>>505
私も何度か書いてますが、その「師の一言」で、桐山さんが自分には師がいないから、
古書籍に見る先人の言葉を師の言葉としているという話に、なんて悲しい可哀想な話だと
信者時代からがっかりとして、大いに不満でした。
だからこちらの心の琴線に響くものが何一つない。
どんな些細なことでも実在する師の話を出すからこそ、それは他人の心をも動かします。
禅籍の一見非情とも思われる言葉を出せばカッコいいとでも思ったのでしょうか?
それに文体もやたら気取っている。
俺はいかにも学があるんだ教養があるんだと示したい気持ちがよく見て取れる。
こういうのは難しい表現は必要ないから、さりげない素直な日常言葉を使う方が感銘も与えます。
「師の一言」は1986年ですか。
ならば、この1982年4月の法話にも語られているゴルフのレッスンプロの話を出せばいいのですよ。
高いレッスン料も払ったのだろうが、そんな勝手なゴルフならやめてしまえとまで人前で恥をかかされた。
でもこれまで鼻っ柱の強い自分にとっては、その時は悔しい気持ちはあっても
それが後々まで勉強になったと感謝している。
同時に自分も人を指導する身として、人前で恥をかかせるくらいの叱咤も真の慈悲だなと思った。
だから早速法話でも、頑張っている機関誌の編集者に対しても指摘したものだ。
我流で身につけたものはその倍の時間をかけないと正しくマスターできない。
ゴルフ歴4年なら元に戻すには8年かかる。
それでも指導を受け続け、最近は「ようやくゴルフのゴの字になってきましたね」
と言われて本当に嬉しかった。
師というものは本当にありがたいとこれまで鼻っ柱の強かった自分もしみじみ感じたものだ、とか。
これ本当の話ですよ。
ご存知の通り、桐山さんが話したり書いたりした話なんだから。
この高名なレッスンプロに対して悪く書いたことは一度もなく、本当に信頼していたと思う。
だからそれを書いた方が人の心を動かすのです。
実話の原体験だからこそ説得力がある。
しかし桐山さんはそんな些細な原体験すら気が付くことができなかった。
相変わらず作り話と見栄の虚構の世界でしか価値観を見出だせなかったのは、悲しい話です。他人事ながら。