日本もキリスト教を盛んにしようよ。 [無断転載禁止]©2ch.net

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0001神も仏も名無しさん2017/05/10(水) 05:43:20.01ID:92LObK2D
キリスト教濃いめの国が評判良くない?

0641老クリスチャン2018/04/27(金) 12:28:32.28ID:D06xcABM
(つづき)
今日も福音が宣べ伝えられるところには、キリストが共におられて、信じる者たちの間に豊かな実を結ばせてくださいます。
それは神の御業であり、キリストの御業です。
私たちが福音を学ぶとき、今も私たちを “あらゆる言葉、あらゆる知識において豊かにしてくださる”(Iコリ 1:5)のはキリストの恵みです。
神は私たちに “知恵と啓示との霊を与え、心の目を開いてくださる”(エフェ 1:17-18)からです。

その場合に、私たちが忘れてはならないのは、キリストの福音の伝承についての規範的権威は使徒たちにあって、もはや現代の福音宣教者も教師も、「信仰の神的遺産に属するような新しい公の啓示を受けない」(教会憲章 25)ということです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0642マジで怖い基督教2018/04/27(金) 12:42:56.79ID:3Si3jwX/
 
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0643!Σ( ̄□ ̄;)2018/04/27(金) 12:45:00.20ID:3Si3jwX/
 
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0644老クリスチャン2018/04/28(土) 11:45:41.22ID:UjKyhJzE
2012年(主日B年) 5月6日 復活節第5主日
使 9:26〜31  Iヨハ 3:18〜24  ヨハ 15:1〜8

ここで 「わたしの話した言葉」(ヨハ v.3) 「わたしの言葉」(ヨハ v.7)とは、イエスの語られたあの言葉この言葉を指しているのではなくて、原始教会の伝承としての “伝えられた教え”(παράδοσις/Iコリ 11:2、IIテサ 2:15,3:6)のことです。
私たちがミサで、ことばの典礼と感謝の典礼を通してお会いするキリストは、過去の物語りの中の思い出のイエスではなくて、神の右の座に着いておられる天上のキリストであり、
「わたしの話した言葉」(ヨハ v.3) 「わたしの言葉」(ヨハ v.7)は、そのような意味で理解されねばなりません。

「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、 ・・・・・ 」(Iヨハ v.23)

もし人がこれまでその意味を理解することなく、ぼんやりと聞き過ごしていたとしたら、「神の子イエス・キリストの名を信じる」 とは、神がイエスの名において与えた啓示を信じることであり、
すなわち “伝えられた教え”(παράδοσις)を受け入れて救われることであると知っていただきたい。

「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハ 1:12)
「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリ 2:9)

この “伝えられた教え”(παράδοσις)を、共同体の中で皆が固く守ること(IIテサ 2:15、Iコリ 11:2)が、新約聖書が語る 「互いに愛し合うこと」(Iヨハ v.23)、つまり同士的団結であることを理解しようではありませんか。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0645イエスタカスクリニック2018/04/28(土) 12:47:45.56ID:/WFx2ixx
 
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0646神も仏も名無しさん2018/04/29(日) 18:28:36.18ID:RFuEjCxJ
知り合いから教えてもらった副業情報ドットコム
暇な人は見てみるといいかもしれません
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0647老クリスチャン2018/05/03(木) 21:39:49.37ID:8R9xcsvv
2003年(主日B年) 5月25日 復活節第6主日
使 10:34〜48  Iヨハ 4:7〜10  ヨハ 15:9〜17

復活のキリストは福音宣教のために使徒たちを任命して、これを派遣されました。
この使徒たちの宣教によって、原始キリスト教は当時の地中海世界に急速に広がって行きました。
ユダヤ人だけでなく異邦人にも、すべてその宣教によって主イエス・キリストを信じた人々には洗礼が授けられて、共にミサをささげる共同体が各地に育って行きました。

「わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハ v.16)

この用語は、後になって教会が叙階の秘跡と呼ぶものの起源を示しています。
使 20:28 ではエフェソの教会の長老たちの任命に、Iテモ 1:12,2:7、IIテモ 1:11 では使徒パウロが自らの召命に、そして Iコリ 12:28 では教会の中のいろいろな奉仕者たちの選任に、同じ用語が用いられています。

復活の主によるこの使徒たちの任命という特別な恵みと賜物を、使徒後の教会は受け継ぐことを重要と考えて、そこからやがて教会の聖職位階制度が整えられることとなりました。
私たち現代の信者たちも、またミサを司どる司教や司祭も、決して使徒ではありませんが、それにもかかわらず教会は最初の使徒たちに与えられた復活の主からの恵みと賜物を受け継ぐことによって、今日まで同一の教会であり続けて来ました。
ですからどんなに時代が変わっても、教会の土台はいつも同じ使徒たちの宣教した福音であり、教会の頭は復活して天におられる主イエス・キリストなのです。


・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0648復活のキリステ2018/05/04(金) 08:09:08.19ID:ywfnEIYz
 
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0649老クリスチャン2018/05/04(金) 10:13:49.76ID:zXBE9hF1
2009年(主日B年) 5月17日 復活節第6主日
使 10:25-26,34-48  Iヨハ 4:7〜10  ヨハ 15:9〜17

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。 これがわたしの掟である。」(ヨハ v.12)

キリスト教を理解していない人は、「互いに愛し合いなさい」 という素晴らしい教えがもっと強調して語られれば、世界は平和になるであろうと考えたりします。
しかし、それが幻想に過ぎないことを、現代人は過去100年ほどの歴史の体験から学んだのでした。
そのような歴史の教訓に真面目に取り組もうとしない呑気で無知な人々のことを揶揄して、“平和ボケ” などと呼びますが、過去に我が国ではこのボケ病の感染がかなりの高率で蔓延していたことは、周知の事実です。

使徒たちが宣教し、教会が受け継いで来た福音は、その第一の強調点を 「わたしがあなたがたを愛したように」(ヨハ v.12)に置いていることを、キリスト信者は理解しなければなりません。
キリスト教は、神が御子キリストを通して顕された愛を、その宣教の中心に置いて来ました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ 5:8)

0650老クリスチャン2018/05/04(金) 10:14:54.72ID:zXBE9hF1
(つづき)
ですから、キリスト教信仰にとっての欠くべからざる土台は、
「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超える愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる」(エフェ 3:18-19)ことなのです。
この土台を抜きにしては、「わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(Iコリ 15:14)

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハ v.13)

私たちがこの聖句を直ちに御子キリストに結びつけて理解しないなら、 ・・・ これをただの美徳や理想的道徳としてしか理解しないなら ・・・ 、
世界はその “虚無” と “滅びへの隷属” から解放されることを決して望み得ないのです(ロマ 8:20-21 参照)。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0651神も仏も名無しさん2018/05/04(金) 12:47:17.11ID:C+J6g7pR
契約の自由の原則に則りお断りします

0652契約は強制やぞ ごらぁ2018/05/04(金) 19:40:50.60ID:ywfnEIYz
 
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0653あくしろよ2018/05/04(金) 19:41:50.24ID:ywfnEIYz
 
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0654あくしろよ2018/05/04(金) 19:42:57.97ID:ywfnEIYz
 
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0655神も仏も名無しさん2018/05/04(金) 23:55:42.31ID:T+dSuWZZ
> 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハ v.13)
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0656神も仏も名無しさん2018/05/04(金) 23:56:46.85ID:T+dSuWZZ
 
> 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハ v.13)
>
 
        ノ´⌒ヽ,,
    γ⌒´      ヽ,   「命書けますよ」
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0657老クリスチャン2018/05/05(土) 14:42:35.80ID:0uLdfoiP
2012年(主日B年) 5月13日 復活節第6主日
使 10:25-26,34-48  Iヨハ 4:7〜10  ヨハ 15:9〜17

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(Iヨハ v.10)

“使徒たちが伝えたこと”、すなわち教会に託された聖伝と聖書によって、キリストの福音を学ぶことをしなければ、人は神の愛、キリストの愛を知ることも理解することも出来ません。
「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊にしたがつて歩む者は、霊に属することを考える」(ロマ 8:5)からです。

福音を学ぶことをせず、“神は愛” だから “愛は神” なのだと納得してしまうような、そんな安易なキリスト教理解が人々の間に広がっています。
聖書の中のあれこれの言葉の意味を考えるのに、国語辞典や漢和辞典で調べるというようなことが平気で行われたりします。
“聖書を自分でよく読む” “聖書そのものに耳を傾ける” ということが大切なのです。
聖書の中の言葉を、その前後関係から切り離してしまうと、それはもはや “神のことば” ではなくなってしまいます。
国語辞典が説明する “愛” ではなくて、「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25)御子イエス・キリストの“愛” が、ただそれだけが新約聖書では証言されているのです。
「その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」(Iヨハ v.9)

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0658聖書に耳を傾けると紙の音がする2018/05/05(土) 16:03:03.07ID:9EBG2K0M
 
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0660ネットで聖書の学びを読んでも紙はいない2018/05/05(土) 16:05:42.46ID:9EBG2K0M
 
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チロチロ

0661神も仏も名無しさん2018/05/05(土) 18:54:28.50ID:IapVoCnn
教会なんて信者ごとガス爆発して燃えればいいのに

0662老クリスチャン2018/05/08(火) 18:12:09.51ID:PykgrjBv
今年の 「聖書講義」 に、<2018-2> を追加しました。
今回は、ユダヤ教の聖書とキリスト教の旧約聖書の違いについて、基礎的な紹介をしています。
http://www.kuwaei2000.com/Study/2018/2018.html

0663神も仏も名無しさん2018/05/08(火) 21:18:52.22ID:Hypob/6L
>>662
カスタマーレビュー

カスタマートーマス
★★★★★★5つ星のうち6.0 最高傑作

2018年5月8日
キリスト教徒になるためには、大変素晴らしい内容です。
キリスト教に興味がある方、キリスト教徒として幸せな人生をおくりたい方には必読書になります。
絶対オススメです。機会があれば、是非是非ご一読を。


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0664老クリスチャン2018/05/10(木) 11:55:58.71ID:hhpNuoWU
2000年(主日B年) 6月4日 主の昇天
使 1:1〜11  エフェ 4:1〜13  マコ 16:15〜20

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マコ vv.15-16)

このみことばが、再び現代に力を持つようになるためには、天に昇られて神の右に座したもう主イエス・キリストから、聖霊が送られてこなければなりません。
私たちが歩んで来た20世紀のキリスト教は、聖霊の働きの希薄なキリスト教であったということを認めざるをえません。

「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。」(マコ vv.19-20)

これらの聖書のことばが、私たちが体験して来た現実のキリスト教の実感とは、かなりかけ離れていると言わざるを得ないように思うのです。
私たちが毎主日に歌う “栄光の賛歌” の中に、“父の右に座したもう主よ、われらをあわれみたまえ” とあるように、“天に上げられ、神の右の座に着かれた” 復活の主に向かって、私たちは今朝目を上げようではありませんか。

0665老クリスチャン2018/05/10(木) 11:57:05.68ID:hhpNuoWU
(つづき)
使徒言行録を読むと初代教会は、使徒たちおよびその指導のもとに奉仕する多くの働き人たちが、聖霊の力強い導きによってミサをさささげる群を造り上げて行ったものであることが分ります。
彼らがキリストの証人、キリストの福音の宣教者として、短期間のうちの初代教会を造り上げて行ったその原動力は、“天に上げられ、神の右の座に着かれた” 復活の主から送られる聖霊の力でありました。

聖霊は 「父の約束されたもの」(使 v.4)、“父なる神が教会に送ってくださるもの” という表現と並んで、聖書には “主イエス・キリストが父なる神のもとから送る” という記述があります(ヨハ 4:16,15:26,16:7)。
4世紀後半になって確定したニケア・コンスタンチノープル信条は、「聖霊は父と子とともに拝みあがめられ」 と、その神性を明言していますが、6世紀末のトレドー会議はこれに 「聖霊は、父と子から出て」 を加えました。

福音の証言と、それに基づいて教会が造り上げられて行くことは、聖霊の働きによるのだということを、21世紀に向かう教会は再び思い起こさなければなりません。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0666わしが666ゲットじゃーー!2018/05/11(金) 00:02:10.68ID:y26l3+53
 
             ζ
          ,,.-‐''""""'''ー-.、
        ,ィ"          \    やったわしが>>666ゲットじゃ!
         /              `、 小僧ども…わしの部屋に来なさい!
        ,illlllllllllll       老  i
      r'-=ニ;'_ー-、___,,.ィ‐‐-,,_  _|   >>1いたずらばかりしおって!
       | r,i   ~`'ー-l;l : : : `l-r'"メ、  >>3本当にけしからん奴じゃ!
      ヾ、       `ー‐'": i!_,l_ノ` >>4お前も反省しなさい!
       |         ,:(,..、 ;:|/    >>5今日という今日はかんべんならん!
       |        ,,,..lllllll,/     >>6いい気になりおって!
       /  `::;;.   '"`ニ二ソ      >>7このままではろくな人間にならんぞ!
     /7    ゙゙:`-、;:;:;;;:;:;:;;/       >8バッカモーーーーン!
   ,,.ィ"`:、        "/;:`ー-:、.._    >9-1001さよう、母さんのいうとおりじゃ!
 ‐'":;:;:;:;:;:;:;:\   . : :;: .  ;/;:;:;:;:;:;:;:;:;:~`'''ー--:、,,_

0667老クリスチャン2018/05/11(金) 11:57:18.05ID:GEXN52tl
2006年(主日B年)5月28日 主の昇天
使 1:1〜11  エフェ 4:1〜13  マコ 16:15〜20

キリストの体である教会を造り上げていく原動力は、昇天のキリストが私たち一人一人に与えてくださる賜物であることを感謝しましょう(エフェ v.7)。

残念ながら私たちは、神の右の座に着いておられる昇天のキリストから 「もっと大きな賜物を受けるように熱心に努める」(Iコリ 12:31)ことを、久しく忘れて来たのではないでしょうか。
今日西欧と日本のキリスト教の実状は、いわば末期症状にあって、急速に没落に向かっているように見えます。
しかしそれは恐らく、神の右の座に着いておられる昇天のキリストが、重病に倒れて危篤状態にあるからではないでしょう。
そうではなくて私たち教会の側が、イエス・キリストによる “贖いの福音” “罪の赦しの福音” “神の国の福音” に対して盲目になり、聖霊を通して使徒たちの宣教の継続を支え導いてくださる天上のキリストに目を向けることを忘れたからです。

ときには使徒パウロに、「あなたがたのことで途方に暮れている」(ガラ 4:20)と言わせた問題山積の当時の教会に対してさえ、
それにもかかわらず 「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」(Iコリ 1:7)と書き送らせたものは、神の右の座に着いておられる昇天のキリストへのひたすらな信頼でありました。
この使徒たちの宣教に再び教会が目覚め、耳を傾けるようにとの呼びかけを、今朝の朗読配分から聞き取ることが出来る人々は幸いです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0668あなたのことで途方に暮れている2018/05/11(金) 12:02:40.73ID:ez/45qam
 
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チロチロ

0669笑点のキリスト2018/05/11(金) 12:07:18.98ID:ez/45qam
 
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0670老クリスチャン2018/05/12(土) 10:46:50.52ID:bfI75KIr
2012年(主日B年) 5月20日 主の昇天
使 1:1〜11  エフェ 4:1〜13  マコ 16:15〜20

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マコ vv.15-16)

御子イエス・キリストが “ただ一度成し遂げられた永遠の贖い”(ヘブ 7:27,9:12)が、全世界に宣べ伝えられて信じる者すべてに救いをもたらす(ロマ 1:16)というのは、後の時代の人間が考え出した新しい活動ではありません。
そうではなくて、これは 「天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マコ v.19)現在のキリストの御業であるということを、現代のキリスト者は理解しなければなりません。

主の昇天は、決してキリストが “去って行かれた” のではなくて、今や過去の歴史の中に閉じこめられることなく自由に、「至るところで」(マコ v.20)その “秘められた計画”(Iコリ 2:1、エフェ 3:6)を、教会と共にいて(マタ 28:20)お進めになる方、
「今おられ、かつておられ、やがて来られる」(黙 1:4)救い主となられたということです。
ですから今朝の集会祈願で私たちは次のように祈りました。
「主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。 キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください。」

0671老クリスチャン2018/05/12(土) 10:47:55.52ID:bfI75KIr
(つづき)
どうか皆さまが愚かな “ただのカトリックシンパ(護教家)” になることがありませんように。
聖書という昔の書物に書かれたイエスの教えにヒントを得て、現代人の必要に応える独自の福音を追求することが、キリスト教という宗教の使命だと考えている人が多いのです。

古代の信仰定式に、dextra Dei ubique est(神の右の座はどこにでも)というのがあって、昇天のキリストは今や全世界のどこででも支配し、自らその御業を継続しておられると、教会は宣言して来ました。
そしてその御業の中心は、私たちの教会なのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0672さよか2018/05/12(土) 12:29:45.04ID:yRU//6Vk
 
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チロチロ

0673老クリスチャン2018/05/17(木) 11:02:06.53ID:izSNtzjl
2006年(主日B年) 6月4日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11  ガラ 5:16〜25  ヨハ 15:26-27, 16:12-15

「だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが(神の偉大な業を語っているのを)聞いて ・・・・・ 」(使 v.6)

聖霊降臨の主日は、昇天のキリストが聖霊を遣わして、使徒たちをキリストの福音の証人とされたことを記念する祭日です。
使徒言行録は、初代教会が当時のローマ世界に広がって行った記録です。
その中心的主題は “使徒たちによるキリストの福音の宣教” でありますから、現代の私たちもその宣教に耳を傾けることが大切です。

そしてその宣教にはいつも聖霊が共に働いて、人々を悔い改めと罪の赦しの洗礼へと導きました。
注目すべきことは、使徒たちの宣教と、これを有効にする聖霊の働きとの密接な関係です。
ここでも、読者が自分も聖霊を受けて使徒と同じになれると錯覚したり、自分も小さなキリストになれると勘違いすることがあってはなりません。

原理主義的な傾向の人々が、そのような思い上がりと傲慢による熱狂によって、現代キリスト教の中の侮りがたい勢力となっていることは事実です。
しかし福音の宣教は、人間の熱狂によってではなくて、使徒たちの証言と共に働いてくださる聖霊の御業によってだけ、人々に罪の赦しと永遠の命を与えることを理解しましょう。
聖霊降臨の主日が、復活節の最後を締めくくる祭日として典礼暦の中に置かれていることには、とても大きな意味があるのですから。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0674神も仏も名無しさん2018/05/17(木) 11:16:19.86ID:yMp8hOeE
【Jew、Jap、は靴を脱ぐ】 天皇Wお持ち帰り″計画  <アミシャーブ>  皇室Wエフライム族″疑惑
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1526522034/l50

0675傲饅 ウマイ チロチロ2018/05/17(木) 18:52:50.36ID:FbPD8PuB
 
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チロチロ

0676老クリスチャン2018/05/18(金) 12:37:30.41ID:/ET+daGJ
2012年(主日B年) 5月27日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11  ガラ 5:16〜25  ヨハ 15:26-27, 16:12-15

「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊” が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。 ・・・・・ 人々は驚き怪しんで言った。 ・・・・・ 彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使 vv.4,7,11)

カトリック教会のカテキズムは、その第2編の第1部を “秘跡による救いの営み” という表題で、次のように書き始めています。
「聖霊降臨の日、聖霊を注がれた教会は世に姿を現しました。 聖霊が与えられたことで、『神秘の分配』 の新しい時代が始まります。 それは、教会の時代であり、 ・・・ キリストは ・・・ 諸秘跡を通して働かれるのです。」

宗教改革者マルティン・ルターはその有名な “小教理問答書” の中で、「わたしは、自分の理性や能力によっては、わたしの主イエス・キリストを信じることも、御許に来ることも出来ないと信じます。
けれども聖霊は、福音を通してわたしを召し、その賜物をもってわたしを照らし、まことの信仰のうちに清め、支えてくださいました。
それは聖霊が、この地上の全教会を召し集め、照らし、清め、そしてイエス・キリストにある、真の、一つの信仰のうちに支えられるとおりです」 と述べました。
私たち一同は今朝、この “聖霊降臨の神秘” を祝ってミサをささげているのです(今朝の集会祈願)。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0677すると一同は、、精神科病棟にいた2018/05/18(金) 22:17:01.31ID:2LCaLSZn
 
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0678そこで白い粒を渡された2018/05/18(金) 22:19:11.40ID:2LCaLSZn
 
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チロチロ

0679老クリスチャン2018/05/19(土) 12:58:11.33ID:hdWbP92D
2012年(主日B年) 5月27日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11  ガラ 5:16〜25  ヨハ 15:26-27, 16:12-15

「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」(ガラ v.18)
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラ v.25)

キリストの霊に導かれているとは、私たちがキリストの贖いの恵みによって律法から解放されたということなのですが(ロマ 7:6,8:2 参照)、
使徒たちの証言においてはあまりにも明白なこの事実が、歴史の教会においてはしばしば、単なる人間の(信仰とは何の関係もない)道徳や清らかな生活に置き換えられて理解されて来ました。

私たちカトリックの子らの中で、偶像礼拝や魔術(ガラ v.20)を行う人などいるはずもありませんが、それで霊の導きに従っていることになる訳ではありません。
またあなたが寛容、親切、善意(ガラ v.22)に心がけていれば、それが霊の導きに従っていることに換算されるという訳でもありません。

「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ロマ 8:9)

「(聖霊降臨の日以来)それは教会の時代であり、 ・・・ キリストはご自分の教会の典礼を通してその救いの業を現し、現在化し、分け与えられるのです。 ・・・ すなわち、諸秘跡を通して働かれるのです。」(カトリック教会のカテキズム 1076)

私たちすべての信者は今朝心を新たにして、ミサの祭儀に 「充実した、意識的な、行動的な参加」(典礼憲章 14)をささげようではありませんか。
なぜならこの典礼に対して、「(すべての)キリスト者は、洗礼の秘跡によって権利と義務を持っている」(ミサ典礼書の総則 3)のですから。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0680神も仏も名無しさん2018/05/19(土) 13:06:43.37ID:rNwAN/At
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0681老クリスチャン2018/05/24(木) 12:17:05.79ID:QzIAM6dn
2003年(主日B年) 6月15日 三位一体の主日
申 4:32〜40  ロマ 8:14〜17  マタ 28:16〜20

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ vv.19-20)

使徒たちは復活のキリストによって派遣された人々でありました。
その使命は人々にキリストの福音を伝えてこれに洗礼を授けること、そして洗礼を受けた人々による教会を訓練し育てることでありました。
代々の教会はこの使徒の使命を受け継ぐことによって、神の国の相続人としての教会であり続けて来ました。
そしてこの教会と共に、復活のキリストは今日に至るまで働き続けておられます。 世の終わりまで ・・・・・ 。

「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け ・・・・・」 という表現そのものは、実はマタイ福音書に初めからあったのではなくて、恐らく2世紀半ば頃に書き加えられたものであろうと考えられています。
新約聖書の他の個所では 「イエス・キリストの名によって洗礼を」(使 2:38,8:16)と書かれているからです。
三位一体形式そのものは150年頃になって信仰宣言の形として現れて来ます。

しかしそれは初代キリスト教の信仰をいささかでも変質させたのではなくて、むしろより総合的にまた正確に述べるための神学的所産であったということを、強調せねばなりません。
私たちに伝えられて来ているマタイ福音書は、この加筆修正によって、今もそして世の終わりまでも教会と共に働き続けておられる主キリストへの信仰を、私たちに呼び覚まします。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0682老クリスチャン2018/05/25(金) 11:39:33.85ID:qiXNz3BD
2009年(主日B年) 6月7日 三位一体の主日

「あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め ・・・・・ なさい。」(申 v.39)

神はホレブで天から、火の中から民に語られました。
神は先祖たちを愛され、その後の子孫を選んでエジプトから導き出し、カナンの地を嗣業として与えてくださいました。
ここにはイスラエルにとっての福音の主題が述べられています。
すべては神から出て、神によって保たれ、そして神に向かっているというイスラエルの信仰が宣言されています。

同じように、私たちの福音は御子に関するものであって、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。 この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ロマ 1:3-4)
すべては神から出て、神によって保たれ、そして神に向かっているのです(ロマ 11:36)。

全世界の教会でこの日、“唯一の神を礼拝するわたしたちが、三位の栄光をたたえることが出来ますように” と祈ることは、まことに尊い大切な務めであることを思い、大いに感謝しようではありませんか。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0683老クリスチャン2018/05/25(金) 11:52:53.90ID:qiXNz3BD
>>682 訂正。
2009年(主日B年) 6月7日 三位一体の主日
申 4:32〜40  ロマ 8:14〜17  マタ 28:16〜20

0684老クリスチャン2018/05/26(土) 10:49:23.22ID:ssbx42v5
2012年(主日B年) 6月3日 三位一体の主日
申 4:32〜40  ロマ 8:14〜17  マタ 28:16〜20

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタ vv.19-20)

言うまでもなく、私たちの信仰はイエス・キリストを信じる信仰です。
だからこそキリスト教なのです。
先ずここで私たちは、自分がキリストではなくて別の何か、例えば主義や主張や特定の文化や政治的目標などなどを、人生の最大の関心事にしているのではないかと、真面目に考えてみる必要があります。

使徒時代の当初から、教会で信仰が宣言される第一の場は洗礼式でありました。
そしてこの信仰宣言は間もなく三位一体定式のものになって行きます。
使徒信条も、ニケア・コンスタンチノープル信条も、父と子と聖霊への信仰を述べる三つの部分で構成されていることを、理解しましょう(カトリック教会のカテキズム 189-191)。

三つの中のどれかが無視されたり、あるいはどれかが極端に重視されてバランスが崩れると、そこには異端的な信仰が生まれて、(聖なる、普遍の、使徒的、唯一の)教会を危険に陥れます。
それは昔の話でも、どこか遠い国の話でもなくて、実は私たちのすぐ身近なところにいくらでもある切迫した危険であることを、警告しておきたいと思います。
日本語で “普遍の” と訳されている語は、原文では “カトリック” であり、これはその起源においては “正統的”“非分派的” という意味で使われていたのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

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0686神も仏も名無しさん2018/05/28(月) 00:25:51.60ID:mkkNR7EN
NHK教育を見て55277倍賢く暴君 ネロ
http://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/liveetv/1527430171/

0687老クリスチャン2018/05/31(木) 11:03:09.93ID:wJPFpHnM
2000年(主日B年) 6月25日 キリストの聖体
出 24:3〜8  ヘブ 9:11〜15 マコ 14:12-16,22-26

モーセがシナイ山で律法を受けて主と民との間に結ばれた古い契約においては、動物のいけにえの血が “契約の血”(出 24:8)として注がれました。
しかし新しい契約の仲介者(ヘブ v.15)であるイエス・キリストは、御自身を献げることによって、私たち教会のために永遠の贖いを成し遂げ(ヘブ v.12)てくださいました。
ヘブライ人への手紙は 「人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋 ・・・・・ (天の)聖所に入って ・・・・・ 」(ヘブ vv.11-12)と述べて、
教会の中で主日ごとに記念され再現される聖体の奉献の意味するところを説明しています。
この天の聖所で父なる神の右に座したもう主イエス・キリストは、やがて終わりの日に再び来て、ミサをささげる私たち教会に神の国を受け継がせてくださいます。

教会がキリストの聖体を奉献するミサを共にささげる度ごとに、そのことによって教会はいつも “キリストの贖いの死” を公に宣言して来たと言うことが出来ます(Iコリ 11:26)。
聖体の秘跡はこれに与かる信者たちだけの私的な礼拝行為ではなくて、実は同時に教会が外の世界の人々に対して証しする “キリストの贖いの死” の宣言でもあるのです。
新約聖書に描かれている初代教会の姿は、彼らが主日ごとにささげているミサの意味を積極的に外の世界の人々に説明し、証しし、宣教するものでありました。

「キリストは新しい契約の仲介者なのです。」(ヘブ v.15)

今年も聖体の祭日の朗読聖書は、私たちの教会が21世紀に向かって、“キリストの贖いの死” を宣言する教会となって行くことを励ましてくれるのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

0688老クリスチャン2018/06/01(金) 13:21:40.82ID:0mBlNjuS
2009年(主日B年) 6月14日 キリストの聖体
出 24:3〜8  ヘブ 9:11〜15 マコ 14:12〜26

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。 “取りなさい。 これはわたしの体である。”」(マコ v.22)

ローマ・ミサ典礼書の総則は、その前文の冒頭(1)で次のように述べています。
「過越の晩さんを弟子たちと共に祝い、その中で御自分のからだと血のいけにえを制定するため、主キリストは大広間を準備するようにお命じになった(ルカ 22:12)。
教会は、この命令が自分にも与えられたものと常に考え、とうとい感謝の祭儀の執行に関する心構え、儀式、場所、式文について規定してきた。
第二バチカン公会議の意向に基づいて定められた現行規則と、ラテン典礼の教会が今後ミサをささげるときに用いる新しいミサ典礼書とは、教会の熱意、ならびに聖体の神秘に対する信仰と変わらない愛を示すものであるとともに、
多くの新しいことがらが導入されたとはいえ、教会の絶え間ない確固たる伝承をあかしするものである。」

ミサの祭儀について、なによりも先ず明確にせねばならぬことは、これがそこに臨在される復活のキリスト御自身の行為であるということです。
“これをわたしの記念として行いなさい” とは、聖書に記されたあの弟子たちとの最後の晩餐を、現在に再現すること(秘跡的再現)であって、それが生けるキリストの行為であればこそ、また私たちにとっての現在の出来事となるのです(前文 2)。

・・・・・ 以下、本文参照。
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0689老クリスチャン2018/06/02(土) 13:13:54.44ID:fOaA79Ed
2012年(主日B年) 6月10日 キリストの聖体
出 24:3〜8  ヘブ 9:11〜15  マコ 14:12〜26

ヘブライ人とは、旧約聖書の民イスラエル(ユダヤ人)のことですが、この書が “ヘブライ人からの手紙” ではないことを不思議に思う人がいるかも知れません。
“いけにえ” や “祭司職” というのは旧約聖書の律法によって規定された制度であったからです。
しかし、イエスはそれとは別の 「もろもろの天を通過された偉大な大祭司」(ヘブ 4:14)としておいでになり(ヘブ v.11)、「御自身の血によって、ただ一度聖所 に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブ v.12)

ですからヘブライ人の旧約聖書は 「古びてしまったと宣言され」(ヘブ 8:13)、「キリストは新しい契約の仲介者」(ヘブ v.15)になられたと、もう一度ヘブライ人に向かって宣言したのが、この “ヘブライ人への手紙” なのです。
そう宣言しているのが “使徒たちと教会” であるということは、すべてのキリスト者にとって “いわば自明な前提” であるはずなのですが、すでに久しく実際には多くの信者が、自分の信仰をそんなに真面目には考えて来ませんでした。
今日の祭日は、そのような私たちのために定められていることを感謝しましょう。

ヘブ v.12 の 「ただ一度(εφάπαξ)」 とは、“最後的、決定的” という意味であって、神がキリストの十字架において 「罪を罪として処断され」(ロマ 8:3)、私たちのために 「永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブ v.12)ということです。
私たちは洗礼の秘跡を受けるときに、この贖いの福音を教会と共に、“私も信じますと告白して”(マコ 16:16)救われました(ヘブ 6:4,10:10、ロマ 6:10、カトリック教会のカテキズム1123参照)。
カトリック教会が「洗礼は一回限りのもので、くりかえすことはできない」(カテキズム 1272)と説明しているのは、それがキリストの 「ただ一度(εφάπαξ)」 の贖いに与ることだからなのです(ロマ 6:3-11)。

・・・・・ 以下、本文参照。
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0691老クリスチャン2018/06/16(土) 18:06:44.51ID:PaUbaxaH
2012年(主日B年) 6月17日 年間第11主日
エゼ 17:22〜24  IIコリ 5:6〜10  マコ 4:26〜34

南王国末期の紀元前608年に王となったヨヤキムは、攻め上って来たバビロンの王に最初の三年間は服したが、その後反逆して598年に至って死に、その子ヨヤキンが王位を継ぎました。
その三ヶ月後にバビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムに攻め上って来て、彼は捕囚としてバビロンに連れて行かれ、バビロンの王はヨヤキンに代えてゼデキヤを、彼に従順な王として位に就かせました。
これが第一回捕囚と呼ばれているものです(エゼ 17:11-14、王下 24:1-17)。

しかし間もなく、ゼデキヤはバビロンの王に背き、エジプトに使者を送って馬と軍勢を得ようとしたのです(エゼ 17:15)。
そして南王国の運命は、まっしぐらに586年の滅亡へと突き進んで行ったのでした(エゼ 17:1-10、王下 24:18〜25:21)。
以上の歴史を物語る 「たとえ」(エゼ 17:1,12)に続いて、今朝の朗読テキストで神のことばが語られるのです。

エゼ 17:2-5 に語られたバビロンの王に代わって、今度は主なる神が 「高いレバノン杉の梢」(すなわちダビデ王家)から 「その柔らかい若枝」(イザ 11:1 参照)を折って、「高くそびえる山」(イザ 2:2、ミカ 4:1、ゼカ 14:10)の上に移し植える。
すると、「それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうと茂ったレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。」(エゼ v.23、マコ 4:32)
私たちは今朝、終わりの日のこと、神の国の実現の日のことを聞かされているのです(Iコリ 15:24)。

「そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」(エゼ v.24)

・・・・・ 以下、本文参照。
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