数式なんかどうでも良い、君はその物理現象をどう考えているのか、それを言葉で説明してくれ! [無断転載禁止]©2ch.net
私たちは運動する物理存在を否定の静止で理解します。
わたしという物理存在は生まれてから現在に至るまで物理として大きく変化していますが、わたしという同一で理解します。
というか同一であることはありません。
宇宙そのものがそうです。
生物分類ではウィルスという生物、非生物という分類困難な対象が出てきたりします。
これは物理として分類できます。
諸生物は遺伝子の差異であり、否定関係ではありません。
生物、非生物も物理存在の差異で否定関係ではありません。
私たちは差異を否定関係で理解します。 物理としては生死は実在しません。
誕生は物理状態の変化、死もまた。
食べ物も金属、いや素粒子も姿が変わるだけです。
物理状態は同一であることはありません。
物理としては何も足されませんし、減りません。
差異を否定で理解しますから、ここから生、ここから死という境目は生死そのものが実在しませんからありません。
ウィルスは差異を否定で理解しますから鵺的になるだけで、対象自体はそうですはないように、生死もまた物理存在としては差異であり否定関係ではありません。 ここからトンデモ理論の展開です。
光速度一定の原理原理主義派の主張をしますので、眉に唾塗ってトンデモ第二世代リロン、乞うご期待。 まずは軽いジャブから。
端からジャブジャブのトンデモですが。
(オヤジ丸出しでどーもすいません。)
自然が運動していたら、運動を前提に否定関係は導けません。
自然は運動するエネルギーの濃淡の海ということになります。
いわゆる真空もディラックの海でエネルギーの一形態と理解できます。
観測問題は波が渦の状態という理解になります。
この理解は古代ギリシャ、十九世紀英国科学者でもありますし、現在はブリゴジン学派がその予想の下で研究していますから突飛とは言えないでしょう。
光速度一定の原理万能派の所以です。w とりあえず所論をアップします。
一週間はかかりますので、それまでは議論できませんので、ご了承ください。 書き忘れました。
朝永振一郎氏は、ドイツ留学日記で物理学の自然はたわめられた自然だと記しています。
わたしは朝永氏同様に科学理論=自然とは理解しません。 宇宙背景放射で宇宙論はビッグバン仮説で決まりということですが、ある天文学者は違う理解が可能だという論文を出しました。
スムート博士はその可能性は否定できないとコメントしました。
どういうことかというと、十九世紀末にアメリカの天文学者が火星観測で「運河」を発見したのと同じ間違いだと記事は締めています。
科学史は科学者が発見観測した対象を必ずしも理解しているとは限りません。
酸素を発見した科学者は燃素説を否定されたことに気がつきませんでした。
N線事件は存在すらしませんでしたが、国家の最高賞を受賞しました。
ほかにも脚気と鴎外、産褥熱と医者の関係とか、科学者が人間であることが良くわかります。
一番有名なのが天動説です。
ですから宇宙背景放射という現象もまた天動説的理解かもしれませんし、現在の科学理論にそういう性格のものがあるかもしれません。
現在の科学は革命が必要な段階だと主張する科学者もいたりします。 実は七十年代にハイゼンベルク、武谷三男氏らが現代科学の傾向に批判的であり、武谷氏はすでに主流であったビッグバンの仮説を退け無限宇宙論を取り上げています。
九十年代にはアメリカの科学者は当時の科学状況を総括して科学革命が必要な段階だと述べています。
この年代にはドイツの科学者が時間が存在しない可能性を指摘しています。
二十一世紀に入り、ある科学番組では時間非実在説はもちろん、重力非実在説を唱える科学者さえ登場します。
現代の学問は科学でさえこの現状です。
このことは、人間の文化は発展途上であり大きな可能性をまだ秘めている可能性があると言えるかもしれません。 ここで科学革命について概観します。
地動説は地球もまた諸天体の一つであり、進化論は人間もまた生物の仲間だと示します。
この二つの科学革命は自然には特別な惑星、生物は存在しないことを示します。
この自然には特別ななにものも存在しないことを究極として示したのが光速度一定の原理です。
この原理は絶対座標、つまり静止するなにものもこの自然には実在しないことを示すからです。
つまり運動は自然の存在形態であり無矛盾であることを示しています。
科学革命はもう一つの側面があります。
自然という対象を理解する場合、自然を理解する側が当然在ります。
天体観測では地球が静止していると仮定しますが、地球、人間は自然の在り方の一つで特別ななにものではありません。
ここでわかるように、自然認識は自己言及でもあるということです。 ここで自己言及について考えてみます。
三浦つとむという学者はその認識論で観念的自己分裂という概念を論じています。
例えば自分が住んでいる街の地図を描く場合、頭の中で空から街を眺めることができます。
また太陽系、銀河系、量子の世界にまで頭の中では入って行けたりします。
小説を読んだり、テレビドラマを見る時は主人公になることができますし、古今東西の人間にさえなれたりします。
赤ん坊を見て過去の自分を想像したり、老人を見て自分の未来を想像します。
この頭の中のもう一人の自分を三浦氏は観念的自己分裂と名付けました。
私たちは対象を認識し表現します。
現実のわたしを観念の中のわたしは他者として認識し「わたし」と表現します。
観念的自己分裂は自己認識を可能にします。
地動説では実在しない座標原点を設定します。
静止は運動の否定であり実在しませんし、観念の中の自分も物理としては実在しません。
これらは自然を認識するためには必要ですが実在しません。
光速度一定の原理は絶対座標の否定で自然が無矛盾であることを示し、実在しない静止で理解することを示します。
この原理は自然認識が自己言及であり、自然認識の在り方にも自己言及しています。 光速度一定の原理は絶対座標の否定で自然が無矛盾であることを示し、実在しない静止で理解することを示します。
この原理は自然認識が自己言及であり、自然認識の在り方にも自己言及しているのです。
例えば物理存在としての「わたし」は生まれてから現在に至るまで大きく変化していますが同一の「わたし」と表現します。
実は物理としての「わたし」は静止、つまり同一であることはありませんが同一で表現します。
森羅万象がそうです。
生物分類ではウィルスという、生物、非生物と分類困難な対象が出てきます。
しかし物理としては、生物、非生物は差違であり否定関係ではありません。
諸生物の中には分類困難な対象が出てきますが、やはり差違でしかありませんし、否定関係ではありません。
ゼノンの「飛ぶ矢の逆説」は飛ぶ矢は空間の一点に必ず存在するが、静止は空間の一点に存在することだから飛ぶ矢は静止していると論じます。
現代科学は光速度一定の原理により静止の実在は否定しています。
十七世紀オランダの哲学者スピノザは規定は否定であると述べました。
物理としてのわたしは非同一ですが同一とします。
生物、非生物は物理としては差違ですが否定関係とします。
「飛ぶ矢の逆説」は運動を静止で規定することを示します。 私たちは自然をそのまま認識できません。
目の前の空気中にも様々な物理存在がありますし、それらは各生物の認識器官の在り方で生成され現象します。
ある種の蝶は人間には雌雄羽の色が同じに見えますが、その蝶同士は可視範囲が違うので雌雄の色が目には違って見えるということです。
人間では老人と若い人の可聴範囲が違うので、それを利用することがあるようです。
味覚は年齢によって違い、訓練によって能力は違ってきます。
つまり同じ自然でも生物の感覚の在り方で差違として現象するということです。
視覚が無い生物がありますし、環境との関係でも違うわけです。
光速度一定の原理は、静止するなにものも自然に存在しないことを示しますから、量子力学の自然観である、運動するエネルギーの濃淡の海という理解を指示、支持します。
ディラックの海は真空はエネルギーの一形態であることを意味します。
自然に無は存在しませんが、無、否定で理解するわけです。
自然に展開するのは運動するエネルギーの濃淡であり、その親和と反発による生成過程の多様な展開です。
物理としての私たち人間もそういう存在です。
現在の物理学では自然は最小単位から成るとしますが、ある物理条件下で素粒子等に生成されるのであり、いわゆる観測問題は波が渦の状態を呈しているとすれば矛盾しません。
この理解は古代ギリシャ哲学の一派、十九世紀英国の科学者、近年ではブリゴジン学派がこの予想の下に実験をしているとある科学者は述べています。
自然はエネルギーの濃淡として存在しますが、生物の認識能力の在り方で独立して現象するわけです。 また運動をその否定である静止で理解するということです。
数学では0に限りなく近いが0ではないという不思議な説明があります。
0次元は座標原点で静止ですが、自然は運動しています。
量子力学では不確定性原理があり、位置と速度は同時には正確には測れないですが、元々対象としての運動を静止で測るのですから正確とはなりませんし、測定は=ではなく近似値にしかなりません。
近年量子力学の分野ではエネルギー保存則 の破れが言われますが、近似値でしか測定できないから当然です。
朝永氏が語る物理学の自然はたわめられた自然の一つの在り方です。
また現実は自然以外実在しませんから、どこにも消えませんし、また生じることはありません。
光速度一定の原理は0次元の実在を否定し、また次元一般も否定します。
自然には運動しない三次元は実在しません。
四次元が静止している三次元でできているなら、無限の三次元が実在することになります。
「今」と指示しますと「今」は飛び去ります。
「今」とは運動を静止、有を無である静止で理解した言葉です。
ですから、直接ではなく限りなく0に近いが0に近いという決定不能で理解します。
私たちは縦横高さと言いますが、それぞれ独立して実在しません。
それらは対象としての物理存在の抽象ですし、時間もまた物理の運動の抽象です。
同時性は観測、つまり認識に対象化しようとするのですが、光速度一定の原理から同時性は観測できません。 果物自体は個々に存在しますが、果物一般は抽象で実在しません。
次元もまた抽象です。
時間は、太陽、月、光等諸物理形態の「ここ」から「ここ」までという運動の抽象で時間自体は自然に実在しません。物質は運動変化していますが、その大きさを三次元で理解し、運動を四次元、時間で理解する。
三次元自体は抽象ですし、四次元は運動の抽象ですから時間自体は実在しません。
次に重力を考えてみます。
ライプニッツ、ホイヘンスはニュートンの重力方程式に敬意を表しましたが、遠くから魔術的に作用するという重力の説明には納得しませんでした。
自然が運動するエネルギーの濃淡の海ならば直接に働きかけますし、この重力の正体も運動に必要なエネルギー量ということになり重力という概念は必要ありません。
また諸力はその様な物理状態に生成するというのに必要なエネルギー量と理解され力の概念は必要ありません。
自然は運動するエネルギーの濃淡から成り、素粒子、生物、銀河系などに生成して行きます。
つまり次元も諸力も自然には実在しません。
私たちは自然を次元、つまり否定で理解しますが、次元は自然には実在しません。 十七世紀のオランダの哲学者スピノザは「規定は否定」としたそうです。
この観点から哲学史を眺めてみます。
山川偉也氏の「ゼノン4つの逆理」に拠れば、ゼノンの逆説は、世界は「一」だと主張する師のパルメニデスの自然哲学を批判するピタゴラス学派に対し反駁し、擁護したものです。
「競技場の逆説」では時空に最小単位があればその半分があること、つまり最小単位は存在しないこと、を証明します。
ピタゴラス学派は、数は大きさを持たないとします。
ゼノンは自然が大きさの無い数で出来ていたら、私たちは目的地に達することもないしアキレスは亀を追い越すことはできないと「二分の一の逆説」「アキレスと亀の逆説」で証明します。
また自然が大きさの無い数で出来きていたら、運動は不可能だと「飛ぶ矢の逆説」で論証します。
つまりゼノンの逆説は自然は「一」であり「多」ではないことを論証したのです。
現代科学は光速度一定の原理で座標原点、つまり大きさの無い点、数の実在は否定していますからパルメニデスの自然哲学、自然は多でなく一であることを裏付けています。
つまり、自然は運動するエネルギーの濃淡の海なのです。
カントは時空に終始が在ると同時に無いことを論証しました。
光速度一定の原理は座標原点、つまり始まりの実在を否定し、また始まりという実在しない座標原点を仮に設定し、運動を量で量ります。
始まりが自然に実在しないのですから終わりも当然ありません。 自然に終始は実在しませんが、自然は終始で理解することをカントの二律背反は論証しました。
生物など自然は様々な態様に生成変化して行きます。物理としての自然には何も加わりませんし、減りません。
物理状態は恒常として在ります。
規定は否定ですから運動変化をそのまま反映できません。
ウィルスは生物、非生物という分類の在り方を示すように、生死の分類もまたそうです。
自然は物理としては「一」で否定関係としてではなく差異として在ります。
それを生物、非生物、生死と否定で規定しますから当然有効範囲があるわけです。
物理学の自然もまたたわめられた自然、つまりそのままの自然ではありません。
カントの二律背反は自然と認識の関係を示しています。
ヘーゲルは「運動とは存在すると同時に存在しないこと。」と定義します。
古代ギリシャの「クレタ人の逆説」は「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った。」というものです。
クレタ人が嘘つきなら、クレタ人は嘘つきだと「正直」には言いません。
またクレタ人が正直ならクレタ人は嘘つきだと「嘘」は言いません。
この逆説は対象規定そのものを自己言及し、この自己言及が規定を否定するからです。
ヘーゲルは運動を存在という静止、つまり否定で理解することを念頭にしています。
対象としての運動は存在するのですが、存在という規定は静止ですから、静止としての存在は否定されます。 つまり存在という運動の否定で運動を定義しなければならないから決定不能となり「運動とは存在すると同時に存在しないこと」と定義しなければならないわけです。
光速度一定の原理は自然に終始が実在しないことを示しまますから無限宇宙を指示します。
自然以外には何もありませんから、物理として増減することはありません。
エネルギー保存則は根本的に成立しますが、その破れとはそのまま正確には、つまり近似値でしか測定可能ではないからです。
この無限宇宙を有限、つまり否定で理解することをこの原理は示しています。
数学の不完全性定理は有限を無限で理解しています。
ヘーゲルの運動定義が示すように、対象の否定で理解し、その事に言及すると決定不能になります。
クレタ人の逆説は、対象をその否定で理解すると決定不能になることを端的に表しているのです。 光速度一定の原理は自然が無矛盾であることを示しましたが、運動する自然を論理は否定、静止という非自然で規定します。
つまり自然は無矛盾、理解可能であるが故に決定不能なのです。
自然は量子力学が示すように、運動するエネルギーの濃淡の海であり、反発、親和の過程を経て様々な差異としての物理状態に生成すると理解します。
次元の実在を光速度一定は否定していますが次元で理解されます。
重力は運動ですし、他の力はある物理条件の下に生成するのに必要なエネルギー量で力自体が存在しません。
自然は無限で運動変化して行く過程として存在します。
自然は生物が無限の物語を展開した遺跡であり人類もまたそのようなものとして存在し、また新たな生物が物語を展開して行く舞台として存在するとも理解出来ます。 前に書いたことをアップしました。
いろいろ補足しなきゃなりませんが、とりあえずです。 ま、トンデモですから目くじらたてないでください。
軽い気持ちで読んでください。 科学者は哲学を軽蔑するが、その実最悪の哲学に囚われている。
ある思想家の言葉です。 1秒も1日もどんな時間も自然には実在しない
時間で対象化した自然は自然自体ではなくたわめられた自然 1秒も1日もどんな時間も自然には実在しない
時間で対象化した自然は自然自体ではなくたわめられた自然 ハイゼンベルク、武谷は現代物理学の傾向に否定的な発言をしている
現状は新しい理論が求められているようだし、新たな科学革命が必要な段階と主張する科学者もいる 時間、重力は存在しないと大真面目に論じている科学者もいる
時間非実在論者は増えていると読んだことがある 個人的には学問は中世に毛が生えた程度
まだ天動説を本質的には克服していないって思う 光速について
カタツムリ、新幹線、音波(空気中の)、音波(鉄道のレールを伝わる) 、地震波、光(真空中の対光源の)、光(対エーテルの)、光(対空気の: さまざまの気圧の)、光( 空気以外の媒質中の)。すべてガリレイ変換。 宇宙空間で鏡が星の光を反射しています。反射光は射出説(数秒間) に従い、入射光はエーテルに從う伝播。宇宙空間で光の伝播は二通りなのでしょう。
反射光をもってバカは光速不変を唱える。 >>550-551
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50歳くらいまで同棲してあげなさいよ