しかし長い目でみればあらゆる人間の意志は挫折する。思うとおりに行かないのが人間の常だ。
そういうとき西洋人はどう考えるか?『俺の意思は意思であり、失敗は偶然だ』と考える。
偶然とはあらゆる因果律の排除であり、自由意志が認めることのできる唯一の非合目的性なのだ。
だからね西洋の意思哲学は『偶然』を認めずして成立しない。偶然とは意思の最後の逃げ場所であり
賭けの勝敗であり、・・・・・・・・・・これなくして西洋人は意思の再々の挫折と失敗を説明
することができない。その偶然、その賭けこそが西洋の神の本質なんだと俺は思うな。
意思哲学の最後の逃げ場が偶然としての神ならば、同時にそのような神だけが人間の意志を鼓舞するようにできている。


しかし、偶然と言うものが一切否定されたとしたらどうだろう。どんな勝利や失敗にも、
偶然の働く余地一切なかったと考えられるとしたらどうだろう。そしたらあらゆる自由意志の逃げ場が
なくなってしまう。偶然の存在しないところでは、意思は自分の体を支えて立っている支柱をなくしてしまう。

               豊饒の海 春の雪 三島由紀夫