今、四海必ずしも波穏やかならねど、日の本のやまとの国は 鼓腹撃壌(こふくげきじよう)の世をば現じ
御仁徳の下、平和は世にみちみち 人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし 利害は錯綜し、敵味方も相結び、外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑怯をも愛し、邪なる戦(いくさ)のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能はず いつはりの人間主義をたつきの糧となし
偽善の団欒は世をおほひ 力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され、
若人らは咽喉元(のどもと)をしめつけられつつ 怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ 羊のごとく歩みを揃へ
快楽もその実を失ひ、信義もその力を喪ひ、魂は悉く腐蝕せられ
年老ひたる者は卑しき自己肯定と保全をば、道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおおひかくされ、真情は病み、道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し 魂の死は行人の顔に透かし見られ よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば 人の値打は金よりも卑しくなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰えたる美は天下を風靡し 陋劣(ろうれつ)なる真実のみ真実と呼ばれ、
車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、大ビルは建てども大義は崩壊し
その窓々は欲球不満の螢光燈に輝き渡り、朝な朝な昇る日はスモッグに曇り
感情は鈍磨し、鋭角は摩滅し、烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に澱み ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。
天翔けるものは翼を折られ 不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)う。
かかる日に などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし

三島由紀夫
「英霊の聲」より