イエス様は
ご自分がこの世に来た理由を、
次のように証ししています。

『わたしが来たのは、
 律法や預言者を廃止するためだと
 思ってはならない。
 廃止するためではなく、
 完成するためである。』

イエス様は、律法を完成するために、
十字架の贖罪をなされたのです。

では、律法では完成できなかったことが、
どうして十字架の贖罪で完成されるのか?
この疑問について考察したいと思います。

律法とは全ての人は平等である、もしくは、
平等であるべきだ、との考えに基づいて、
制定された規律です。

ですから、良きことであれ、
悪しきことであれ、
人からされたことは、同じことを
その人に対して返すことが
平等であり、正義だとするわけです。

ですから、悪しき行いに対しては、
目には目を、歯には歯をもって、
報復することが、正義とされるわけです。

そして死には死をもって報復することが、
正義であり、その正義を全うするために、
律法が定められたのです。

このやられたらやり返すという、
精神を徹底したのが、
仁義の世界です。

仁義の世界で重んじられる精神は、
やられた分はきっちりお返しすることが、
正義だという、平等の精神なのです。

しかしその平等の精神を徹底した結果が、
互いの抗争であり、そして滅びでした。
この世界での戦争も、全く同じ原理により、
起こります。

やられた分は、やり返すのが平等であり、
それが正義だとする律法の考え方によっては、
この世界から戦争をなくすことは、
不可能なのです。

この律法によっては解決できなかった、
人と人との争いを無くし、
平和を実現するために、世界は、
イエス様の十字架の贖罪の業を
必要としたのです。

続く。。。