アートマンのような真我、認識主体と、それ以外の幻想の自我がある、とすると、
二元論になって、仏法ではありません。。

これは、ヒンズー教、あるいは、アドヴィタの教え。。

仏法は、そういう二元論ではありません。。

もともと無我、非我、であって、それを明らめるか否かと言うだけです。。

無我、非我であるから、次のの瞬間は、もう脱落している、解脱している、と言うことが可能なのです。。