仏教の諸行と諸法って同じじゃない?
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諸行無常と諸法無我ってあるけど
諸行と諸法は両方「全てのもの」って意味よな? この話を過去に哲学板でさんざんしてきたのだが
こちらは、「この世は仮想現実である」という話をしているつもりなのに
いつも、「創造主が宇宙を運営している」か、もしくは「どこかに本当の世界があって、そこには本当の私がいる」という話だと受け取られる
こちらは、そこには関心がない・・・(笑) この話には、続きがある
↓
中央に巨大で高性能なホストコンピュータがある。
ホストコンピュータから、プレイヤーのパソコンにゲームデータがダウンロードされる。
プレイヤーはパソコンを起動して、オンラインゲームにログインする
パソコンの画面に映し出された映像。
それこそが、この世なのだ
プレイヤーは、ゲーム内のキャラを初期設定して、ゲームを始める。
キャラは、最初は白紙に近い状況からスタートするが、
ゲーム世界内で経験値を積んで成長し、個性を身につける
やがて、キャラに自己意識が目覚める。
「俺は、俺だ。もともと俺なのだ」という錯覚だ
・・・ここで、パソコンが「阿頼耶識」、勘違いしたゲーム内キャラの自己意識が「マナ識」に相当する ここまできて、
「ホストコンピュータが神様なんだな?」とか、「プレイヤーが真我なんだな?」と言われるのは、当方にとっては残念なことだ
そこは単なる前置きにすぎず、どうでもいいとこ
重要なのは、パソコンを起動してログインしてからの話😂 ややこしいのは、この話の「ホストコンピュータ」と「プレイヤー」に相当する存在が、唯物論の世界観には無いというところ
唯物論に限らず仏教の世界観は、どこにも中心がない、無数の端末だけで成り立っているネットワーク
でもって、唯物論では阿頼耶識には思考も意志もなにもない。つまり、ここでいうプレイヤーは不在で、パソコンだけが黙々と動いているというイメージ 逆に、この話が「虚無的な唯物論だ」と言って責められたこともあるんだよな
唯物論かなあ、これが? この意味不明な話を、どうやって意味の通る話にできるか?
何年も前からの課題(笑) それはともかく、アカシックレコードと阿頼耶識は
どちらも「すべての記憶を保存しているデータベース」
であり、その意味では似たような概念なんだけど
違うところもある
どこが違うかというと、阿頼耶識は単にデータを
保存しているだけでなく、そのデータをもとに
世界を演出している
パソコンでゲームをするときは、パソコンのメモリー
にダウンロードされたゲームデータをもとに、
画面にゲーム世界が映し出されるわけなんだけど
阿頼耶識もそんな感じで、この世の物質世界を
自分自身に見せている この世の物質世界は、本当に存在するわけではない
これは、阿頼耶識が自分に見せている架空のビジョン
リアルな3D映画、メタバースみたいなもの >>521
521 名前:JBL ◆JBLfMwCXhY [] 投稿日:2022/10/28(金) 21:53:35.22 ID:dmXosxjw [10/11]
いや、これでも、ちと違うんだよなあ
「この世の物質世界とは、パソコンが自分に見せている
オンラインゲームの仮想世界みたいなものなのである」
↑
おはようございます。
この例え話に賛同した人は、過去に何人いましたか? >>534
>>阿頼耶識もそんな感じで、この世の物質世界を
>>自分自身に見せている
過去のJBL氏の書き込みと、矛盾しているように見えるのですが、
私がアホなのかな?
340 名前:JBL ◆JBLfMwCXhY [] 投稿日:2022/10/24(月) 07:39:24.50 ID:p8reAvfI [7/10]
でも、このゲームの世界観と、仏教の世界観には大きな違いがある
(中略)
阿頼耶識には、意志がない。
ていうか、何も考えていない > この例え話に賛同した人は、過去に何人いましたか?
哲学板だと、賛否が半々といったところでしょうな >>537
>
> 過去のJBL氏の書き込みと、矛盾しているように見えるのですが、
えっ、なぜ?
どこが矛盾しているのかが分かりませんが >「この世の物質世界とは、パソコンが自分に見せている
オンラインゲームの仮想世界みたいなものなのである」
↑
好むと好まざるとに関わらず、
仏教哲学の唯識論ってのは
基本的にこういう考え方なんでして
西洋哲学の観念論も、突き詰めれば
こういう考え方に行き着く 普通の人ならともかく、哲学板の住人だと
こういう考え方を見慣れてる人も結構いるから >>538
1人もいなかったので、JBL氏が探し求めていると誤解していました。
正直に言いますと、私は、「理解さえできません」
賛成、反対する以前の問題です。 >>539
JBL氏によると、阿頼耶識は下記の行為を行っています。
意志が無く、何も考えていないモノの所作には見えません。
1 データを保存している
2 そのデータをもとに世界を演出している
3 この世の物質世界を自分自身に見せている
534 名前:JBL ◆JBLfMwCXhY [] 投稿日:2022/10/29(土) 07:24:17.56 ID:m5wSEmOK [2/7]
(前略)
どこが違うかというと、阿頼耶識は単にデータを
保存しているだけでなく、そのデータをもとに
世界を演出している
(中略)
阿頼耶識もそんな感じで、この世の物質世界を
自分自身に見せている
340 名前:JBL ◆JBLfMwCXhY [] 投稿日:2022/10/24(月) 07:39:24.50 ID:p8reAvfI [7/10]
でも、このゲームの世界観と、仏教の世界観には大きな違いがある
(中略)
阿頼耶識には、意志がない。
ていうか、何も考えていない >>540
実は、私は極度の哲学オンチで、
かつ、唯識論がサッパリ理解できません。
多分、私の妄想のほうがアブノーマルなのでしょう。
哲学板で、半数の賛同を得たなら、それで良いのでは
ないでしょうか?
今回の「オンラインゲームの例え」については、
「私が理解できないアホ」ということで、
次の話題に入ってもいいでしょうか? > JBL氏によると、阿頼耶識は下記の行為を行っています。
> 意志が無く、何も考えていないモノの所作には見えません。
> 1 データを保存している
> 2 そのデータをもとに世界を演出している
> 3 この世の物質世界を自分自身に見せている
そこは、額面通りに受け取ってもらうしかないです
意志がなく何も考えていないのに、1~3のことを行っている
それが、阿頼耶識というものなんでして・・・ > 次の話題に入ってもいいでしょうか?
こちらは、阿頼耶識の話を引っ込めて、代わりにアカシックレコードの話をしようとしてます😅 >>546
このスレはレス番号がズレていて、アンカーが無意味のなので、
下記のスレに移動したいのですが、よろしいでしょうか?
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1651942889/ > 1人もいなかったので、JBL氏が探し求めていると誤解していました。
これは、哲学ではそれほど突飛な話ではなく、
「いま、世界で最も注目される若手の哲学者」
とされるドイツのマルクス・ガブリエルの代表作
「なぜ、世界は存在しないのか?」の考え方も
これに近い
哲学板でやると賛同する人は出てきます
でも、どういうわけか、反対する人の反応が熱い
反対する理由はさまざまだけど、とにかく炎上するテーマ
唯心論とアンチ唯心論、唯物論とアンチ唯物論の対立は、
哲学界における永遠のテーマでして・・・😂 > このスレはレス番号がズレていて、アンカーが無意味のなので、
> 下記のスレに移動したいのですが、よろしいでしょうか?
> https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1651942889/
では、移ります >>545
なるほど。
私の妄想のほうが過激すぎて
自画自賛するけれど、
オモシロイな
343 自分:エロ和尚 ◆ERO.Kk3nCA [sage] 投稿日:2022/10/24(月) 09:45:45.65 ID:RBIVnWwm [2/5]
>>340
プレイヤーたる神は、ゲーム中毒になっている。
しかし、仏教思想ではプレイヤーはいない。
「阿頼耶識」という意志の無いモノが法則を設定している。
・・・・という所かな?
私なら、一神教は否定して、仏教思想を採用します。
で、「阿頼耶識」とは、素粒子であり、
実は素粒子は生命体である。 こちらも、この話が意味不明なのは
今までの経験で分かってるので(笑)
どうすれば、これを意味の通る話にできるか
それが、何年も前からの課題 「阿頼耶識とは素粒子なのである」ですか・・・
哲学板には、
「阿頼耶識とはDNA なのである」と
主張する空基って人がいて、
皆から集中砲火を浴びていましたが😂 阿頼耶識ってのは、「神」ではないんだよな
それは、「自分自身の潜在意識のもっと奥にある、超潜在意識」といったところ これをスピリチュアル的に解釈するのは誤り
スピリチュアル的にというのは、
「アナタの意識が、自分自身の現実を創造しているのです」
というような、ポジティブな人生論として解釈すること
阿頼耶識は、保存されたデータを機械的にフィードバックするだけ
どうにもならない存在なんでして この話の最大の要点がどこにあるかというと、
「一人一人が、別の世界に住んでいる」
ということ A、B、Cという3人の人が、同じオンラインゲームにログインしてるとして
Aさんのパソコンの画面にも、Bさんのパソコンの画面にも、Cさんのパソコンの画面にも、同じゲーム内の仮想世界が映し出されている
でもって、Aさんが見ている仮想世界には、BさんとCさんがいるのが見える。
Bさんが見ている仮想世界には、AさんとCさんがいるのが見える。
Cさんが見ている仮想世界には、AさんとBさんがいるのが見える。
この場合、「世界」はどこにあるのか?
それは、3人が見ている、それぞれのパソコンの画面上にある
リアルには存在しない
でも、どの参加者にも、なんだか本当にそんな世界があって、他の人たちと一緒にいるような気になってくる
それが、オンラインゲームの原理(笑) https://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/eb2b1d826aa22fd2434bb3373579c91e
「不確定性原理」とは、「測定の限界」みたいなことを意味します。
何かを測定しようとしたとき、どれだけ頑張っても
「あちらを立てれば、こちらが立たず」
というジレンマがおきてしまう、 阿頼耶識は既存の入力と現在の入力以外の要素が出力されることはない
今他人が自分に影響を与えたとき、それは過去の入力が変換されて出力
されたという解釈になる。つまり他者が阿頼耶識に影響を与える余地がない。
そこに阿頼耶識のブラックボックスがある。
簡単に言えば異熟のロジックが不明なのである。
阿頼耶識が業の入力から演算を行い世界を出力するとき
その演算機構が解明されないかぎり阿頼耶識は単なるブラックボックスであり
それは世界の因果関係が予測不可能であると言っているに等しい う~ん、確かに。これをどう考えるかでしょうな
異熟(いじゅく)
原因結果の法則(縁起の理法)は必ず完結します。善因善果・悪因悪果の法則は必ず完結するようになっています。この世で完結しない場合は、あの世で完結するようになっています。
この世において、「努力しても報われなかった」ということもあるでしょう。その一方で、「努力しなかったのに非常に成功した」という人もいるかもしれません。それだけを見ると、非常に不公平であり、原因・結果の時間縁起が必ずしも働いていないようにも思います。
しかし、この世において縁起が完結しないからこそ、実は、この世を超えた実在の世界において縁起が完結しているという論理が、そこにあるわけです。
この世において、悪人が栄えるように見えることもあります。しかし、その繁栄は永遠のものではありません。それは必ず、大きな執着となって、来世の苦しみを生むことになります。
このように、この世において、必ずしも「善因善果・悪因悪果」になっておらず、その正反対に見えるようなことがあります。仏教では、これを「異熟(いじゅく)」といいます。
この世で、悪人が栄え、善人が滅ぶ。このような異熟が、いろんな場面で見られると思いますが、このような現象が起きるということ自体が、実は、縁起の理法がこの世で完結せず、来世まで行って初めて完結するということを意味しています。
「善因善果・悪因悪果」と「異熟(いじゅく)」の真の意味を知ることによって、人間は、強くもなれるし、本来の幸福も得ることができます。善人と悪人が混在する社会にあって、このような考え方をしっかりと持っていますと、誘惑に負けることなく、1本筋の通った人生を歩むことができます。 いくら阿頼耶識が無色透明といっても
「病気はない、病気はない」と唱え続けた結果、
その想念が阿頼耶識に蓄積され、やがて
現実へとフィードバックされる
・・・てことは、あるんかな? でも、相手は阿頼耶識だからな
どういう結果が返ってくるか
反応が読めん(笑) 阿頼耶識にまつわる話には、種子とか異熟とか
植物関連の用語が多い 阿頼耶識が溜め込むもの
阿頼耶識は次の三つの役割を持つものとして位置付けられています。
① 私達のあらゆる行為【身(行動した事)、口(しゃべった事)、意(心で思った事)】を溜め込む。
② その溜め込んだものによってその人柄やその人の環境的世界が決まってくる。
③ 凡夫において阿頼耶識は、我執の対象として実体化され愛着され執着されるものとして働く。
①は、現行薫種子(げんぎょうくんしゅうじ)、②は種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)と言う名でその働きは呼ばれています。③は特別名付けられていませんが、盲目的に生き様とする力を生み出す源で、末那識と非常に密接な関係にあると言えます。 今回は先ず阿頼耶識が溜め込むものは一体なになのかについて考えたいと思います。
唯識では、私達のあらゆる経験した行為(自分の行為だけではなく、受けた行為も含みます)をそのまま記録し貯蔵する心を阿頼耶識として考え出しました。
そして一つ一つの行為を植物の種(たね)のようなものであるとイメージして、溜め込む一つ一つを『種子(しゅうじ)』と申します。
そして、行為と言うのは、言動だけではなく、心に思った事、想像した事をも阿頼耶識と言う心に刻み込まれると唯識は考えます。 現行(げんぎょう)と言いますのは、私達が現に経験したあらゆる行為と言う意味と考えて良いでしょう。
そして、その行為が種子(しゅうじ、種粒と言うイメージ)として阿頼耶識に薫じる、すなわち、薫りが衣服に染み付くように行為が阿頼耶識に染み入り記録されると言う事を薫習(くんじゅう)と云い、この阿頼耶識の働きを『現行薫種子(げんぎょうくんしゅうじ)』と名付けているのであります。
そして行為は、物心がついてからの行為だけではなく、この世に産まれ出た時から物心がつくまでに母親や周りの人々から受けた愛撫や、躾も、しゃべりかけられた言葉等も溜め込まれると考えます。
更には、胎教といわれる母親の胎内にいる時に経験したこと、更に私達の無数の先祖達が経験したことなども阿頼耶識に情報として記録されているとまで唯識は考えます。
これは、唯識が考え出された時代には解明されていなかった遺伝子の世界と重なる考え方ではないかと思われ、唯識の想像力に驚かされるところであります。 従いまして、私達が両親から受け継いだ30億文字分のデーターが記録されていると言われる遺伝子に、何億人と言う祖先達が経験したことを背負って、私達はこの世に生を受けているということだと思います。
遺伝子即阿頼耶識ではないかも知れませんが、遺伝子にかなり近い役割として阿頼耶識が考え出されたと云ってもよいように思います。
阿頼耶識に色々な情報が記録されている事を実感するのは、初対面の人に対する印象が人によって明らかに異なる事を思う時です。
初めて遇ったにも関わらず、好感をもてる人と、どうも苦手だなと感じる人、どちらとも言えない人に瞬時に判定してしまいます。
テレビで見る俳優やタレント或いは一般登場人物についても同様に感じます。
これは、それこそ、先祖から顔形と好き嫌いの関係情報を受け継いでいるからであるとしか思えません。 阿頼耶識の恐いところは、心で思った事、想像したことまでも溜め込んでゆくとろです。たとえ言動に出さなくとも、恨み心を積み重ねてゆくといずれは爆発しかねない恐さがあります。一方、気付かないうちにストレスを溜めてゆきますと、ある時に病と言う形になって現れることも、阿頼耶識の恐さではないかと思います。 確かに、空基氏が「阿頼耶識はDNAだ」というのも、うなずける面はある
古代インドの瞑想行者は、何らかの形でDNAの存在を知り、それを阿頼耶識と表現したのかもしれない でも、やはり違う
いくら先祖からの遺伝情報が記録されているとはいえ、
デオキシリボ核酸はやはり物質存在
阿頼耶識が生み出した幻影であることに変わりはない >>幻想とは仮の世界であって、単なるフィルムでもあるのです
フィルムには、実体があると思うけど?
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1667037580/
194 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2022/10/31(月) 13:56:08.40 ID:cipQgw7u [16/17]
>>186-187
我々が生きているこの世界は時間・空間に縛られた物質世界であり
現象世界であり、これが三次元世界です
そしてこの世界は幻想なのです
幻想とは仮の世界であって、単なるフィルムでもあるのです
胴元にあるのは実相世界でありこれが永遠なる霊の世界です
ゆえに我々はもはやすでに永遠を生きているのです
ですが、肉体という仮の姿でこの幻想世界を生きているので
それはたまに取り変えることになります
また、太古の生物に寿命は無かったと有名な科学者も証言しており
のちに寿命が設定されました
宗教的には神が設定したとされています
寿命も人類意識により洗脳されますので、それに左右されます
しかしながら、それも単なる設定ですので、変えることも可能になります
神である、我々の思考でどうにでもなります
過去の人間の寿命が100歳前後だからといって
これからもそうだ、と考えるのはナンセンスです
科学の進歩、並びに悟りの有無により変わってくるからです
これからは150歳、200歳と伸びていく時代も来るはずです 「この世に個体は存在しない、すべては真空エネルギー」科学者断言!
宇宙渦理論が「エーテルこそが真理」と証明!
https://www.excite.co.jp/news/article/Tocana_201811_post_18814/
「これから100年後には、真空こそ宇宙の真の土台であることが知られるようになるでしょう。
渦巻く真空が物質となるのです。電子は基本的な粒子ですが、これも真空の渦なのです。
……質量を持たない連続体であり、非粘性で圧縮することができない真空こそ、
物質のあらゆる性質の元なのです。
……エーテル理論は復活しなくてはなりません。
そうすることで、物理学、形而上学、スピリチュアリズムを深く理解できるようになるでしょう」(テワリ氏) 阪神ファンの野次おっさん
自分は対して野球上手くないのに、お客様だから安全だとプロ野球選手に野次をあびせる。
でおーそっくり >幻想とは仮の世界であって、単なるフィルムでもあるのです
胴元にあるのは実相世界でありこれが永遠なる霊の世界です
>ゆえに我々はもはやすでに永遠を生きているのです
ですが、肉体という仮の姿でこの幻想世界を生きているので
それはたまに取り変えることになります
↑これを書いた人は、生長の家の信者さんかな? ぶっちゃけ、私も軽度のサイコパスだと思っています。
山折哲雄という宗教学者の著作にハマった時期があって、
彼の『天地万物生命教』を支持しています。
https://ameblo.jp/nobu630/entry-12303687224.html
そういうこともあって、「死」とは一種の幻想かな?と思ったりします。
しかし、身近な人(例えば母親)が死んだら、違う感覚に
なると思います。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています