https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88
『失われた時を求めて』は、1912年に第1篇『スワン家のほうへ』の原稿がようやく出来上がり、いくつかの出版社(ファスケル社、オランドルフ社、『新フランス評論』(NRF)のガリマール社)に断られた後、グラッセ社から1913年11月に刊行されて各紙で好評となった[31][35]。特にジッドやシュランベルジェ(フランス語版)ら新進作家を擁していた『新フランス評論』(NRF)では、先の出版拒否に対する強い反省が内部で起こり、1914年にはジッドからプルースト宛てに謝罪の手紙が送られている[35]。

NRFはプルーストに打診して『失われた時を求めて』の第2巻以降を自社ガリマール社で出版することに決め、第1巻の出版権もグラッセ社から買取ることにした[35]。1919年6月に刊行された第2巻目の『花咲く乙女たちのかげに』は、新進作家ロラン・ドルジュレス(フランス語版)の『木の十字架』を押さえてその年のゴンクール賞に輝いた[36]。晩年はジャン・コクトー、ポール・モーラン、ヴァルター・ベリー、フランソワ・モーリヤックなどの若手作家などとも親交を持った[36]。

病弱であったプルーストは日々健康を悪化させていき、全篇の清書を仕上げていた1918年頃から発話障害と一時的な顔面麻痺が時おり起こるようになった[36]。そして1922年11月18日、『失われた時を求めて』第5巻以降の改稿作業の半ばに、喘息の発作と風邪による肺炎併発のため51歳で息を引き取った[33][36][5]。遺体は、両親と同じくパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された[36]。
プルーストは、文学研究家クルティウスなどから「フローラ系の作家」と評され、その作品中で描かれる人物に関するものが植物に喩えられていることが多く、その意味でプルーストの描く男女は生殖器を羞恥心なく晒している花や植物のように、ある意味で同性愛を真には悪徳とは見ていないことが看取されると、サミュエル・ベケットは論じている[32]。