>>629
そのYKが元オウムってのは初耳、確かその人は元阿含宗だったかと
んで、その人には誤謬があってね、真我を探すあまり着地点を誤ってる
五蘊無我を釈迦が教えた、その五蘊を釈迦は一切だと教えた、とYKは言う
釈迦が教えたその一切に真我は含まれないのだ、とYKは言う
ここまでは良い、彼はその先を応えてない、と言うか応えられてない
その「真我」とやらは果たして自己なのか否か?

釈迦は真我は説かず、当時の巷間では言われる事もあったであろうアートマンも
それをして自己だ、とは釈迦は説いていない

真我があろうがなかろうが、アートマンがあろうがなかろうが、いずれにしても「自己」とは妄想に過ぎず実在しない

これが釈迦のたどり着いた結論なのである

自己なるが妄想なのだから、自己と認識していた今までが全て誤謬なのである
アートマンも真我なるも、これらがあったとして自己ではないのである

仮に、自己なるものを仮設したなら、その内訳の成立要件たる最先端は「気付き」となろう
別の言い方では唯識で言う「識」となろう

これは自己ではないのである、自己と思っているかも知れないし、思いたいかも知れないが、違うのである
では何か?

釈迦の教説中で、最大の発見は何だったであろうか?
いくつかあろうが、一つは無我が有名だろう、しかしこれは外道も見つけてる
それ以外の、釈迦の大発見があろう

それこそが個人の識別が始まる起点であり、各々が自己と勘違いしてしまう根本なのである