代表としてのスマナサーラ長老の言い分 解釈
そこに正当性はあるのか?という
いい話題が出ました

これは全てこの問題に帰着するんです
長老は預流果以上の悟りに達しているか
または達してはいないが
長老の師や修行仲間に悟った人がいて
そういう環境の中で説法するに足る力を身につけたか
問題はここになります

個人的には長老は少なくとも
預流果以上の境地にあると考えています
それはお話の端々に実際にそこまでいかないと
言い得ない表現がたくさん混じっているからです
私にはそれがよくわかります

この段階まで至ると
もはや仏典を正確に伝えるだけの存在から
目の前の人々に深く入り込んで
自在に法を解く存在となります
能力や個性によって受け入れられるか
そういう問題はあるかもしれませんが

ある人にはaといい
またある人には逆のbということもあり得ます
事実を大事にするのではなく
その時その人に深く影響を与える
目を開かせる 思考を転換させることが
最大の目的となるからです

悟った人に師事して修行するのは
仏教では大前提です

仏陀が現役時代には
さまざまな阿羅漢がいらっしゃったことを考えると
胸熱ですね

理屈っぽい理詰めで語る阿羅漢
根性で修行しろ!と励ます阿羅漢
話すのが苦手で何言ってるかよくわからない阿羅漢
想像すると面白いですね