つまり、これは、リンゴ というものがある・・・と言う視点ではなく、
最小構成単位が様々な条件下で集積している「一つの現象」に過ぎない。
現象であるから時間発展と共に、それは別の現象へと推移する。(例えば、腐っていく)
そして、最小構成単位へと還元され、それらは、また別の現象の要素として使用される。

この世の全てを現象の連鎖と捉え、そのごく一部を恣意的に切り取り、それに「リンゴ」という
名称を付与しているだけ。
つまり、ユニット として捉えるのではなく、現象としてみる視点さ。

そして、この「現象として捉える視点」が、なぜ仏教で重宝されるかというと、
一般的な認識(即ち、ユニットとしての認識)であると、どうしても、人はそこに
「固定性」をみてしまい『執着』する。この執着こそが、苦の因であって、仏教が最も嫌うもの。

「現象として捉える」のであれば、⇒「全ては変化する」⇒「固定性の欠落」⇒「執着滅」
仏教的に言えば、「諸行無常」さw

このように、執着を破壊してくれる、「ありがたい視座」というわけw
(まあ、それによって、一般的な認識(ユニット視座)を破壊出来たら、「現象とみる視座」も捨て去って しまいなさい
・・・となるんだろうが、それはまた、別の話さww)