監督クラッシャー=吉永小百合

私は、市川崑作品を偏愛している。市川崑監督の映画は、全て観たい、と祈念している。だが、そんな私でも観るのを躊躇している作品が一本だけある。

吉永小百合主演「つる―鶴―」である。

市川崑監督の生前、私はこの方の新作がかかると劇場に駆け付けた。ところが、「つる―鶴―」だけはたたらを踏んだ。グズグズと観ないでいるうちに、上映が終わった。VHSもDVDも観る気になれない。

同じように観たくなかった映画に、篠田正浩監督「桜の森の満開の下」がある。
坂口安吾の原作は、私が愛してやまない小説だ。岩下志麻、若山富三郎というキャスティングは考えうる最高のものだろう。しかし、スチール写真をみて、どうにも観る気がしない。

数年前、新文芸坐の岩下志麻特集でかかった時に、「えいやっ!」、と清水の舞台から飛び降りるつもりで観た。

酷かった。ほんとうに、どうしようもない映画だった。

何か、私は、映画に関して、こうした勘が働くらしい。「ダメだろう……」、と思って観た映画は、たいてい駄作だ。

公開当時、非常に評判が悪かったのを覚えている。「鶴の恩返し」を90分の映画に出来るもんかね、という気がその頃からしていた。しかし、それより何より、「ダメだろう……」という予感が強烈にするのだ。だから、観たくない。

先日、春日太一『市川崑と『犬神家の一族』』(新潮新書)を読んでいて、吉永小百合を「監督クラッシャー」と評しているのを眼にして、ポンと膝を打った。春日氏は、次のように書いておられる。

〈吉永小百合と組むようになると、ほとんどの監督が駄作を連発するようになり、評判を落としていく。そんな彼女の現在にまで連なる「監督クラッシャー伝説」の生贄の一人が、市川崑でした。〉

春日氏は、「つる―鶴―」以降、〈市川崑は観客から「つまらない大作を撮る監督」と思われるように〉なった、と述べている。

1985年以降の市川作品については、私の評価と春日氏のそれとは重ならない点もあるのだが、吉永小百合を「監督クラッシャー」と命名したのは、見事な批評だと思われる。

高倉健さん没後、新文芸坐は、高倉健特集を頻繁に行っている。私はそこで、未見であった森谷司郎監督「海峡」、「動乱」を観て愕然とした。