このスレッドは
仏教について考察するスレッドです
この様に、なぜか禅宗の世界では、仏教と言いながら
歴史上、さまざまな謎の禅僧が、自分勝手な珍説を立てて
コレが仏説である、と経典のソース無しに、意味不明な説教をする
挙句には、その珍説が、釈迦牟尼仏の経文より重宝されている
仏教の名を騙る、ニセモノの外道に等しい…
日蓮聖人が、禅天魔と断じたのは、道理 ご飯、みそ汁、坐禅。
無我の境地で真理と融合。
曹洞宗以外の宗派は浅瀬で水遊びをしているに過ぎない。
本当に真理を獲得するには、坐禅を通して自我を棄(す)てて真理と融合しなければならない。
鶏が先か、卵が先か。
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)或(ある)いはブッダとは悟りを開いた人々の総称に過ぎない。
庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)とは、即今(そっこん)、只今(ただいま)である。
厳然として目の前にある物事を侮(あなど)るな。
物事の本質は1、2、3である。
犬に仏性はあるのか。無。
一切衆生悉有仏性なのに無と答えた。この無とは何か。
無と云(い)う仏性が備わっている。
>>109
無という仏性、とは、何ですか?
意味が、分からない
犬に仏性はあるか無いか、で、無。と答えた
というのであれば、これは、犬には仏性が無い
という意味では、ないのか? >>110
そこが曹洞宗と日蓮宗の見解の隔たりでしょうね。
貴方は貴方の道を行けば宜しいでしょう。
私は純朴(じゅんぼく)に曹洞宗に則(のっと)って、ただひたすら坐禅します。 ご飯、みそ汁、坐禅。
無我の境地で真理と融合。
曹洞宗以外の宗派は浅瀬で水遊びをしているに過ぎない。
本当に真理を獲得するには、坐禅を通して自我を棄(す)てて真理と融合しなければならない。
鶏が先か、卵が先か。
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)或(ある)いはブッダとは悟りを開いた人々の総称に過ぎない。
庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)とは、即今(そっこん)、只今(ただいま)である。
厳然として目の前にある物事を侮(あなど)るな。
物事の本質は1、2、3である。
犬に仏性はあるのか。無。
一切衆生悉有仏性なのに無と答えた。この無とは何か。
仏性が無いと云(い)う仏性が備わっている。
>>112
仏性がないという仏性、というのは
どういう意味ですか?意味不明です… >>113
仏性は有と無を包括していると云うことです。 ご飯、みそ汁、坐禅。
無我の境地で真理と融合。
曹洞宗以外の宗派は浅瀬で水遊びをしているに過ぎない。
本当に真理を獲得するには、坐禅を通して自我を棄(す)てて真理と融合しなければならない。
鶏が先か、卵が先か。
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)或(ある)いはブッダとは悟りを開いた人々の総称に過ぎない。
庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)とは、即今(そっこん)、只今(ただいま)である。
厳然として目の前にある物事を侮(あなど)るな。
物事の本質は1、2、3である。
犬に仏性はあるのか。無。
一切衆生悉有仏性なのに無と答えた。この無とは何か。
仏性が無いと云(い)う仏性が備わっている。
つまり、仏性は有と無を包括していると云うことである。
>>114
犬に仏性は有るか?無いか?の話をしているのに
仏性が、有と無を包括している、と言うなら
話のピントが、ズレている
そもそも、その仏性とは、何を定義するのか?
その包括している有と無は、何の有と無を意味するのか?
犬に仏性があるのか?というのは
犬にも成仏できる可能性はあるのか?という意味で
経文の通りなら、犬も可能
しかし、この禅宗は経文を習い損なっているから
犬は成仏できない、と答えてしまった
なので、屁理屈で、仏性がないという仏性がある
仏性には有無が包括されている、とトンチンカンな説を唱えているだけ
>>117
仏性とは、成仏の可能性を意味する
一切衆生に、その可能性は“有る”
一切衆生悉有仏性なのに無と答えた。この無とは何か。
誤答である。 ご飯、みそ汁、坐禅。
無我の境地で真理と融合。
曹洞宗以外の宗派は浅瀬で水遊びをしているに過ぎない。
本当に真理を獲得するには、坐禅を通して自我を棄(す)てて真理と融合しなければならない。
鶏が先か、卵が先か。
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)或(ある)いはブッダとは悟りを開いた人々の総称に過ぎない。
庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)とは、即今(そっこん)、只今(ただいま)である。
厳然として目の前にある物事を侮(あなど)るな。
物事の本質は1、2、3である。
犬に仏性はあるのか。無。
一切衆生悉有仏性なのに無と答えた。この無とは何か。
仏性が無いと云(い)う仏性が備わっている。
つまり、仏性は有と無を包括していると云うことである。
私達が生きている世界には粛然(しゅくぜん)と差別があるという事実をありのままに観る如実知見(にょじつちけん)という洞察智(どうさっち)が悟(さと)りには必需(ひつじゅ)である。
春色無高下、花枝自短長(しゅんしょくこうげなく、かしおのずからたんちょう)。
柳(やなぎ)は緑、花は紅(くれない)。
ご飯、みそ汁、坐禅。
無我の境地で真理と融合。
曹洞宗以外の宗派は浅瀬で水遊びをしているに過ぎない。
本当に真理を獲得するには、坐禅を通して自我を棄(す)てて真理と融合しなければならない。
鶏が先か、卵が先か。
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)或(ある)いはブッダとは悟りを開いた人々の総称に過ぎない。
庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)とは、即今(そっこん)、只今(ただいま)である。
厳然として目の前にある物事を侮(あなど)るな。
物事の本質は1、2、3である。
犬に仏性はあるのか。無。
一切衆生悉有仏性なのに無と答えた。この無とは何か。
仏性が無いと云(い)う仏性が備わっている。
つまり、仏性は有と無を包括していると云うことである。
私達が生きている世界には粛然(しゅくぜん)と差別が有るという事実をありのままに観る如実知見(にょじつちけん)という洞察智(どうさっち)が悟(さと)りには必需(ひつじゅ)である。
春色無高下、花枝自短長(しゅんしょくこうげなく、かしおのずからたんちょう)。
柳(やなぎ)は緑、花は紅(くれない)。
0123神も仏も名無しさん2024/03/13(水) 01:38:56.06ID:a9Mgp+Ov
そもそもの一切衆生悉有仏性の意味を好き勝手に捉え過ぎなんだよ
山川草木悉皆成仏つうてここの衆生は人間限定の話でもないし
山川草木、一切の動くものに私にとっての仏有り、な感じで読むべき文章だよここは
無量、無数の寿は仏であるということに礼拝する、みたいなもんだ
>>123
仏性は仏に成れる可能性、ではないのか?
そのまま、仏である、とはまた違うような… >>124
全然違います。
そこが日蓮宗の限界です。 0127神も仏も名無しさん2024/03/13(水) 02:21:43.70ID:a9Mgp+Ov
仏性、って言葉が出てくるのはまず大般涅槃経でしょ
大乗経典版の大般涅槃経のハイライトの一つが、臨終の釈迦への純陀による施食は、釈迦が悟りを開く前のいわゆるスジャータからの施食と同等である、と説かれる所。
成道以前の釈迦というのは、仏でなく一般人の修行者ですやろ
悟りを開いてるわけでもない一修行者への施食と、現に覚者の道を何十年も説き終わられた仏陀への施食は同じものである、と涅槃経は説くんすよ
仏の因になるものへの礼拝と仏になられた果への礼拝が同じものである、それを成り立たせているものは何か、それは仏性である。いち修行者、晩年の仏陀、それぞれに仏性を見て、スジャータも純陀も施食を行ったのだと
今後釈迦は入滅するが、如来は常住にして変易すること無し、そして仏性はどこの誰にあるものか、一切衆生は悉有仏性である。ただし唯除一闡提ね、と涅槃経は展開していきます
注意して欲しい点は、涅槃経では仏性はあくまで礼拝讃嘆の対象として示されてるものだということです
禅宗でも見性成仏というでしょ
悉有仏性というのは涅槃経においては我に仏性有りと言うためではなく、悉くに仏性を見出した時のための言葉なんです
諸縁を仏縁である、と礼拝していくのが仏の念、お念仏にあうということの中身ということです
>>127
いや、大乗仏教だと成道前の仏が、一般人、とは解釈しない
仏は、実は生まれる前から仏、と言うのが、涅槃経が
説かれる前の、法華経の重要な主張だった
涅槃経と法華経が、本当に五時八教で内容的に繋がっているなら
時系列的に法華経の後に説かれた涅槃経に、
成道前の仏は、仏ではない、とは書かれているはずがない
スジャータと純陀の布施が、どちらも仏への布施である
という解釈なら同意できるが…
スジャータの布施は、一般人を仏にした布施で因であり
純陀の布施は、仏の果への布施である、という説が本当に成り立つなら
涅槃経は内容的に、法華経と矛盾してることになる
もし、涅槃経単体で、そう言う箇所があるなら教えて欲しい
聞いたことがない 0129神も仏も名無しさん2024/03/13(水) 02:50:45.62ID:a9Mgp+Ov
まあいち修行者は言い過ぎではあるか、成道されることが分かっている菩薩なわけだから
ただの修行者にも布施しろという話にもなりそうだから訂正しよう
ここで言いたかったのは仏因への礼拝と仏果への礼拝が同じであるって話
一切世間の天人、及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏、
釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、
道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり。
然るに善男子、我実に成仏してより已来、
無量無辺百千万億那由佗劫なり。(妙法蓮華経如来寿量品第十六)
仏が、生まれるはるか過去世から、仏であり
30歳で道場に坐して、仏になった様に見せたのは方便である
と宣言しているのは、法華経のこの部分にある
久遠実成という、重要な教義の、ひとつ
なので、この法華経の後に説かれたとされる
涅槃経に、仏が道場に坐して初めて正覚した、と主張してるなら
この重要なカミングアウトが無かったことにされてしまう
>>129
いや、仏はずっと仏だった、と法華経で説かれているのに
その後の涅槃経に、スジャータの施しで
菩薩から仏にランクアップした、と説かれているわけがないと
思うのだけど…
該当の文証が、出せないなら、勝手な妄想だと思うが…
仏が、はるか過去世、産まれる前から仏だった、となると
仏因を、在世のスジャータの布施と解釈するのは無理がある
なぜなら、その時は、すでに仏は仏なのだから
スジャータも純陀も仏果への布施だと言うなら、分かる
もし、大般涅槃経に、本当に、スジャータの布施で
初めて釈迦牟尼仏は菩薩から仏になれた、これは仏因である
という記述があるのなら
これは天台教学、あるいは日蓮教学の基盤としてる
五時八教の重大な矛盾点になる
その涅槃経の直前の
法華経の久遠実成を全否定することになるから
大発見だろう……
まぁ、そんなものは、無いだろうが…… 0134神も仏も名無しさん2024/03/13(水) 03:20:55.50ID:a9Mgp+Ov
釈尊は初期の仏教では成道前の自分のことを語る時、「自分が菩薩だった頃…」と言ってたんよ
むしろそれが菩薩って言葉の始まりで、その前世も菩薩だったとして、のちの修行完成者によりたくさんの前生譚とたくさんの菩薩がまず作られてったわけよね
>>134
とりあえず、涅槃経のどこに、スジャータの布施が
成仏した仏因とあるのか?
仏性、って言葉が出てくるのはまず大般涅槃経でしょ
と、キミは言った
大般涅槃経に出てくる用語は、大般涅槃経の用法で
判断すべき、という姿勢の現れだろう?
なのに、今になって、初期の仏教では…と
ごまかそうとしてないか?
その、初期の仏教、のソースは
おそらく同じ大乗の涅槃経とは、思えない…
現代では、そういう表現を、涅槃経にしないから 0138神も仏も名無しさん2024/03/13(水) 03:36:24.73ID:a9Mgp+Ov
>もし、大般涅槃経に、本当に、スジャータの布施で
>初めて釈迦牟尼仏は菩薩から仏になれた、これは仏因である
という記述が
仏因は成道前の、修行中のゴータマってことだよ
仏果はまさに仏となられ、法を説き終えようとしている涅槃経の釈尊
両者に共通するものは何か。それが仏性ですよ、と説かれてる
という話をしています
>>138
どちらも仏なんだから、仏なのは当たり前だろう
仏性とは、仏以外のものが、仏になる可能性なんだから
涅槃経のどこに、成道前は仏ではない、という記述があるのか? え?仏性って、仏以外の、どんなものにもあるの…?
って驚くのが、大般涅槃経の、説法のキモではないのか…
仏が修行してる時と仏が成道した後の、
どちらにも共通して仏性はあるのです、とか言われても…
いやいや、そりゃ同じ同一人物の仏なんだから
そら、仏には仏性はあるやろ……としか、ならんでしょ
なぜ、覚者である同一人物を軸に、仏性を語るのか…
しかも、涅槃経の説法の中で、仏が在世で修行して
初めて仏になった、という記述があると
法華経の久遠実成と、矛盾する
例えるなら、
本田圭佑には、本田圭佑の性質があるのです
と語っても、そら本田圭佑は、本田圭佑やろ…
当たり前やん……としかならん
全ての生き物には、本田圭佑になれる素質があるのです
と語るなら、はじめて驚く
仏性も、それと同じ
仏因は、スジャータの布施ではなくて
成道前の、ゴータマの修行そのものにあり
スジャータの布施は仏因への礼拝、と主張してるのか
それは、こちらの誤解だった
しかし、成道前もすでに仏は生まれながらにして
仏だった、というのが、涅槃経の前の法華経の主張であるから
修行中の仏と、成道後の仏は、どちらも仏そのもの
ってことになる
すでに仏なら、その修行は、仏因とはならないのではないか
仏になれる因、ってのがどんなものなのか?
ってのが、仏教では、かなり肝になる
その因が分からなければ、やみくもに修行しても
成仏の果は得られない
そして、それが仏教各宗派で行う修行が
まったく、バラバラな理由でもある…
それぞれが、それぞれ全く違う因を、
仏因として、唱えるからだ
少なくとも大乗の法華経や涅槃経では、仏の在世の修行は
因ではない、としているはずだ
仏が仏に成った原因は、遠い過去世の修行にある、とある 0145神も仏も名無しさん2024/03/13(水) 09:50:48.50ID:a9Mgp+Ov
>しかし、成道前もすでに仏は生まれながらにして
>仏だった、というのが、涅槃経の前の法華経の主張であるから
成道、悟りを開く以前の仏が仏だと分かるのは、仏だけだよ
こいつは悟っている、こいつは悟ってない、こいつには仏性がある、こいつには無いと判別する主体存在ってことなんだから
それは仏にしか起こり得ない境地で、自分たちには判別できないことだと思わない?
そこを抑えるなら、人間においてはそれは無分別智という形で表現されるべきものになる
>>145
もちろん、仏しか、成道前の仏がすでに悟りを得た
仏だったかどうか、は本当のところは、分からない
しかし、今話してるのは、成道が方便で、自身が久遠実成していることを、
涅槃経の直前の法華経で、すでに、広く一般に、告白している
という時系列の話をしてる
一度、久遠実成を主張したのに、最期の涅槃経で
やはり、成道ではじめて仏になった、という箇所があるなら
法華経と涅槃経の内容に、整合性がない
そして、君がその箇所を、いつまでも引用できない時点で
これはただの誤解だと、考える 0147神も仏も名無しさん2024/03/13(水) 11:43:56.02ID:hSLkt0bN
禅では悟りにしか到達できず解脱はできないと言います。
そもそも解脱は出家でもしなければ無理だと思いますが、
悟っても無明は相変わらずそのまま残っているわけですから
禅で悟っても死んだらまた輪廻の波にさらわれて
いずれはこの世界に戻ってきてしまうわけですよね?
だったら法然さんの言うように我々庶民はまず
浄土に往くことを目指してその浄土にて修行の残りを完成させて
解脱に至る、というほうが現実的合理的だと思います。
近代の念仏聖者として知る人ぞ知る山崎弁栄上人(1859〜1920)は
現代人により相応しい光明主義という言わば浄土密教を確立しました。
『山崎弁栄 弥陀合一の念仏』(佐々木有一 春秋社)で概要を知れます。
現代人には現代の生活のスタイルに即した仏道というものがあると思います
(弁栄上人の話は単なる一例です、帰依者というわけではありません)
>>147
まず、禅宗の意見は、そもそも、仏教なのか?
それが、仏説という、ソースは?
そして、法然の言う、西方浄土とは、どこにあるのか?
これは、アジアから見て西側のヨーロッパ世界に
死後、転生することを願う宗教ではないのか?
釈迦牟尼仏の説を、全て無視して、念仏することが
仏教と言えるのか?
この世界が、地球の上にあり、常に自転しているなら
西方、というのが、一定の方角を示す為には
地球上の、インドより西側諸国と、解釈するしかない
しかし、この解釈の問題点は、十万億の仏土という、途方もない
距離を隔てたところに、その浄土はある、とされている点
インドとヨーロッパ世界は、そこまで離れていない
この距離感は、おそらく方便の強調ではないか?とは思うが…
現実に、西側世界では、ブッダではなくてヤハウェが信仰されている
だから、阿弥陀仏は、ヤハウェではないか?と、考える 0150神も仏も名無しさん2024/03/13(水) 14:44:56.11ID:fSMAy+/Y
>>148
西方浄土というのは喩えです。
黄金色に輝きながら神々しく沈む夕日、
そこに阿弥陀仏や極楽浄土をシンボライズさせています。
阿弥陀というのは無量光ないしは無量寿のことです。
死後誰もが目の当たりにするトンネルの向こうに待っている眩いばかりの光。
それを阿弥陀如来と擬人化しているわけですね。
臨死体験者がこのプロセスで遭遇するのは
すでに亡くなった親族や信仰している宗教の肇祖・聖人などですが
これらもこの無量光を擬人化してビジョンとして見ています。
この光の導きに乗っかって光と一体化できるかどうかが鍵だと思われます。
この光、無量光とは勿論その人の仏性そのものであり本質です。 0151神も仏も名無しさん2024/03/13(水) 15:02:36.55ID:fSMAy+/Y
>>149
浄土門は仏教に基づいた別の宗教と捉えるほうがいいかもしれませんね。
それはユダヤ教とキリスト教の関係と酷似していると思います。
浄土門=仏教系キリスト教(ネストリウス派)とも言えるかと思います。
上に書いた山崎弁栄上人も常に聖書を鞄の中に携え全国行脚していたそうです。
山崎弁栄上人を慕い信奉している人たちの中には
キリスト教の宣教師も相当数いたと記録に残っています。
我々庶民にとっては仏教哲学の論争やどの宗派の方が優れているか
あるいはどの宗派こそ仏陀の正統な流れを汲んでいるのか
というようなことは正直どうでもいいことです。
そこに実際的な救いがあるのかどうか。
座禅をすれば五蘊皆空なりと照見して本当に一切の苦厄を度したもうのか否か、
そしてそれは果たして永続するのか、それでこの苦界から本当に抜け出せるのか否か。
一方、戒定慧を厳しく実践しながら解脱を目指すことはもとより我々庶民には不可能なのです。
そもそも仏教とはかつては仏道と言われていたものであり
そこに参画する人たちが最終的には仏陀になり一切の苦厄から解放されることを目的とするものです。
そこに至るための地に足のついた現実的な方法論こそが希求されているものと思います。 >>150,151
まあ、西方浄土は、方便というか、なんというか…
そのモデルが、西洋の宗教だった、としても
仏教の本質的な教義は、いずれにしても無いと思う
あなたも言われてるとおり
今や末法では仏教では人々は救われない、だから代替として…と
別の宗教の教主にすがるべきだ、という主張だろう
ゆえに、念仏系が、日本史の中で
仏教界のメジャー勢力である事は
個人的に、とても違和感がある
まあ、仏教には現代人を救済する力がない、とすると
たしかに、仏教についてそもそも考察する意味が
根本的に失われる…
ただ、このスレッドでは、真の仏教には現代にも価値がある
という前提…というか、仮定に立って、その上で
本当の仏教とは、何だったのか?という考察を深めたい
と、考えている >>152
日蓮の立正安国論によると
正しい仏教で、災害や戦争を無くせるらしい…
寄付金は、しょせん不幸が起きた後の、後手後手の
焼け石に水の対処だが、
そもそも、その不幸が起きない様にすることこそが
根本的な、解決方法ではないか?
なぜ、偽善になるのか?とは、思う
もちろん、この立正安国論の論理が虚構で
全く虚しいものなら、偽の善に、なるのだろうが…
一応、仏教を信じる身としては、
この論理は、検証してみる価値はあると、考える 0156神も仏も名無しさん2024/03/15(金) 13:40:53.98ID:EguA5gOb
釈尊が元々言ってたことは十二支縁起に四諦八正道、あとは中道くらいでは?釈迦滅後に部派仏教が改変して、その批判として大乗が説かれ、っていう流れじゃん
0157神も仏も名無しさん2024/03/16(土) 00:51:35.50ID:d3nZWPAB
>>156
釈尊がどこまで言及してたかは永遠の謎だ
十二支縁起に四諦八正道もその原型は語っていたかもしれないが
12や4-8という数字で整理されたのはおそらく後代
釈尊自身は文章を残してないし、弟子たちもしばらく口伝だったから
仏典はすべて後代に成ったと思ってよい
そして現在の仏教はそれら仏典を根拠にしている
しかしその仏典の内容に苦を滅する効果効能があるのであれば
釈尊が真に言及した範囲を限定しなくても仏教は成立する
釈尊が真に言ったことしか仏教としての意味がないと考えるのは
アリストテレスより後の学問や哲学には意味がないと考えるようなものだ