オレは、昔から、一休は どうもねw

自己を単なる「一夜の現れ、刹那の現出」と割り切って、
「ならば、遊びに遊びきって、全てを茶化して生きる」  ってのも、禅的にはOKなんだろうが、
それには、絶対的に外せない条件があると思うんだが?w

つまり、全てを「遊び」に昇華してしまうのならば、そこに必ず自己も含めること。
自己をも遊びの一端として、徹底的に突き放せるんならばいいけど、大概の者は、
遊びと自己を分離して、遊ぶ対象と遊んでいる自己・・・になるでしょう?w

すると結局は、無頼を気取るだけの似非覚者で終わってしまう。
・・・・世間的な常識、宗教者としての常識をわざと、逸脱するような言動を繰り返し、
「何物にも縛られない自己」というものを演出する。

これは他者を欺くのを目的とするよりも、寧ろ自己を欺く・・・・これが悟りだ・・・
という思い込みに酔う 意味合いが大きいと思うけどねw

そして、そういう者は必ずある種の臭みが漂う。
・・・・オレ的には、どうしても、一休にはその臭みがねえwww