それでは、もう一度だけ説明するわw これでわからんかったら、対話は終了。

⇒「いま目の前のテーブルの上にリンゴがあるとする」

これを見たとき、それに対して何の認識、認知もほどこさない・・・ということがありえる。
ただ、リンゴに反射した光が眼球を通して映像を結ぶ。ただそれだけ。
それ以外の一切の認識を却下する。仏教的に言うと、「無分別」さ。

しかし、通常は、それを「リンゴである」と認識するわけ。それは、テーブルではないし、
自分でもない。「リンゴ」というもの。即ち、それに「個別性」を付与しているの。
それは、犬でもないし、木でもない。川でも山でもないし、「リンゴ」というものなの。
それ以外のものとは異なる「独立性」を付与しているわけ。
そのような認識の仕方が、「存在」なんだよ。
仏教ではよく、それを「リンゴに基体性をみる」というが、そのような「基体」を前提とした
認識の仕方が一般的な認識法なわけ。

ところが、仏教には、そのような「一般的認識法」とは異なる視座があるの。
仏教用語を用いて言うと、「五蘊が縁起によって仮設し、現れる」というようなこと。

これを常識的な表現で言うと、「構成単位が、様々な条件づけにより集積し、一つのユニット
を形成し、それを仮に〜〜と名付ける。」