
次がアマチュア無線用の長さ2メートル弱のロッドアンテナ、
そしてただの電線、
最後にラジオに装着してあるロッドアンテナだな。 アメリカの雇用統計を見るとコロナ禍をキッカケに賃金労働者を引退する
fireになったひとがかなり居るみたいだね。
他の何かで生計を立てるメドが有るし、
世間もそれを認めるんだろうな、アメリカでは。 ネットで漁った知識で粋がってるつもりかも知れ無いけど上っ面だけで全然通じないからもっと頑張って! ん?じゃあキミはネットには出回ってない情報を掴んでるというのか?w
大人のヤミ組織なんかを情報源に持ってるというのか でも最近では、ダークコンドルみたいな「やばい組織」よりも
おとなしい少年のほうがよっぽど怖がられてるみたいだぞ アメリカ人は借金だらけだ。
クレカを5から10枚持っていて、それぞれをリボ払いにしている。
つまり「死ぬまで賃金労働を続ける人生」が確定してる大衆が多数いる。
同じようにしている仲間が大勢居るから借金も当たり前と思ってる。
だけどそう言うのには騙されずこつこつ資産運用してきた賢い少数派が
今、FIREという生き方をするわけだな。
FIREが出来るのは、死ぬまで賃金労働をする道を自ら選んだ馬鹿な大衆がいるおかげ。 リボ払いの月々の借金の返済の額、その大部分が金利である。
そのおカネがFIREがやってる資産運用のインカムになる。
これがthe資本主義の仕組みである。 カネを吸い上げられれば吸い上げられるほど、長く賃金労働に従事するのだ。 昨日は「かつや祭」でロースカツ定食たべた。株主優待券。
今日も クリスマスのイベントを観に行く。立ち見2時間しんどい。
そして晩飯は、2000円のステーキを株主優待券で食べる予定。 確かかつやって今キャンペーンで値下げしてるところだっけ?
行ってみようかな 良いね、自分の意思で運命を変える。
来年きっといい目が出るよ。 定食食べてないよね 格安スーパーのトレイ惣菜を一人寂しく食べてるの有名 90歳まで生活できるメドが立ったからFIREだね。 それは前見た、まぁ空売りはタイミング難しいからな、運だよ。ブラピ出てたの気づかんかった協力者のおっさんブラピだったのか
アマプラでファブルの実写版も見たけどクソだったあれは原作汚しだな
始まりのアクションがもうショボくて半分しか見れなかった そんな逃げてばかりいないで最後ぐらい自分と向き合え
ジョーカーを見て社会のイジメや自分の人生を考えるのが寛容 それはどうかな。
辛気臭い映画をみて解決方法のない社会問題を考えることと、
努力を続けて到達したいと思える未来の目標を考えること。
そのどちらも同じぐらい非現実的でもあるし現実的でもある。
それならば明るい方だけ見ておくほうが賢いと思わない? 金日成の歌とタイガースの歌。
出だしのメロディといい、全体の曲調といい、
そして歌い上げている歌詞内容と良い、ウリふたつ。 外国のプロパガンダは見る分には面白いぞ。
でも自我がヨワイと洗脳されるかもね 僕はチャートが見れる環境さえあれば、どこででも稼ぐことができるよ。
つまり僕は「労働組合」などというのに加わらなくても自力で稼げるのさ。
資本主義という環境に適応した王者ライオンなのだ。
とはいってもけっして汚い稼ぎ方ではないのだよ。
ルールに沿ったテーブルマナーの良い捕食者だな−。
まあキミも僕のような真の成功者を目指すがいいよw 核心つかれて論破されると口数が多くなるのは相変わらず。
社会人を見下さないとアイデンティティを保てない差別主義なのも相変わらず。
それなのに寂しがり屋だから毎日他人との関わりを求めて書き込みする。 自分の時間を、人の不幸を見るために費やしてる奴は馬鹿だと思うよ。
そうではなく、自分の時間は自分の生活の質の向上のためのポジティブな努力に使おう。
そう、僕のように成功者を目指すのであれば。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています