女優になりきれなかった人、吉永小百合

 私は昔から吉永小百合が嫌いで、あまり彼女の映画もみたことがない。わずかに見たなかでは、若い頃の「泥だらけの純情」(浜田光夫との共演 1963年)が良かったが、
映画のテーマが良かったのであって、彼女の下手な演技には目をつぶりたくなるほどだった。

 吉永小百合は八千草薫と似ていて、幾つになっても年をとらない女優である。吉永は67歳、とてもそうは見えない。
別に子供を生む生まないは自由だが、ご両人とも子供を生まなかったからであるのかもしれない。
 年をとらないのは良いことのようでもあるけれど、異様ではある。相当、美容に気を遣っているのか、生来能天気でいられるためか…。

 吉永小百合は大女優ということになっているけれど、私はちっとも「大」がつく女優とは思えない。たしかにたくさんの映画に出、人気もずっとあった。
 しかし女優としては落第だと思う。
 演技になっていない。今度の『北のカナリアたち』も、映画は見る気になれないが、予告編を見るだけでも、吉永は相変わらず「吉永小百合」を銀幕で見せているだけで、役になりきれていない。

 だから酷評すれば、吉永の演技はいつまでたっても“学芸会”のレベルでしかないのに、かえって驚く。実に今度の作品で116本目の出演作になるんだそうだ。

 ほかの女優は役づくりに努力する(はず)のだが、吉永小百合は子役時代からずっとチヤホヤされつづけ、スターに仕立てられてきた。
顔さえ見せれば、あるいは歌さえ歌えば大衆は陶然としてくれた。歌のへたさにはこちらが恥ずかしくなるほどであった。
 だから役作りを懸命にやらないと業界で使ってもらえないという切迫感がなく来てしまったのだと思う。

 たまたま床屋に置いてあった週刊新潮(‘12.11.15 )に、吉永の記事が出ていた。映画評論家の北川れい子氏が、
 「吉永さんは凄いなと思うと同時に、唖然ともしましたね。というのも、今回の映画だけではありませんが、吉永小百合さんはひたすら“吉永小百合”を演じていました。
もう演技が上手い下手は関係ない。常に優しく綺麗で誠実なキャラクターです」。