この『慈眼』のおもしろさは納骨堂の話だけではありません。
まずはお笑いから。
『慈眼』の40号は昭和42年、昭和43年、昭和46年となんと三種類ある。
求聞持法を体得したほど頭が良かったはずの桐山さんは、
機関誌の整理さえもできない人だった。
信者さんたちは小さいことと思うだろうが、信者の名簿の管理さえもろくに
できていなかったのですよ。
だから、麻原彰晃が信者だと名乗った時、最初は否定して、後に、名簿が
見つかったなどと言っていた。
教団として本当にみっともない。

1990年代はコンピューターが個人にも普及しており、桐山さんは
それよりも十年も早い1980年代には導入して因縁透視とし称して占いに使っていた。
こういうことをさんざん自慢していた桐山さんは、信者の名簿管理もできなかった。
名簿の管理なんて当時のパソコンでも十分にできた。
信者さんたちは、求聞持脳や仏陀の智慧などと、桐山さんは高度の知性を
持っていたかのように信じているようだが、実際の彼の頭って、
こんな程度だったという現実を良くみることです。
桐山さんが公立の中学校に受験さえもできず、
私立の三流中学を卒業さえもできなかったという現実を見れば、
いかに学校時代の成績が悪かったか、わかります。
家が貧しかったなんて嘘で、小学校卒が普通だった時代に、そんな家庭が
わざわざ私立の中学に通わせるなどありえない。