終戦当時朝永は東に湯川は西にいた。物理学の帝王と呼ばれた湯川と
物理学のカミソリと言われた朝永はライバルである。名古屋の学会では
彼らの論争をまるで川中島の戦いだと称していた人もいる。
朝永は戦後くりこみ超多時間理論と次々と独創的な理論を打ち出しまさに物理学の魔術師と呼ばれるにふさわしい業績を出していたが、湯川の場合は非局所場の理論を提案していたがうまくいかなかった。南部はその辺りを理解していて
やはりアメリカに行くしかないと思ったと思う。
武田信玄こと湯川、上杉謙信こと朝永。肩苦しい雰囲気を察したのである。
もちろん、孤高の天才といわれた坂田もいたが物理学の松下村塾といわれた坂田
スクールはまだ先の話である。おそらく、南部が名古屋の松下村塾といわれた
坂田の助手になっていたならクオークモデルは坂田、南部が先に提案していたノーベル賞は彼らに授与されていただろうと思われる。この場合ゲルマンは
自発的対称の破れを提案していたことになりノーベル賞は大きく遅れたと思われる。