70年代半ばから80年代前半までの東映は、日活の監督をバンバンとスカウトしてたが、
村川ひとりだけが大成功して、後は長谷部がちょっと足跡を残したという程度かな。

沢田幸弘の「俺たちに墓はない」、曾根中生の「太陽のきずあと」、藤田敏八の「ダイヤモンドは傷つかない」など、
完全に忘れられてる。
長谷部にしても「皮ジャン反抗族」などは忘れられている。

村川の場合、元々‘日活臭’がさぼど強くなくて、東映とウマが合った、- ということか。
しかし東映生え抜きだったとしたら、あの個性は生まれなかっただろうけど。