ビートルズはなぜ解散したのかPart19 [無断転載禁止]©2ch.net

これだけやっても真相はでてこない...。

※前スレ
ビートルズはなぜ解散したのかPart18
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/beatles/1453644066/
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437ベンジャミン (ワッチョイ cabf-iCuI)2018/04/05(木) 23:27:04.95ID:GvCIv7nF0
ポール
「ヨーコはいつも平気で自分も写ろうと写真に入り込んできたが
誰も(フレームから)出て行ってくれとは言い出せなかった」

そしてシングル「ジョンとヨーコのバラッド」US盤のジャケットでは
初めて4人+ヨーコの写真が使われしまった

438ベンジャミン (ワッチョイ cabf-iCuI)2018/04/06(金) 00:02:56.51ID:oqWUPA9G0
ホワイトアルバム以降に、ジョンは本格的に
スタジオにヨーコを同伴するようになったが
ヨーコが一人でトイレにいっただけでも激しく動揺し
トイレの前を離れなかった(その逆もしかり)
勿論他のメンバーもスタッフもドン引きだった

しかしジョンが自らヨーコを置き去りにしたこともあった
「アビーロード」の「ジ・エンド」の3人でのギターソロのときだった
他の曲とレコーディング同様、当然のようにマイク近くまで一緒に
行こうとするヨーコに「少しここで待ってて」と言った
ヨーコは信じられないといった表情で傷ついた様子で一人待っていた
ジョンも、これが最後(ジ・エンド)だと解っていたのかもしれない

439ホワイトアルバムさん (ワッチョイW a956-3DKV)2018/04/06(金) 04:13:24.72ID:DlHTXHve0
小野さんのせいにしとけば誰も傷つかない

440ベンジャミン (ワッチョイ cabf-iCuI)2018/04/06(金) 05:37:26.34ID:oqWUPA9G0
ジョンは自分の口で解散を発表したがっていたが
キリスト教発言で痛い目を見ていたので、解散の責まで
負わされるのは、真っ平ご免だった

そこでジョンは知人のレイ・コノリーという新聞記者に
「とっておきのスクープを教えてやるぜ
俺たちはもうとっくに解散してるんだ
でも、俺がいいというまで記事にするなよ」
とリークした

コノリーはその後何度かジョンにもう記事にしていいか
尋ねたが返事はその旅に「まだだ」だった
ジョンはこの記者が無断で記事にすることを期待していたが
コノリーは罠だと気付いていた

そのうちポールが脱退を公表するとジョンはコノリーに
「なんで俺が言ったときにすぐ記事にしなかったんだ」と
激しく罵倒した

そしてジョンの懸念どおりポールは解散の責を負わされ
ジョン自身もポールを解散をアルバムの宣伝に利用したと批難した
「ちくしょう俺が先にあぁやれば良かったんだ
全くあいつは世界一優秀なセールスマンだぜ」

441ホワイトアルバムさん (ワッチョイ 2d04-iCuI)2018/04/06(金) 07:47:37.39ID:exG/LOPI0
レットイットビーの再編集でアランと結託しスペクター盤を施して
ポールの曲をぐちゃぐちゃにしたから彼が追い込まれてあの手段に出たのはよくわかるけどな
まあ独りよがりなソロアルバムについていたQ&Aは幼稚だったけど…
それを持ってみてもあの頃のジョンはいつもにましてノイローゼ級の情緒不安定

442ホワイトアルバムさん (ワッチョイ 159d-IVD0)2018/04/06(金) 08:44:37.27ID:b5wLOOnF0
>>441
当時のジョンはヘロイン中毒だったということですから

443ベンジャミン (ワッチョイ cabf-iCuI)2018/04/06(金) 20:26:38.12ID:JYpRJDpr0
ヨーコは4人の絆、というよりジョンとポールの絆を引き裂いたが
ジョンにとっては必要な人物だった
後にポールも認めているようにヨーコがいなければイマジンも
生まれなかったし、実際に共作者としてヨーコはクレジットされた

ツアーを中止した後、ジョンはストロベリーこそ
会心の出来だったがその後スランプに陥ってしまった
サージェントには、数曲提供したものの、完全にポール主導の
アルバムであり、それが過去最高の賞賛を受ければ受けるほど
ジョンは自分の創作活動に益々行き詰まりを感じていた

444ベンジャミン (ワッチョイ cabf-iCuI)2018/04/06(金) 20:31:22.68ID:JYpRJDpr0
愛と平和と言えば今でこそジョンの代名詞だが、平和運動の
著名な活動家(バートラッセル)と最初に交流したのはポールだった
ジョンも関心があったが自分がどうすればいいのか判らなかった

数年後、ヨーコと出会ったジョンはその答えを見つけた
ただ、愛と平和を唱えればいいのだ、それが作品だった
「そんな単純なことで良かったのか」ジョンは目から鱗が落ちた
ポールはジョンを触媒として名作を連発していたが
ジョンにとっての触媒はポールでなくヨーコだった
そしてジョンは愛と平和の伝道師になった

ヨーコの前衛芸術はシンプルで判りやすかった
ラジオのダイヤルを適当に廻す「RadioPlay」という
パフォーマンスは、ラジオでかかった曲が
そのまま作品になるというものだった

445ベンジャミン (ワッチョイ cabf-iCuI)2018/04/07(土) 09:17:27.37ID:C7AOoj2s0
解散期の登場人物でクラインは常に悪役だが、
イーストマンもそれなりにろくでもなかった
ビートルズの議決権を、レコード売上貢献に応じて
ポールを3、他の3人は1にしようと主張して
これは特にリンゴを激怒させた
また、ブライアンの弟、クライブエプスタインを怒らせ
NEMSの売却に拍車をかけたり色々やらかした
特にノーザンソングスの株をポールに買い増し
させたことはジョンとの決裂を決定的にした >>426

一方で、レコード会社との印税引上げ交渉の担当を
より音楽業界に精通し、交渉にも長けているクラインに
することにポールも同意したとき、面目をつぶされた
イーストマン(リンダ)とポールの間がギクシャクした
またリンダは、ジョンから、会う度に拳を振り上げて威嚇
されていたという噂も流れていた

446ベンジャミン (ワッチョイ cabf-iCuI)2018/04/07(土) 09:22:48.38ID:C7AOoj2s0
結局イーストマンは他の3人から排斥され
クラインはマネージャーになった
全員一致が原則だったビートルズは多数決で物事を
決めるようになった 
そしてその多数決はいつも3人対ポールだった
ジョージは言った「民主主義ってそういうもんだろ」

ポールを孤立させただけのイーストマンだったが、
解散後結果的にMPL等の版権ビジネス等で、
ビートルズの印税がなくても、一生食いっぱぐれのないほどの
莫大な富をポールとその財産を相続する自分の孫たちにもたらした

447ベンジャミン (ワッチョイ cabf-iCuI)2018/04/07(土) 09:31:14.74ID:C7AOoj2s0
クラインは最初にジョンに逢ったときに
ジョンの曲の方がポールより素晴らしいといい
ヨーコのことも褒めちぎった
ジョンはクラインを無条件で信じるようになった

一方でクラインは、ポールに嫌われつつも
一番金を儲けてくれるビートルの機嫌もとろうと
ジョンのいないところでヨーコをボロカスに言った
ポールは益々不信を募らせクラインを信じなくなった

448ホワイトアルバムさん (ワッチョイ 2d04-iCuI)2018/04/07(土) 11:20:45.34ID:ouSyLOU10
行き着くところブライアンが死んでマネージメント不在で再出発したがマジカルはコケて酷評、アップルは即刻破産
彼が音楽以外では、無知無学で無能であることを天下に晒した
同時進行的にバンド内の人間関係も様々な理由や要因が絡み合い崩壊した
ややこしくしたのはバンド再建の為、ポールが恋人の父を後任マネージャーに推そうとして更に混迷を深めた
ジョンは直感で物事や人を評価し決めつける性癖で、山っ気だけでなく胡散臭いアランの話術に一発で釣られた

ただ何をやろうにも、出すタイミングがどうにも最悪だったな

ポールもジョンも張り合いながら音楽を作っているだけなら最良な関係だが、それ以外でもそんな関係だったな
誰かに任せることができず互いに牽制しながら音楽と違ってビジネスの世界でもそれやったから、そりゃ対立するよ

もともとこのふたり酒場で愚痴を言い合う関係でなく、いつもどこか心の中で気を許せず警戒しライバル心も強い
ジョンは少年時代は喧嘩力で抑え込んでいたが、プロの音楽家(マーティン)らにポールが評価されてから
抑え込むことが不可能になり、天性のメロディメイクに根深い嫉妬を抱くようになった
ポールはジョンの独特の感性に更に敏感になり、ジョンの曲を下敷きにした曲が増えていって強力なシングルを
連発したが、今思うとポール単独ではあそこの高みに達するのは無理っぽいのはソロ時代をみてわかる

どちらともこと音楽に関しては凄い才能を互いにぶつけ合ったんだろうな、疲弊も早く壊れるのも早い

449ホワイトアルバムさん (ワッチョイ 0ab4-iCuI)2018/04/07(土) 15:18:45.35ID:J1gizhzx0
439ホワイトアルバムさん2018/04/07(土) 09:30:54.17ID:???0>>440>>441

■◆衝撃!イエスタディはナポリ民謡だった◆■



イタリアの著名な作曲家リッリ・グレコ氏が18日夜、同国のテレビ番組で、
ビートルズのイエスタディは1895年に作曲されたナポリ民謡のカバー曲だとの新説を唱えた。
 グレコ氏は、1965年にイエスタディを作曲したポール・マッカートニーは
世界の音楽について幅広い知識を持っており、特にナポリ民謡がお気に入りだったと主張。
同氏が番組の中で演奏した「原曲」は、確かにイエスタデイに酷似していた。
 ビートルズの伝記には、ポールがイエスタデイの作曲直後、
無意識のうちに盗作したのではないかと心配し、
「一ヶ月ほど音楽関係者に、この曲を以前聴いたことがないか尋ねて回っていた」
と述懐したと記されている。

【ローマDPA時事】(日刊ゲンダイ7/21)


http://www.google.co.jp/search?hl=de&;;;;;;;;;;ned=de&ie=UTF-8&filter=0&q=Yesterday++Lilli+Greco&btnmeta%3Dsearch%3Dsearch=Web-Suche
イエスタデイ盗作問題は世界中で大騒ぎ。

Wikipediaにも掲載。 
http://en.wikipedia.org/wiki/Yesterday_(song)

グレコ氏は有名人だった。
http://www.google.co.jp/search?hl=it&;;;;;;;;;;ned=it&q=Lilli+Greco&btnmeta%3Dsearch%3Dsearch=Cerca+nel+

450ベンジャミン (ワッチョイ cabf-iCuI)2018/04/09(月) 23:53:47.38ID:J+FiceGN0
1969年9月20日のビジネスミーティングは
また小さなクラブを回ろうというポールの提案に対し
有名なジョンの「お前はアホだ、俺はもう脱退している」
発言があった日だが母親が癌で危篤だったジョージは
その場にいなかった
その2〜3日前に、もし今後もビートルズを続けるなら
今後は自分の曲もジョンやポールと同数にしてくれと
ジョージは主張し、ジョンと激しい口論になった

451ホワイトアルバムさん (ワッチョイ fef2-vJpg)2018/04/10(火) 19:51:06.43ID:7ER5i1en0
>>450
ラスト3行は知らなかったがちょっとジョンの意図がわからない
ジョンはもうビートルズを続ける意思がなくなっているのに
なんでビートルズの今後をジョージと口論するのだろう

452ホワイトアルバムさん (アウアウオー Sa72-RgXf)2018/04/10(火) 22:00:53.44ID:VSb9KGUPa
75年に契約うんぬんで全員集合しなきゃならん時もジョンが来ずジョージがカンカンだったな。
ジョンは複雑すなあ

453ホワイトアルバムさん (ワッチョイ cabf-iCuI)2018/04/11(水) 05:28:27.98ID:2oM1R0yt0
>>452
集合場所がNYでジョンが一番近くにいたのに
ヨーコが雇っていた占い師に風水で日が悪いって
言われたので行かなかったというのがジョンの言い訳
この占い師は後に裏切って暴露本を出した

454ホワイトアルバムさん (ワッチョイ fef2-vJpg)2018/04/11(水) 20:42:15.73ID:MA/FTOCJ0
占い師がいたのになんでジョンは射殺されたんだ
占い師しっかりせい

455ホワイトアルバムさん (アウアウオー Sa72-RgXf)2018/04/11(水) 21:24:12.71ID:LzzbQQpga
>>453
「本当は解散なんて嫌だよぅ〜(╥﹏╥)行きたくないから逃げちゃえ〜」といつものジョンの弱虫発動かと思ってたわ
占いなんて初めて知った。

456453 (ワッチョイ cabf-iCuI)2018/04/11(水) 22:58:47.16ID:k1YhSdop0
うろ覚えだったので本(ドゲット著)を読み返してみた
74年11月にエルトンのコンサートにジョン飛び入り
12月にNYでジョンとメイ・パンがジョージとオリビアに会う
(ジョンとオリビアは初対面)
その週末にMSGで行われるジョージのライヴの初日にジョン飛び入りを約束
「エルトンと一緒にやったのにジョージとやらないのは嫌味すぎるだろ」

そのときNYで4人の代理人が71年以降の印税の分割を可能にする書類を完成
ポールもNYにいたのでジョージのライヴの日の朝に3人で集まって
お互いの目の前で書類に署名することになる・・・ジョン来ない

ジョージ怒りの電話「そのクソったれたサングラスを外してとっとと来い」
それでもジョンは来ず、替わりに「この音を聞け」と書かれた風船を届けさせた
(×風水じゃなく)占星術師にサインするには日がよくないと言われたと言い訳

ジョンの回想「一体どうしてだかジョージのライブには行かなくていいことになった」
替りにクリスマス休暇で来ていたジュリアンがライヴを見に行った
翌日イーストマン事務所でジョンとポールが会い関係書類を渡される
ジョージのライヴの最終日にジョン楽屋に行く(飛び入りはせず)

457ホワイトアルバムさん (ワッチョイWW ffb2-oVp0)2018/04/12(木) 01:28:33.41ID:JKgYy71K0
空気も読まずジョンとシンシアのデートにくっついて回ったジョージ坊や

458ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/13(金) 00:24:49.15ID:64UCMXs20
1970年4月10日のデイリーミラーのポール脱退報道に対して
同じ週にジョンはこんなコメントを発している
「ポールの消息が判って嬉しいぜ あいつまだ生きてたのかよ
なんなら、あいつが抜けたんじゃなくて、俺がクビにしたって
書いてくれてもいいぜ」

「あいつまだ生きてた〜」の下りは当時流行していた
ポール死亡説を受けてのもの

それでも解散発表を出し抜かれた怒りからか、後日有名な
「あいつは解散を宣伝に利用した」という批判コメントを発することになるが
解散の戦犯にされるを恐れてかいつものジョンなら真っ先に主張しそうな
「俺が先に抜けたんだ」という事実はどちらのコメントでも触れられていない

459ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/13(金) 00:27:08.35ID:64UCMXs20
1971年に発売されたリンゴのソロシングルIt don't come easy のB面曲
Early 1970 は、リンゴのほのぼのとしたボーカルと、他の3人に思いを馳せ
最後に「またみんなと会いたい」と締めくくる歌詞が4人の絆を信じたい
ファンには人気の作品だが、この曲にも解散にまつわる陰謀があった

ポールの脱退表明となった1970年4月から半年後の10月に録音された
この曲にクレジットされた元メンバーはジョージだけだったが
ジョンもその場に居て、ポールを騙して録音に参加させようと企んでいた
「クラインがいる限り、4人で演奏することはない」「もうビートルズには
パートナーシップは存在しない」というポールの主張の根拠を失わせたい
クラインの入れ知恵によるものだった

結局ポールはこの誘いにはひっかからず、2か月後の12月に他の3人に対して
「パートナーシップの解消」を求める訴訟を起こした

460ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/17(火) 09:54:13.64ID:LY5af63U0
1969年8月8日「アビーロード」のジャケット撮影 >>432
1969年9月13日 ジョン、トロントのロックフェスに登場
1960年9月20日のミーティングでジョンの脱退宣言 >>450
1969年9月26日「アビーロード」発売

アップルの側近ブラムウェルはこの当時のメンバーの様子を
ジョンとポールはお互いが居ない時にオフィスに来て
(あるいは電話で)自分や、ニール、マルに指示を出し
「あいつには言うな」ということが多くなったと振り返っている

461ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/17(火) 09:56:53.01ID:LY5af63U0
アルバム「平和の祈りをこめて」にもなったトロントのライブだが
チャック・ベリーやリトル・リチャードといった、かつての自分の英雄たちとの
共演だったため、極度に緊張したジョンはそれを紛らわせようと
コカインを吸ったが、かえって逆効果だったようでゲロを吐いて
泣き出すジョンを司会者フォウリーは目撃した

「俺はビートルズ以外のバンドにいたことがない
なのに今日はあいつらが居ない、この気持ちが判るか」

ジョンはジョージには声をかけていたが、ヨーコの唄の演奏を
するのは嫌だと断られていた
ジョンはリハーサル中にクラプトンとフォアマンに俺はビートルズを辞める
興味があるなら新しいバンドを組んでもいいと話していた

レイ・コノリーに解散リークしたのもこのとき>>440

462ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/17(火) 09:59:29.82ID:LY5af63U0
1969年10月 ポール死亡説が流れる

ジョンは公けには脱退や解散を宣言しないまま
ソロ活動をどんどん活発化させていった
人前に姿を見せなくなったポールに死亡説も
流れたが、スコットランドの農場に隠棲していた
ジョンはラジオのインタビューで
ポールとの方向性の違いを指摘する一方で、まだグループの
存続に含みを持たすような発言をしていた

463ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/17(火) 10:00:54.46ID:LY5af63U0
1970年1月3日 ジョン抜きで I me mine がレコーディングされたが
ポールは既にソロアルバムのレコーディングを開始していた

2月6日インスタントカーマを録音し、曲の仕上がりに狂喜した
ジョンは未発売のアルバム「ゲットバック」の編集を
フィルスペクターに依頼していた 
よく誤解されているが、フィルの起用はポールに
無断だった訳でなくポールも条件付で承認していた
「メンバー全員が内容を承認すること」

464ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/17(火) 22:55:55.49ID:b7fAaxz30
1970年3月始めにポールはニールと自分のソロの発売日を相談した
ポールは当初4月10日を希望していたがリンゴのソロ「センチメンタルジャーニー」の
発売が3月27日だったので、ニールはリンゴのアルバムがスポットを浴びる期間を
延ばすため一週遅らせて欲しいと頼み、4月17日発売でポールも同意した

3月23日にマスターテープとジャケット写真を納品した
ポールだったが、25日にアップルを訪れた義兄(リンダの兄)で義父と同じく弁護士の
ジョンイーストマンは、ポールのアルバムの発売日が延期されていることを知った

465ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/17(火) 23:04:36.84ID:b7fAaxz30
フィルの作業が3月中に完成する目途が立ち、映画「レットイットビー」の
4月末の公開に併せて、サントラ的位置づけのアルバム「レットイットビー」の
発売日が4月24日(ポールの予定日の一週間後)と9なっており
ポールのソロは再度先送りされてしまった

ジョンとジョージはグループを最優先すべしとの考えから、ポールのソロの延期は
当然だと考えていた ジョージが「会社の決定(ポールのソロの延期)」を伝える
手紙を書いたがリンゴは、ちゃんと本人に直接伝えないとフェアじゃないと
自分がジョージの手紙を持って、ポールを尋ねると申し出た

466ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/17(火) 23:55:02.76ID:b7fAaxz30
1970年3月31日
リンゴはポールに手紙を渡し、自分も他の2人と同じ考えだと伝えた
ポールは意味不明のことを喚いた後、「すぐにコートを着て出ていけ」
「そっちがそうするなら俺も同じようにやる」と言った

後にポールは、リンゴはクラインが仕向けたと思っていたと弁解した
(リンゴになら辛辣な態度を取らず、延期を受け入れるだろうという狙いで)
リンゴは戻ってポールの剣幕を伝え、結局ポールのソロが予定通りに
発売されることになりレットイットビーは5月に先送りされた

467ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/18(水) 07:08:31.33ID:0Tl2uBMK0
1970年4月1日
リンゴの災難は続く ポールに追い返された翌日
「レットイットビー」の最終オーバーダブでオーケストラと
パーカッションを追加録音するためにメンバーで一人だけ
フィルのセッションに参加していた

この日は作者が誰一人立ち会うことなくAcross the Universe、
I me mine、そして原曲と最も異なるLong and Winding Road に
オーケストラがオーバーダブされるのをリンゴは黙って見ていた

前日のポールの仕打ちへの当てつけではなく当日起きた
トラブルへの対応でリンゴは手一杯だったのだ

468ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/18(水) 07:15:43.23ID:0Tl2uBMK0
フィルはオーケストラに暴言を吐き、契約数以上の演奏を
させようとした為、オーケストラは怒り演奏を中断し、
ボイコット寸前となった
唯一のメンバーのリンゴが事態収集に乗り出さざるを得なかった

この日、エメリックもクラインからエンジニアとしてではなく
「ポール派のスパイ」としてセッションへの立ち合いを要請されていた
もっともエメリックも当時ポールとは没交渉だったので
彼がセッションの様子をポールに報告することはなかった
エメリックは、リンゴにかねて良い印象を抱いていなかったが
自分からトラブル解決に動いたことで見直したと語っている

469ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/18(水) 23:30:13.19ID:b2wqs/g90
1970年4月2日
フィルの「何かあれば今日中に連絡をくれ、
大きな変更は無理だが、可能な限り対応する」と
メモのついた最終ミックスのテスト盤がメンバーに
届けられる ポールの反応が心配なリンゴは、
ポールに電話をした 後にリンゴは
「あの時、ポールは確かにYesと言った」と語った

1970年4月7日
イーストマン事務所がポールの個人マネジメント会社である
マッカートニープロダクションズ(MPL)の設立を発表

1970年4月10日
デイリーミラーがポールの脱退をすっぱ抜く

470ベンジャミン (ワッチョイ ffbf-wnac)2018/04/18(水) 23:32:29.70ID:b2wqs/g90
1970年4月14日
この日になって、ようやくポールはフィルの仕事に異を唱えた
ポールは、オーケストラを全部消せと要求した訳でなく、
音量を下げろと「締切前」なら十分に変更可能な要求だったが
既に製造工程に入っていたためクラインは要求を拒否した

ポールは発売中止請求も検討したが、ビートルズが
もう一枚アルバム発売の契約を残していたので断念した

かつてエプスタインやマーチンが侵すことがなかった領域
作品の改変や、ソロ作品の発売日すら希望通りにならない
状況からポールは離脱することを決意した

471ホワイトアルバムさん (スッップ Sdba-hWI/)2018/04/19(木) 14:39:55.58ID:JT/SqFoXd
効いてる効いてるw
中卒ヒッキーのポールヲタ(笑)ビー板全スレ発狂中(笑)
そんなに悔しかった?(笑)
さっさと全スレ埋めろやバーーーーカw


144 名前:ホワイトアルバムさん [sage] :2017/10/24(火) 09:00:08.03 ID:???0
静岡にレスしてるバカもまとめて氏ね!
ほんときもちわりい

472ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/19(木) 22:23:01.38ID:wH2fTTBE0
1970年4月17日 アルバム「マッカートニー」発売
1970年5月8日 アルバム「レットイットビー」発売
1970年5月20日 映画「レットイットビー」公開
 この年の5月にクラインはストーンズとの
 マネジメント契約が満了し、その後解任されている
1970年5月〜10月 ジョージ オールシングス録音
1970年6月〜7月 リンゴ ボークーオブブルース録音
1970年4月 ジョン、ヤノフ博士のセラピーを受け始める
1970年9月〜10月 ジョンの魂 録音
1970年10月 リンゴ early1970録音 >>459

473ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/19(木) 22:24:28.20ID:wH2fTTBE0
当時メンバーはそれぞれソロ活動を活発化させていたが、
アップルの契約では、ソロでの収入も、ビートルズ同様に
4人で4等分することになっていた

イーストマンはクラインに今後、ポールがソロで得た
収入は直接個人へ支払わるべきだと交渉したが
クラインは返事を保留した

ポールも、メンバー個別に打診を始めたが
ジョンは、何故そうする必要がある?俺には判らない
他の2人が賛成するなら俺も考えると言った

474ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/19(木) 22:28:36.36ID:wH2fTTBE0
次にポールはNYでジョージと話し合った
ポールの回想によるとジョージは話を途中で打ち切り
「お前はこの糞レーベルに居ろ」と言われたという

アップルは元々エプスタインが生前に税理士から
このままだとメンバーの収入の90%が税金にとられるので
会社を作って社員としてサラリーを貰うようにすべきと
節税のアドバイスを受けて作った会社だった

ジョージは後に「会社の立ち上げや、事業の内容を
決めるのに一番熱心だったのはポールだったが
うまくいかなくなると真っ先に関心をなくした」と語っており
ポールに最後まで責任を取れと言いたかったのかも知れない

475ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/19(木) 22:31:07.35ID:wH2fTTBE0
しかし、ポールは知らん顔をしていた訳でなく
EMIの代表者のロックウッドや保守党の元党首に相談し
イギリス国鉄の元総裁で赤字解消のための大リストラを
敢行したリチャード・ビーイングを紹介され
ビーイングから「なんなら自分がアップルに国鉄と
同じことをしてもいいが(赤字部門の閉鎖と人員削減)
それよりもまずはフルタイムマネージャーを雇うべきだ」と
アドバイスを受けた

エプスタインの死後、彼の替りはいないと後任を
選ばなかったビートルズだったが、ビーイングの助言を
元にポールは新たなマネージャーの選任を提案したが
結果的にそれがクラインvsイーストマンとして亀裂を生み
ポールは孤立することになった >>445

476ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/19(木) 22:35:08.92ID:wH2fTTBE0
ジョージの拒否で、メンバー間の合意による
ソロ印税の分割、レーベル離脱の道が閉ざされた
ポールの選択肢は、一つに絞られていった

そんなポールやイーストマンの動きを察知して
封じようとする企てもあった >>459

誤解している人も多いが、ポールは自分の替りに
クラウスを入れた、新ビートルズの結成を
阻止しようとして裁判を起こした訳ではない
むしろポールの訴訟の言い分が通れば、
3人は誰と組もうが自由でポールには
口出しする権利がないからだ

477ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/20(金) 20:14:03.05ID:0TAtUCCD0
>>475
× リチャード・ビーイング
○ リチャード・ビーチング

1970年 「12月8日」
ジョンはマンハッタンのクラインのオフィス(ABKCO)で
ローリングストーン誌のインタビューを受けていた
この時、頭痛薬と下剤が用意されていたといい
ジョンはコカインを使用していたと思われる

ジョンは4月からヤノフ博士の原初療法
(プライマルセラピー)を受けていた
これは自制を全く無くし、心情を全て我慢せず
吐露するというもので、このセラピーのために
ヤノフ博士の指示通りヨーコと別居
(同じホテルの別の部屋)するほど熱中した
また、食事も自制もしなかったので、ジョンは
4月から8月までに10キロ太っていた

478ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/20(金) 20:16:03.93ID:0TAtUCCD0
このセラピーの成果として「ジョンの魂」が産まれたが
RS誌のインタビューでは、コカインの影響もあって
ポールはもちろん、同じクライン派のジョージ、
リバプール以来の仲間のニールとマル、
広報のデレク・テイラー、そしてジョージ・マーティンまでが
ジョンの毒舌の餌食になってしまった

後にジョンは、マハリシに飽きたときのように、
ヤノフ博士とも距離を置き、あっさりと
インタビューの発言を否定するが、多くのファンは
ジョンが10年後に亡くなるまでこのインタビューが
ジョンのビートルズに対する本音であると信じられた

479ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/20(金) 20:18:12.07ID:0TAtUCCD0
このRS誌のインタビューの中で解散の理由を訊かれた
ジョンは有名な「もう俺たちはポールのサイドメンで
いることにウンザリしたんだ」とのコメントを残したが、
そのすぐ後にポールだけが原因ではないとし
「俺はずっと続けていけると思っていた
あいつらがヨーコを受け入れてさえいればな
でも、あいつらかヨーコかを選ぶことになって
俺はヨーコと結婚した」と語っていた

1970年12月28日
イギリスに戻ったジョンはこの日初めて
テレビ放映された映画ハードデイズナイトを見て
ショックを受け、動揺した
つい先日、自分が罵倒した相手たちと過去の自分が
とても楽しそうにしていたからだった
自分への皮肉もこめてI'm the greatest という
曲をジョンは書き始めた

480ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/21(土) 23:36:06.48ID:CnCkFNmz0
1970年12月31日
ロンドン高等法院 
「1967年4月に締結したパートナーシップ契約に基づいて
 設立・運営してきたアップルの共同経営関係の解消」が
訴訟の主題だったが、むしろポールの目的は付帯事項の
「解消後の管財人の選定」で、クラインの動きを
封じるものだった

訴訟理由
1)ビートルズが演奏しなくなって久しい
2)3人が自分が承諾していないマネージャーを選任した
3)このパートナーシップにいる限りソロ活動すら制限を受ける
4)アップル設立以来まともに帳簿が作成されていない

481ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/21(土) 23:38:28.04ID:CnCkFNmz0
ポールの代理人は勅選弁護士のデビッド・ハーストだった
年明けにポールはアメリカに渡り「ラム」の制作を再開した

裁判は三流の喜劇のようだった、一番最後に抜けた
ポールが「既に4人のパートナーシップはない」と主張し
先に抜けた3人がそれに反論する立場になっていた

被告は3人とも出廷せず書面による証言だった

ジョンの証言は裁判用に弁護士が大幅に添削したと思われる
パートナーシップなど微塵も感じさせない
先日のRS誌のインタビューとは全く矛盾する
内容だったからだ >>477-479

482ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/21(土) 23:39:47.47ID:CnCkFNmz0
ジョージは、ポールから受けた仕打ちを具体的に挙げ
(半人前扱い、弾き方を指図等)、自身は一度抜けたが
ポールが態度を改めたのでまた戻ったと述べた

リンゴは、ポールは音楽に対して自己を貫き通す余り
摩擦を産むこともあるが、結果的にそれが良い作品を
産んだと控えめに述べた

しかし、3人がポールを批判したり、クラインを
擁護すればするほど、3人対ポールの構図が明確になり
ポールの主張の裏付けになってしまった

ポールは一度だけ出廷し、自身で証言した
概ねクラインへの批判で、クラインも
被告席ではないが、法廷にいて、それを聞いていた
その後ハーストは会社の財政状況やクラインが
アメリカで受けた脱税の有罪判決などを追求した

483ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/21(土) 23:40:57.15ID:CnCkFNmz0
1971年3月12日
ジョンの Power to the People が発売されたこの日
裁判はポールの勝訴となった、敗訴を聞いて
怒った3人が裁判所から車でポールの家に乗りつけ
ジョンが窓にレンガを2つ投げつけたという噂が
流れたが当日は3人とも出廷していなかった

1971年3月16日
被告には1週間の上告期間が与えられたが
判決から4日後の控訴期間中のこの日
アメリカで、それこそ3人がレンガを投げつけて
控訴したくなるような光景が展開された

484ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/21(土) 23:43:20.93ID:CnCkFNmz0
フィルの仕事をあれほど否定し、裁判まで
起こしたはずのポールは、グラミー賞の
授賞式で最優秀映画音楽賞の受賞者として
ビートルズを代表して壇上に上がっていた

ポールの出席は3人への当てつけではなく(多分w)
シングル Let it be がレコードオブザイヤーに
ノミネートされおり作曲者として出席したのだった
(受賞したのはS&Gの明日に架ける橋)  

結局上告は断念され判決が確定した

485ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/22(日) 23:44:31.78ID:uRnbPiBZ0
勝訴したポールだったが
パートナーシップ解消の協議は進まず
1975年1月にようやく、1974年10月以前に発売された
作品の収入はグループ・ソロを問わず4等分
それ以降に発売されたソロはそれぞれ個人へ
という形で決着する

その間、1973年3月末でクラインとの契約の任期が
満期になるとポール以外の3人は再契約せず、
クラインとビートルズの間で訴訟合戦が起こり
決着は1977年まで時間がかかった

486ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/22(日) 23:46:32.81ID:uRnbPiBZ0
1973年3月13日
クラインとの契約切れ直前、ロスでジョンは
リンゴに2年前に書いた I'm the greatest を
提供し一緒に録音していた >>479
そこにジョージから「俺も行っていいか」と
電話がありジョージも加わった

クラウスがベースでビリー・プリストンも居たが
ジョンはこのときの様子を「そこには俺たち3人が居た
ポールがいたらあいつも一緒に演っただろう」と語った

ジョージはこのセッションのあと
ジョンにまた組もうと持ち掛け、ジョンは困惑したらしい
(再結成しても)「どうせ粗探しされるだけだ」

487ベンジャミン (ワッチョイ 9abf-Nlus)2018/04/22(日) 23:48:02.14ID:uRnbPiBZ0
また、どういう心境か
ジョージはクラインと再契約しなかった理由を
アップルのアメリカ支社長のステックラーに電話で
「俺たちがまたポールと一緒にやるためだ」と語っている

その後もこの手の話は、何度か浮上し、誰かが
前向きな発言をしても、別の誰かがそれを否定して
立ち消えになるというパターンを繰り返すうちに
ジョンがこの世を去ったため、遂に実現しなかった

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