自我といっても、多数の構成要素に「縁って」いる、つまり依存しているのであり、構成要素を離れたところに"自我"なるものはないことを、ナーガセーナは言おうとしたわけです。
ここでは「人体」を例に話していますが、諸法に約せば「一切の現象は」は「縁(因果の相互作用)」によって「成り立つ」と言うことです。

「縁起」というのは周知のとおり、相依相待ともいわれるように、いっさいの存在は、いかなる存在といえども、
必ず他者(物)を待って、あるいは他者(物)との関係によって、存在しうるということを説明した仏教用語です。

したがって、縁起は人間を含むいっさいの事物や存在の独存性、恒常性を否定したもの(無我)ともいえます。
これを空間的な拡がりにおいて適用したのが「諸法無我」であり、時間的側面に適用したのが「諸行無常」であった、と一般的にはいわれていますね。


ところで、この縁起を人間存在にあてはめると「無我論」になるのです。すなわち「諸法無我」ですから、人間についても、この原理があてはまるのは当然でしょう。
つまり、人間存在も、誰一人として、自分一人だけで、存在しうるものではありません。必ず、他者との触れあい、関係性によって、人生や社会を形成していくのです。
したがって、縁起と無我というのは、人間存在に関するかぎり、まったく同じことをいっています。


法華経では、さらにこれを掘り下げて考察し「無我」にしても「縁起」にしても、「当の実在」を指し示す助縁として語られたものといえます。
すなわち、現象を現象ならしめる、この「当の実在」こそ「究極の生命」あるいは「宇宙根源の法」ともよべる「南無妙法蓮華経」に他ならないのです。
この「宇宙根源の法」を我が胸中に覚知された方を「仏」と言うのです。