隠居は中論の「中」を、中庸だとか中間だと勘違いしてとらえているんだね。
中論の「中」は、悟りのことに他ならない。
だから「入中論」は悟りに入ることを説かれた論書であるし
中論というのは、悟りについて説かれた論書である。
悟りは離貪なしにはありえず、生を喜びとして顛倒している者には中論を正しく理解するのは
象が針の穴を通るより難しいのでしょう。