コピペにコピペで答えましょう


 ここは発想を転換して、最終的に「戦後民主主義の偶像」・「団塊世代の女神」という立ち位置を
引き受け尽くして役割をまっとうし尽くさんとしている彼女の「演技」力を賞賛したい。

 すなわち、吉永小百合は、ある時期から自分の立場をわきまえて、女優として演技者としてのある種のエゴを
意図的に抑えているのだ、というふうに私は思うようになったのである。
 吉永小百合は、桃井かおりのようなアクの強い演技も、犯罪者役も決してしない。
自分に言い聞かせているに違いない。決して悪役やカタキ役や道化役を演じてはいけない。万一そんなオファーが来ても受けてはいけない。
なぜなら自分は吉永小百合だからだ。生ける伝説、生ける偶像だからだ。・・・
 と、そのように自分の社会的責任を自覚しているのではないか。・・・最近ようやくそれがわかってきた。
だから、演技が上手い下手というより、エキセントリックな演技をするような特異な役を受けることを
自らに禁じているのではないか。
 国民的スーパースターとしての地位の責任から自らの仕事をそう律しているのだという想像自体はおそらく的外れではあるまい。

「いつまでも学級委員のような『清く正しく美しく』の役柄ばかりでいいのか?」
「いいのだ。いや、そうでなくてはいけないのだ。なぜなら私は吉永小百合だからだ」

 女優としての表現欲を抑え、そう確信をもって割り切る境地に達するまで、おそらくかなりの時間が要ったであろうと想像する。


 私はあらためて思う。
 個性的でキュアーな役柄に挑戦し、役者としての力量を思う存分に発揮する大俳優も尊敬に値するが、
自分の存在は自分ひとりのものではない、ファンのもの・社会のものだと自覚し、その役割を忠実に「演じ」続ける、
そんな愚直なまでの律儀な取り組みを続ける彼女もまた、尊敬に値する「大俳優」であると。