田川滋
@kakitama
現在表現規制を主張・容認するのがリベラルか保守かと言う”自分目線”より、
表現規制反対運動の論理がリベラリズムからリバタリアニズムに「変わった(あるいは明確化した)」のだと「自己理解」した方が、早いと思いますよ。
22:57 - 2017年8月21日

保守とリベラルとどっちが自分の味方か、と天秤にかけるそう言う貴方はリベラルなのか保守なのか。
どっちでもない、と言いますか。あらゆる政治マターと関係なく(つまり最上位に置いて)「表現規制か反対か」だけを問題にしているのだ、と。
それを「リバタリアニズム」と言うのですよ。

リバタリアニズムの特徴の一つは「精神的自由と経済的自由を同一視する」ところにある。
つまり「独禁法」や「累進課税」を作った20世紀型ニューリベラリズムへの反動であり先祖帰りであり、新自由主義(ネオリベラリズム)と大半は重なる。ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA…

現在の日本の憲法の司法解釈において、権利行使が「公共の福祉」によってどの程度制約されるかは「精神的自由」か「経済的自由」かで”二重の基準”がある。
精神的自由はより守られるが、経済的自由はより制約される。20世紀型リベラルの考え方ですね。
しかしリバタリアニズムではこれは同列。

続)これを漫画の話に当てはめれば「自分の好きな内容の漫画を部屋で描いて同好の士に見せる」自由も、
それを社会にオープンにして商品として販売する自由も、リバタリアニズムにおいては「同一の権利」として認識され、主張される事になるわけです。

続)山田太郎前議員の表現規制反対運動も今は「オタクを”消費者”と位置づけた消費者運動」と言う事になっているのもいかにもリバタリアン的だが、
描き手の権利は関係ないらしいだけでなく、”場”にいる人全て「参加者」、と言う理念を掲げるコミケの横で「消費者」ですか、と個人的には。

続)リバタリアニズムは本来、人間が自然発生的に協同して社会を運営すれば国家の管理は必要ないと言う理屈なので、古典的自由主義と同様に人が「市民としての道徳を持ち社会に貢献する意思を持つ」事が前提。
「消費者」と言う、売る側の事も他の消費者の事も考えない「お客さん」では困るわけです。

続)また本来「消費者運動」は生活の基盤を守る社会権の確保のために行われるものであり、嗜好品・不要不急品のために行うものではない。
「消費者」と言うお客さんを主体とするリバタリアニズム、あるいは新自由主義は 詰まるところ私益の追求、エゴイズムの言い換えでしかない。

続)私益の追求としてのリバタリアニズムはつまり「他者への無関心」。
これを正当化する原理として意識無意識に飛びつく。 「表現が誰かの現実に悪影響を及ぼすか」なんて事は”そもそも考えない”属性。
自分に問題がないと思えばそれで終わり。 「Hell with you」(勝手にしろ)。

続)自分は自分の自由が侵されない限り他の国民のことなど一切どうでもいいが、社会は自分の自由を満たすために回っていてくれないと困る。
ここから「国家への無限の依頼心」も生まれ、キメラで自己矛盾な「愛国的リバタリアン」が生まれる。
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